ー聖霊降臨節第10主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「キリストに助け出されて」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』9章 57~62節
(新約聖書 124 頁).
讃美= Ⅱ162.512.544.
「主にしたがいゆくは いかによろこばしき 心の空はれて 光はてるよ みあとをふみつつ ともにすすまん みあとをふみつつ うたいてすすまん」と『こども讃美歌』の歌を口ずさみますと、キリストとのつながりで活かされる喜びをしみじみ感じます。その一方で口語訳讃美歌244番の1節「ゆけどもゆけども ただ砂原 道なきところをひとり辿る」との歌い出しには、この世の暮らしの中で職場にも家庭の内外にも様々な課題を背負ったときの切なさや辛さが正直に映し出されています。わたしたちの一週間はこの二つの讃美歌の間を揺れ動きながら過ぎていくようにも思います。そしてその揺れ動きはときに動揺となり、時に悔いとなり、深い負い目となり、歯がゆさとなって傷を遺すこともあります。本日の『聖書』の箇所では、イエスと弟子が宣教の旅をする中で「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と語りかける人物がいたと記されます。『マタイによる福音書』では「ある律法学者」の言葉とされています。このような言葉は本日の箇所に限らず、人の子イエスの弟子ペトロもまた、過越の祭の夜の食卓、すなわち「最後の晩餐」の席では「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語っています。このような、いわば「自己申告型」の申し出で自らに従おうとする人々の限界を、福音書で描かれるイエスは見抜いているようで、その人の希望通りには向きあおうとはいたしません。反対に「わたしに従いなさい」と語りかける人々の中には「主よ、まず父を葬りに行かせてください」「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と「待った」をかける者もいます。思えば「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいか」と問いかけた「富める若人」にも自らの財産を売り払った上で貧しい人々に施し「わたしに従いなさい」と語りかけます。しかしその人は悲しみながらイエスのもとを去って行きます。たとえいっときの情熱があったとしても、その情熱の炎が消えてしまうかどうかを見極めるようにイエス・キリストは語りかけます。そして興味深いことに、主イエスはその人の後を追いかけないのです。離れていく人は、離れていくままにいたします。しかしその破れに満ちた中でなおもキリストとの関わりを絶とうとはしない人々が、結果としてキリストに招かれる筋立てになっています。その方がわたしたちにも腑に落ちるというものです。
よく「信仰とは決断である」と言われます。確かに言葉にすればその通りなのですが、人間の心根のみに基づいた決断というものはもろいもので長続きいたしません。むしろそのような大げさな言葉で表現される体験は最初の一歩に過ぎず、途中で教会生活が中断したり、困難の中で自分のこだわりが砕かされたりし、時を経た中であらためてかつての純真な気持ちで向きあったイエス・キリストの足跡や記憶が輝き出すのではないでしょうか。とくにペトロの場合は、その繰り返しの中でキリストに従う道を辿ってきたように思えてなりません。主にある喜びは自らのこだわりや苦悩が底を打って「主に委ねる」ところから始まり、同時にそれがキリストに助け出される道筋となるように思います。十字架の出来事から逃げた弟子たちがキリストの復活を受け容れるまでには、復活の出来事の当事者となった女性たち以上に時を要したと思われます。同時代の弟子たちでさえ、また人の子イエスと同時代に出会った人々でさえそうなのですから、わたしたちにあってはなおさらです。本日の箇所で描かれる匿名の人々もイエスの弟子たちもそれなりに真剣ではあったでしょうが、自分を差し置いて誰かを支えなくてはならないような関わりを求められてはいませんでした。しかしそのような道備えがあって始めて「イエス・キリストを中心にして生きる」という道が拓かれます。そしてそのような道備えは、この場に招かれた方々であれば誰もが身に覚えがあるはずです。
教会とは「行けたら行く」「暇があるから行く」場であるというよりは、「誰かが待ってくれている」からこそ足が向く交わりでもあります。その「誰か」の姿に、一度も見たことのないイエス・キリストの姿が重なるというのであれば、それは神の愛の力、すなわち聖霊の力であるに違いありません。それは劇的にというよりは静かにわたしたちの暮らしを変えていきます。ときにそれは過ちを通して、衰えを通して、病を通して、人生の節目を通して、であります。
ある牧師が戦争に協力しないという罪状で牢に入れられた折、その人柄を知る看守が人目を忍んで様々な悩み事をその牧師に打ち明けに来たと申します。その内容は実に個人的な事柄。公の立場としては監視する側、囚われる側という断絶があります。しかしその牧師は悩みを抱えた看守に「ともに祈りましょう」と働きかけ、実際に祈ったとあります。戦況が悪化し、牧師がより過酷な地下牢に移された折「命令を聞かねば殺されてしまう」と怯える将校にも同じように語り、ともに祈ったとのことです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『脱けだして海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くであろう」とのイエス・キリストの道は誰にも開かれています。キリストがともにいて、助け出してくださるとの平安を分かち合いましょう。