ー聖霊降臨節第4主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「キリストが授ける尊厳と癒し」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』8 章 40 ~ 48 節
(新約聖書 120 頁).
讃美= 300,121.540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
学生時分に通学のため、アパートを出たらば血まみれの男性が横になっていました。事件に出くわすとは思わなかっただけに、ただ警察に連絡するのが精一杯だった学生時代でした。それも一度や二度ではなかったため、最初は授業に遅刻して対応していたのにも拘わらず次第に慣れ、また地域の人の忠告も受けた結果、そのような人を避けながらの通学を覚え、そして結局は経済的な事情も相俟って大学の自治寮で暮すようになりました。振り返れば大学では『聖書』を学んでいたわけで、それだけに「善きサマリア人の譬え」が今でも胸に突き刺さって止まないところです。出会いとは本来は選び得ないはずなのに、わたしは道端に倒れた行き倒れの人を避け、JRの環状線に乗って通学していました。それが逃げなのかどうかは分かりませんが、ただ必死だったというのは言い訳です。その後何度も炊き出しに出かけても、どのような奉仕活動を行なっても、行き倒れの男性の姿は消えません。
そのような凡人の目からすれば、本日の聖書の箇所によれば、イエスはどのような不測の事態も拒まなかった様子が描かれます。救いを求めてきた人は誰もが深刻な事情を抱えており、その必死さを較べるなどはできません。「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」。救いを求める群衆が集うところに、ヤイロという人物がまいります。この人は「会堂長であった」とあるように、古代ユダヤ教の礼拝堂の管理を任されている者で、決して身分の低い者ではありません。しかしこの人は人生がこれからという娘のいのちの危機を救って欲しいと懇願いたします。あくまでも先に約束を入れたのはヤイロでした。
しかしヤイロの家を訪ねにいく途上、群衆がまたも押し寄せてきます。その中でもクローズアップされるのは12年もの期間、出血が止まらず、医者に全財産を使い果たした女性が描かれます。わたしたちの時代とは異なり、この時代の女性の結婚は家同士が決めるもので、病臥に伏せっているヤイロの娘は二年もすれば婚約者を備えられる年齢となります。片や「死にかけていた」というヤイロの娘、そして片や娘が生まれてからこのかたずっと、結婚以前の問題として妊娠・出産に関わる病に罹患し、その時代の女性としての人格を否定され、財産も尽き果てた無名の人が近づいていきます。この女性は正面からイエスに救いを求めようとはせず、後ろからイエスの服の房に触れて、せめてもの関わりをもとうといたします。弟子のペトロでさえ誰が触れたのか分からず、当のイエスでさえも「わたしに触れたのはだれか」と問わずにはおれない秘めたる関わりがあります。
以前わたしは、以前「細々とした信仰」についてお話しをみなさまにお伝えしたことがありました。生活をとりまく状況が変わり、教会と日常的に関わりが持てなくなるという状況に陥るのは、老若男女を通して誰もがあり得ることです。しかしその人の中で燻るようなキリストへの思いがあれば、またたとえ傷ついても葦のような折れない記憶があれば、いずれそのような信仰は時を重ねる中で新たな神の恵みへの気づきが備えられ、息を吹き返し、涙の川を越える橋がかかるというものです。震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第を皆の前で話す女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とイエスは語りかけます。老いを隠せないこの女性に「娘よ」と呼びかけるキリストの言葉は、身体の癒しとともに、新しい人生の可能性を示しています。
ただし、このイエスの服に触れた女性の話はあくまでもヤイロの家へと赴く途上の出来事でしかありません。ヤイロからすれば一刻も早く自宅へ到着して欲しかったことでしょう。途中から割り込むように入ってきた女性との関わりなど放っておいて、娘のもとにたどり着いて欲しいとの憤りと焦りで一杯だったことでしょう。無名の女性とは対照的に「お嬢さんは亡くなりました」との使い番の声が、この本日の箇所の後に虚しく響き、「この上、先生を煩わすことはありません」と、遠回しではありながらも悲しみに満ちた憤りがイエスにぶつけられます。しかしイエスは会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と語りかけ、人々の悲嘆と嘲りの声の中で「泣くな。死んでのではない。眠っているのだ」と語ります。ヤイロの娘もまた癒され、起き上がるという物語が本日の箇所に続いて記されてまいります。
わたしたちが「万策尽きた」「もう駄目だ」とうなだれるとき、ある人は「苦しみとは二重にも三重にも押し寄せてくるものだ」と表現されていました。無名の女性も、ヤイロ自らも、ヤイロの娘も、群衆も、ヤイロの娘の具合に絶望して泣き悲しむ人たちも、ついには押し寄せる困難になすすべなしと黙り込むほかない人々でした。しかしそのような、予想不可能な二重三重の苦しみを、イエス・キリストは受けとめながら、黙って近づき寄り添ってくださります。キリストが授ける尊厳と癒やし。道端にいたあの男性は帰宅後にはいなくなっていました。巡回中の警察が対応したとのこと。充分な治療を受けられていたらと今でも願います。