時間:10時30分~
説教=「かけがえのないあなた」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』15 章1~10 節
(新約聖書 138 頁).
讃美= 313,534.540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
何度計算し直しても帳尻の合わない一日の業務の仕上げとしての決算。次々と家畜が生まれるシーズンとなったため、出産の繁忙期で汗を流す畜産関係者。現代でも、福音書の時代でも、一見すると異なる業種の関心事を通して、福音書の書き手はイエス・キリストの伝えた人が神の赦しと恵みに気づく喜びの瞬間を語ります。どちらも忙しさの中で起こりがちな「ついうっかり」という場面を用いながら、巧みに物語の構成を整えることで、神の愛に気づかない、あるいは神の愛から逸れていく人のありようというものを描きながら、最後にはその人のありかたが洩れなく神に受け容れられていく様子がユーモアを交えて描かれます。
事の次第はローマ帝国の支配の最末端で人々から税をとりたてる者、すなわち徴税人や、古代ユダヤ教社会の一般常識からは様々な事情によりほど遠い暮らしをする他なかった人々とイエスとの交わりに律法学者やファリサイ派の人々が難癖をつけたところから始まります。向き合う主イエスが『旧約聖書』の解き明かしではなくて譬え話を語るのは、明らかに聴き手を意識しているようです。その聴き手とは律法学者たちというよりはイエスと食卓さえ囲んだところの、罪人と呼ばれる人々に重きを置いています。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて『一緒に喜んでください』と言うであろう」。イエスの誕生物語で描かれますように、羊飼いは決して一人ではその務めにはあたりません。ですから九十九匹の羊の安全は確保されてはおりますが、この物語の鍵とは「羊を数で数えている」ところにあります。羊を数で数えるのは羊飼いではなくてその上に立つ羊飼いの管理人です。現場の羊飼いは羊それぞれに名前をつけてその名を呼び、羊はその声を聞き分けて集まってくるという具合になります。ですから数で数えられている点では知識人階級であるところの律法学者、テキストには描かれませんがそこにいた羊飼いの描写はイエスと交わりをともにした人々に向けられているという仕組みになっています。しかも見失われた羊は担がれて運ばれてまいります。自力での歩行が困難であり、何らかの怪我か障碍を負っている、つまり市場価値という観点からすれば疑問が呈されるという意味で欠けを負っている羊です。
譬え話はこの物語だけでは終わりません。銀貨を十枚持っている女性がそのうちの一枚を無くした、という忘れっぽい女性が描かれます。1ドラクメは一日の賃金に相当する額。庶民にはまことに貴重な額であり、別段この女性ががめつい訳ではありません。わたしたちがそうするようにこの女性は必死になって銀貨を探します。それこそ電気のない、今よりも暗がりの多い時代ですから、ともし火をつけて家捜しをし、そして終にはその銀貨を見つけます。友達や近所の女性たちを呼び集めて「無くした銀貨を見つけましたから喜んでください」。それがこの女性の言葉です。
しかし輪をかけて不思議なのは、市場価値とはほど遠い、自力で歩けない羊を見つけた羊飼い、また何のことはない、自分の物忘れや不注意で無くしたはずの銀貨を見つけた女性が「友達や近所の人々」「友達や近所の女性」を集めて「一緒に喜んでください」と呼ばわるところです。何の関わりもない人からすれば、その程度のことで騒ぎなさんなという話になるかもしれません。けれども「一緒に喜んでください」と言うからには、ともに喜んで暮れる人々がいたという交わりがあったということとなります。そして羊飼いには自力で歩けない羊が、女性には一枚のドラクメ銀貨が、安全圏にある羊や財布に収められた銀貨とは異なる価値を持っていたという解き明かしはできないでしょうか。なぜ銀貨の譬え話をしたのかといえば、そこには徴税人がいたからです。なぜ見出され、担がれて帰ってきた羊の話をしたのかといえば、おそらくは文字の読み書きどころか、抽象的な計算能力すら持ち合わせていない、しかし人との出会いを決して忘れない人々がいたからです。そのような人々がイエス・キリストとともに食卓を囲んでいたからではないでしょうか。そして咎め立てをする律法学者たちに向けられた「あなたがたには悔い改めの喜びはあるのか」「神の恵みをあなたがたは本当のところどこで見出しているのか」という問いかけが隠されているように思えてならないのです。
『聖書』で描かれる世界の人々は、まだアラビア数字というものを知りません。また、お金の勘定以前の可否以前の問題として、文字の読み書きすら覚束ないという人々が9割以上も占めていました。ユダヤ教社会から蔑まれていた、同胞からの税の徴収に喜んで従事した人々が本当のところいたかは分からず、また充分な律法の養いを得なかったからこそ遠ざけられた無名の人々もいたはずです。「お前の代わりなどいくらでもいる」と幾度も蔑まれた人々を、イエス・キリストは「あなたはかけがえのない人だ」「あなたは大切な人なのだ」とその人を前にして呼びかけ交わりをともにしました。数値評価以前の出来事として、神の愛は息づかいのある姿をとり世に現われました。救い主は、「あなたは大切なのだ」とわたしたち一人ひとりに今も呼びかけています。