2023年7月27日木曜日

2023年 7月30日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第10主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「キリストに助け出されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9章 57~62節
(新約聖書 124 頁).

讃美= Ⅱ162.512.544. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「主にしたがいゆくは いかによろこばしき 心の空はれて 光はてるよ みあとをふみつつ ともにすすまん みあとをふみつつ うたいてすすまん」と『こども讃美歌』の歌を口ずさみますと、キリストとのつながりで活かされる喜びをしみじみ感じます。その一方で口語訳讃美歌244番の1節「ゆけどもゆけども ただ砂原 道なきところをひとり辿る」との歌い出しには、この世の暮らしの中で職場にも家庭の内外にも様々な課題を背負ったときの切なさや辛さが正直に映し出されています。わたしたちの一週間はこの二つの讃美歌の間を揺れ動きながら過ぎていくようにも思います。そしてその揺れ動きはときに動揺となり、時に悔いとなり、深い負い目となり、歯がゆさとなって傷を遺すこともあります。

 本日の『聖書』の箇所では、イエスと弟子が宣教の旅をする中で「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」と語りかける人物がいたと記されます。『マタイによる福音書』では「ある律法学者」の言葉とされています。このような言葉は本日の箇所に限らず、人の子イエスの弟子ペトロもまた、過越の祭の夜の食卓、すなわち「最後の晩餐」の席では「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と語っています。このような、いわば「自己申告型」の申し出で自らに従おうとする人々の限界を、福音書で描かれるイエスは見抜いているようで、その人の希望通りには向きあおうとはいたしません。反対に「わたしに従いなさい」と語りかける人々の中には「主よ、まず父を葬りに行かせてください」「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と「待った」をかける者もいます。思えば「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいか」と問いかけた「富める若人」にも自らの財産を売り払った上で貧しい人々に施し「わたしに従いなさい」と語りかけます。しかしその人は悲しみながらイエスのもとを去って行きます。たとえいっときの情熱があったとしても、その情熱の炎が消えてしまうかどうかを見極めるようにイエス・キリストは語りかけます。そして興味深いことに、主イエスはその人の後を追いかけないのです。離れていく人は、離れていくままにいたします。しかしその破れに満ちた中でなおもキリストとの関わりを絶とうとはしない人々が、結果としてキリストに招かれる筋立てになっています。その方がわたしたちにも腑に落ちるというものです。

 よく「信仰とは決断である」と言われます。確かに言葉にすればその通りなのですが、人間の心根のみに基づいた決断というものはもろいもので長続きいたしません。むしろそのような大げさな言葉で表現される体験は最初の一歩に過ぎず、途中で教会生活が中断したり、困難の中で自分のこだわりが砕かされたりし、時を経た中であらためてかつての純真な気持ちで向きあったイエス・キリストの足跡や記憶が輝き出すのではないでしょうか。とくにペトロの場合は、その繰り返しの中でキリストに従う道を辿ってきたように思えてなりません。主にある喜びは自らのこだわりや苦悩が底を打って「主に委ねる」ところから始まり、同時にそれがキリストに助け出される道筋となるように思います。十字架の出来事から逃げた弟子たちがキリストの復活を受け容れるまでには、復活の出来事の当事者となった女性たち以上に時を要したと思われます。同時代の弟子たちでさえ、また人の子イエスと同時代に出会った人々でさえそうなのですから、わたしたちにあってはなおさらです。本日の箇所で描かれる匿名の人々もイエスの弟子たちもそれなりに真剣ではあったでしょうが、自分を差し置いて誰かを支えなくてはならないような関わりを求められてはいませんでした。しかしそのような道備えがあって始めて「イエス・キリストを中心にして生きる」という道が拓かれます。そしてそのような道備えは、この場に招かれた方々であれば誰もが身に覚えがあるはずです。

  教会とは「行けたら行く」「暇があるから行く」場であるというよりは、「誰かが待ってくれている」からこそ足が向く交わりでもあります。その「誰か」の姿に、一度も見たことのないイエス・キリストの姿が重なるというのであれば、それは神の愛の力、すなわち聖霊の力であるに違いありません。それは劇的にというよりは静かにわたしたちの暮らしを変えていきます。ときにそれは過ちを通して、衰えを通して、病を通して、人生の節目を通して、であります。

 ある牧師が戦争に協力しないという罪状で牢に入れられた折、その人柄を知る看守が人目を忍んで様々な悩み事をその牧師に打ち明けに来たと申します。その内容は実に個人的な事柄。公の立場としては監視する側、囚われる側という断絶があります。しかしその牧師は悩みを抱えた看守に「ともに祈りましょう」と働きかけ、実際に祈ったとあります。戦況が悪化し、牧師がより過酷な地下牢に移された折「命令を聞かねば殺されてしまう」と怯える将校にも同じように語り、ともに祈ったとのことです。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『脱けだして海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くであろう」とのイエス・キリストの道は誰にも開かれています。キリストがともにいて、助け出してくださるとの平安を分かち合いましょう。

2023年7月20日木曜日

2023年 7月23日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第9主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「争いや駆け引きとは異なる交わり」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』8章1~3節
(新約聖書 117 頁).

讃美= 294,352.544. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 本日の福音書の箇所では、人の子イエスと12人の弟子の働きを黙々と支えていった女性の名前が列挙されています。則ち「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、その他多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。

 この一文からは、人の子イエスに従っていったのは12弟子だけでなく、陰ながら弟子も含めて世話をした女性たちの存在を浮き彫りにしています。この女性の群の描写にとりわけ奥深さを感じるのは、女性各々に留まらず、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」、つまりイエス・キリストの生涯に憎しみや嫉妬をもってこの世の影のようにまとわり続けるヘロデ一族の召使いの実質的な「長」の伴侶が、人の子イエスを支えていたという記事です。『マタイによる福音書』では東からやってきた三人の博士から面と向かってユダヤ人の王であるとの地位を「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられるのか」との問いによって否定され、王権を守るためにベツレヘムの二歳以下の男の子を殺害したというヘロデ大王、またその息子たちの乱行の数々を目のあたりにしたその責任。この一族に忠実に仕えるほかなかった伴侶のクザと気持ちを通わせながら、地下水脈のようにネットワークを張りめぐらせて、命がけで奉仕していった女性たちの名前が記されます。「その他多くの婦人」一人ひとりの置かれた立場の複雑さを象徴しながらも「イエスに一心に仕えたい」との願いに突き動かされてこの女性は献身的に仕えたと思われます。

 凡そ古代の物語の中で、神格化された女神のような存在は別として、このような「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた婦人たち」という言葉に始まる女性の名前が明記されてイエスと12弟子に欠かせることのできない、柱としてのわざを担っていたと記す書物は稀です。女性の労と申しますものはここ30年ほどのとりくみとして関心を寄せられては来たものの、その道筋には多くの紆余曲折がありました。まずは自らのありのままを否定され、ハラスメントも甘んじて受けながら仕事に励むというところに始まり、家族との関わりも犠牲にするという時を経て、やりたい事柄を放棄しながらようやく今日の状況があります。それでもまだ道半ばというところにあって、何事かのスペシャリストでも何でもない、むしろ過去に病を得ていた女性たちがこのようにしてキリストと12弟子を支えていくのです。

 その奉仕のあり方と対照的に、12弟子たちの姿はなんと愚かな振る舞いを呈していることでしょうか。同じ福音書の9章46節では「弟子たちで、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。このような争いは福音書の中では幾度も記されるところです。一般に「嫉妬深い」との言葉は漢字にすれば女偏で記されますが、福音書では男性の「嫉妬深さ」が弟子たちの中にも見出されるばかりか、その「嫉妬深さ」がやがて権力者のイエスへの殺意にも繋がっていく様子がありありと描き出されます。争いや駆け引きに満ちたこのような関わりは、イエスと弟子たちを支える女性のあり方とは無縁です。イエスを支えた女性たちは病に苦しみ、悪霊に取り憑かれ、偏見から蔑まれ、家族を失うという悲しみを知っています。12弟子にこのような描写はなされないところが、福音書記者が聞き及んだ、そしてわたしたちも今耳にしているメッセージではないでしょうか。

 やがて来るべき時、すなわち十字架での殺害と埋葬とを経て、イエス・キリストの復活を目のあたりにする人々を『ルカによる福音書』で列挙いたしますと、次の人々となります。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、11人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア=イエスの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。この一文には、イエスを支えた女性たちの労が一時のものではないばかりか、語る復活の報せが当初は使徒たちから拒絶された事態をも示しています。逆に、教会が古代ユダヤ教の一グループではなく、キリストの教会として神の愛のもとに立つためには、この女性たちの証言が欠かせなかったと証ししています。ある人は申します。初代教会の最も初期の指導者はこのようなキリストの復活証言を伝えていった女性たちであったが、それが次第に男性へと入れ替わっていったと。

 しかしながら父権的な言葉を見せるパウロでさえ『ローマの信徒への手紙』16章では、一人ひとり名前をあげて、女性への感謝と賛辞を惜しもうとはいたしませんでした。世界各地から戦争の報せが絶えない世にあって、イエスと弟子を支える群に加わった人々の姿に注目する態度は、力や謀で世を統治しようとする態度とは全く別のあり方でも、世の交わりを編みあげられる様を証明しています。病を経るほどに繊細な感受性が、今ほど求められている時代はありません。イエス・キリストの招きがあります。

2023年7月13日木曜日

2023年 7月16日(日) 礼拝 説教

    ー聖霊降臨節第8主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「神に愛され、人に赦されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』7 章36~43 節
(新約聖書 116 頁).

讃美= 217,452.544. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 ファリサイ派または律法学者といえば、福音書の舞台では知識人階級とされる人々。わたしたちには気難しく巻物の『聖書』を開いてあれこれと議論に時を費やすイメージが先行しがちですが、他方でその時代にはエルサレムの議員になる資格もあり、回心前のパウロのようにローマ帝国の市民権をもつものいたり、「ユダヤの民」とローマ人から見なされてはいても、事実上は対等に振る舞える者もいたりしました。

 そのようなファリサイ派の者の目からすれば、イエスと語らった者は別として、人の子イエスが交わりを深めた群衆(オクロス)など概して人の数には入らなかったとしてもあながち間違いではなかったと思われます。

 本日の箇所では、イエスに関心を寄せるファリサイ派の人物がイエスを食卓に招いたところから始まります。彼の名前はシモン。イエスの弟子のペトロと同じ名の別人である可能性があります。人の子イエスはこの誘いを断ろうとはせず、臆することなくその招きを受けます。ファリサイ派の男が何を食卓の話題にしようとしたのか、それはわたしたちには知る由もありません。なぜならイエスとファリサイ派の人々の宴席での語らいは、一人の女性の登場によって中断されてしまうからです。『ルカによる福音書』ではこの女性を「罪深い女性」と書き記します。どのように罪深かったのか。例えば女性の尋常ならざるあり方について『聖書』は「やもめ」という言葉も用います。しかしながら伴侶と別れ、一人暮すほかない女性を別段『聖書』の舞台では蔑まれる様子はありません。このような「食卓」や「宴」の場面に登場する罪深い女性とはいったい誰を指すというのでしょうか。

 19世紀フランス印象派の画家エドガー・ドガの描いた作品に「舞台の踊り子」があります。ドガは様々な角度から踊り子をテーマとして描いた画家として知られていますが、注意しますと、どの踊り子も某かの影を背負っているように思われます。1878年に描かれた有名な「舞台の踊り子」にしても、舞台の後ろに黒服の男性が描かれており、それはパトロンだとされています。このようなパトロンに19世紀の踊り子は支配されていたというのです。言わんや、宴席で舞いを舞う「白拍子」のような女性もまた、このような元締めに支配され、穢れた職業を生業とする者だと見なされた可能性もあります。「罪深い女性」と向きあうファリサイ派。シモンは胸の内にこの女性を非難し始めます。「この人がもし預言者なら、自分に触れている人がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。この非難はイエスと罪深い女性の二人に向けられています。他方で女性の内面は一切描かれず「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」とあるだけです。女性の心にも口にも言葉はなく、ただその振る舞いだけがイエス・キリストへの思いを表わします。

  しばしの沈黙が続いた後に、「シモン、あなたに言いたいことがある」と名指しして語りかけます。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。シモンは即答します。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」。イエスは「そのとおりだ」と答えた上で、女性を見つめながら「この人を見ないか。わたしがあなたの家にはいったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた」。「だから、行っておく、この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。そして女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけます。

 一般に教会での倣いとして「証し」があります。それは教会員自らの体験を通して、自分がいかにキリストとの出会いに導かれたかを、おもに言葉を通して語るというものです。しかしまことの救いと申しますのは、人前で語るにあたってあまりにも時を要する場合もあり、勇気も無理も要るものです。しかし神の愛につつまれ、大切にされたその喜びは、語るまでもなくその人のわざを通して明らかにされます。多様性に富んだ喜びのわざ。罪深いとされたこの女性は、ひと言も発することなく、イエス・キリストとの出会いの喜びをファリサイ派の冷たい眼差しを怖れずに明らかにしました。イエスは女性に「あなたの罪は赦された」と語ります。今や女性を好奇と侮蔑の眼差しで見ていたファリサイ派の人々と女性の立場が逆転します。この箇所で描かれている人々すべてが、ファリサイ派も含めてすべての人々が赦されています。しかしその赦しがその人の喜びとなっているかどうかが「証し」の最も根本的な鍵ではないでしょうか。多様性にあふれた「証し」には無理がありません。教会での奉仕も尊い証しです。交わりも尊い証しです。人と出会いもまた尊い証しです。仕事もまた証しです。誰かを受け容れられるようになればそれもまた尊い証しです。病床の苦しみにあって祈りがあればそれも尊い証しです。世は証しに溢れています。そこに神の愛への喜びがあるならば。

2023年7月6日木曜日

2023年 7月9日(日) 礼拝 説教

   ー聖霊降臨節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「還ってきた息子を迎える母の喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』7章 11~17節
(新約聖書 115 頁).

讃美= 298,526.544.
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【説教要旨】
 本日の聖書箇所は、ローマ軍の将校の僕を病床から救った人の子イエスが、ナインという町に入ったところより始まります。弟子や大勢の群衆も一緒であったと記されます。イエスが町の門に近づくとそこでは葬儀が執り行われていました。ある母親の一人息子が逝去し、出棺の場にイエスは立ち会うこととなりました。母の手ひとつで育てあげてきた息子は息絶え、棺の中に横たわるばかり。逆縁の痛みに付添う人も涙に暮れています。イエスはこの母親を見て憐れに思い「もう泣かなくともよい」と言い棺に近づいて手を触れたとあります。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。すると死人は起き上がってものを言い始め、イエスは息子を母親に返し、人々は神を讃美したという物語です。この物語と重なるのは『ヨハネによる福音書』の「ラザロの復活」として知られるエピソードです。亡くなって四日、異臭が漂うラザロの遺体にイエスが祈り、そして「出て来なさい」と叫ぶと手足を布で巻かれたまま青年が墓から出てきたとの物語。多くの作家がこの物語をベースにして「死に勝利するいのち」とのテーマで作品を世に送り出してきました。

 しかし本日の『聖書』の箇所に感銘を受けながらも、日本語の「もう泣かなくともよい」との訳に、この言葉は適切であったかどうかと考え込むところもなくはありません。明治二〇年訳では「泣くな」とストレートに表現します。場面の緊張感を表わすにはこのようなシンプルな訳のほうが適っているかも知れません。けれども訳をたどってなお胸につかえるのは、おそらくは一人息子であったろうこの寡婦の息子の場合でも、ラザロの復活の場合でも「遺体がそこにあり、葬儀が行なわれた」というところ。わたしたちは遺体すら遺らぬままに葬儀を行なう他なかった母たちの悲しみを知っているという意味では、様々な思いに駆られます。当事者にとって悲しみや苦しみは決して比較できない事柄であり「○○はもっと悲嘆に暮れている」などという言葉は厳に慎むべきであります。しかし棺の中に石ころしか入っていなかった言い伝えをわたしたちは78年前から耳にしています。例えば広島の原爆によって灰燼に帰したがれきの中から掘り出された七万柱の遺骨は、今なお引き取り手のないままに、平和記念公園の片隅に保管されています。古代社会だったからこそ悲惨であった民衆の暮らしと、現代ならではの地球規模の危機の間をわたしたちは行きつ・戻りつしながら『聖書』のテキストに向きあっています。七万柱の遺骨の中には、実際には引き取られるべきご家族がいるものもあります。しかし戦後の混乱の中で他の人の遺骨を家族のものとして納骨した結果、それとしては知られながらも敢えてそのままにされているご遺骨があります。イエス・キリストがもしそこにいるならば「もう泣かなくともよい」とご遺族だけではなく、不条理さを抱えながら天に召された方々にも語りかけるのではないでしょうか。

 そう考えますと、あらためて復活という出来事は、血筋や血縁をそれとして受けとめながらも、そのような世の繋がりを越えていく出来事であると再確認されていく道にあります。神がその愛をもってすべてを統治される復活のときには、すべてが新たにされると『聖書』にはあります。何より証拠には、悲嘆に暮れるやもめと棺の中の若者の関係は親子であるとの描写はあっても、血のつながりがあるかどうかは問題にされておりません。血のつながりがあろうとなかろうと、息子に先立たれれば親は悲しむのは当たり前で、それは遺体のありなしを問いません。このようなところで「もう泣かなくともよい」との言葉は、あらためて死が終わりではないことをいかなる状況の中でも告げる宣言として響きわたります。弔いの嘆きが深いほどに、いのちの輝きは否応にも増していくのであります。棺から還ってきた息子を迎える喜びの母親の涙が、悲しみの涙にとって変わります。

 このところ泉北ニュータウン教会出身の牧師の方々とお会いする機会も少なくありません。最近では5月にお母様を天に見送られたS牧師、そしてご伴侶と告別式にいたるまでお話しをさせていただきました。悲しみの中にも心和むことに、お二人は養子としてSさんを授かり、そのお陰で告別式にも斎場の待合室にも温かな光が灯されていたようにも記憶します。『ルカによる福音書』で描かれているのは逆縁の苦しみであり、『ヨハネによる福音書』で描かれるのはかけがえのない兄弟を失った姉妹の物語であり、原爆供養塔にはひきとる家族もいない犠牲者の姿が象徴されています。しかし、『旧約聖書』『新約聖書』を一貫して描かれる死者の復活の物語とは、神の前には癒されない悲しみはないという事実を示し、イエス・キリストはどのような道筋にあって召された人にあっても、その無念さに寄り添い、決して一人にはしないとの約束を宣言いたします。なぜなら、イエス・キリストは十字架にあって「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神に見捨てられた絶望の中、身動きのできない人々の苦しみを自ら担ってくださった救い主だからです。夏とともに、わたしたちはいのちの終わりといのちの始めを思います。その要となるのは救い主イエス・キリストとの出会いです。キリストを通して歴史の問いかけに耳を澄ませましょう。