ー聖霊降臨節第3主日礼拝ー
花の日・こどもの日礼拝時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「どんなものでもわけあおう」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』6章5~14 節
(新約聖書 174 頁).
讃美= 「せかいのこどもは」「きみがすきだって」
「どんどこどんどこ」「どんなにちいさいことりでも」
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
おともだちのみなさんは、イエスさまが好きな人ばかりだと思います。それはイエスさまがとってもやさしくて、生きるのがつらかったり、力が弱かったり、いじめられている人の味方となって支えて慰め、どんな力の強い人を相手にしても、どんな大人数を相手にしても、全く関係なく「正しいことには正しい」「間違っていることには間違っている」と言えた人だったからです。
今日の『聖書』のお話しでは、病気の苦しみを癒してもらった人が大勢イエスさまを追いかけてきたところから始まります。お日さまも少しずつ傾き、お昼過ぎになってきました。朝にお日さまが昇ってから沈むまでがこの時代の一日でした。ですから人々は一日二食の食事を食べていました。電車も何もありませんから、どこかへと行くときにはいつも歩きです。コンビニエンスストアやハンバーガーのお店もありません。ですから出かけるときには必ずお弁当をもって出かけました。ただしお弁当といっても粗末なもので、大麦を焼きしめた塊と、魚の干物しか持ちあわせていません。今日の『聖書』のお話で「パン」とあるのは、本当のところは焼き固めた粗末な大麦の塊と、お魚を干したものしかないのです。けれどもそんな粗末な食べ物さえ全員に与えるには200万円ぐらいはかかるだろうと、イエスさまのお弟子たちは考えました。集まった人々はそれほど多かったのです。「どうしたものだろうかなあ」と弟子は思い悩むばかりでした。そんなとき、あるおともだちが「いいいよ、これ食べてよ」と五つのパンと二匹の魚をすべてお弟子さんにわたしました。でもお弟子さんたちは口をそろえて「大勢人が集まっているのに、これっぽっちでは何の役にも立たないよ」と文句を言うばかりでした。これでは何の役にも立たないよ、と弟子は口々に言いました。
けれどもイエスさまは違いました。おともだちがわたしてくれた大切なお昼の食事をやさしく見つめながら、集まった人たちを野原にすわらせました。ふかふかした草の上で身体がほぐれた人々はたちまちお腹が空いてきます。お弁当のある人もいます。お弁当のない人もいます。お互いに気にしながらキョロキョロ周りを見ています。
そんなとき、さっきのおともだちからもらった五つのパンをとって、イエスさまは神さまに感謝の祈りを献げてから、人々に配り始めました。お魚の干物も同じようにして配りました。小さなおともだちが素直な気持ちで「これ食べてよ」といってくれたパンと魚です。お弟子さんが「これっぽっちでは何の役にも立たないよ」といった、本当に貧しいお弁当です。けれどもイエスさまのお祈りが、お金では測れない神さまの愛の力を人々に注ぎました。おともだちはパンと魚をイエスさまにわたした後、何が残るのでしょうか。何も残らないはずです。ちいさなおともだちでさえそうした献げものをしています。それをイエスさまは神さまに感謝しています。おとなはどうするのでしょうか。布の袋にしまっておいたお弁当。近くに座る人にはお弁当のない人もあります。こんなお弁当、わけるなんでできっこないと思っていた大人は大勢いました。袋に入れたまま、隠していた大人もいました。けれどもイエスさまのお祈りで、みんなで少しずつでも分ければ、誰もおなかをへらさずにすむことに気づいたのです。「だめだ、これしかない」から「安心した。こんなにある」へと変えられたのです。食べものは神さまがくださるものです。それだけではありません。これまで何もお話ししなかった人々の間で「どこから来たのですか」「おなかは減りませんか」「あのちいさなこどもはどこから来たのかな」「寒くありませんか」「大の大人がご飯を独り占めでは恥ずかしいなあ」といろいろなお話しができる間柄が生まれました。12人のお弟子さんたちはびっくりしました。だって、お金がなければ何もできないと思い込んでいましたから。でも、イエスさまがいてくださるところでは、だれも一人ぼっちで「おなかが減った」と悲しむ人はいなかったのです。
イエスさまが神さまにお祈りをして人々に配ったのは、食べ物ばかりではありません。小さなおともだちの素直な気持ち、そしてこれからはどんなちいさなよろこび、辛い目にあったときに感じる辛さをわけあう気持ちです。こういう気持ちをわけあうならば、しんどいときも、たのしいときも、かなしいときも、けっして一人で苦しむことはありません。必ずだれかがみていてくれています。支えてくれます。うれしいことは分ければ倍になります。辛いことは分ければ半分になります。そのためにも、イエスさまがあるいた道をいっしょに進んでいきましょうね。イエスさまもみんなを支えてくださっています。うれしい気持ちだけでなく、さみしい気持ちも、イエスさまはどんなものでもわけあってくださります。
けれどもイエスさまは違いました。おともだちがわたしてくれた大切なお昼の食事をやさしく見つめながら、集まった人たちを野原にすわらせました。ふかふかした草の上で身体がほぐれた人々はたちまちお腹が空いてきます。お弁当のある人もいます。お弁当のない人もいます。お互いに気にしながらキョロキョロ周りを見ています。
そんなとき、さっきのおともだちからもらった五つのパンをとって、イエスさまは神さまに感謝の祈りを献げてから、人々に配り始めました。お魚の干物も同じようにして配りました。小さなおともだちが素直な気持ちで「これ食べてよ」といってくれたパンと魚です。お弟子さんが「これっぽっちでは何の役にも立たないよ」といった、本当に貧しいお弁当です。けれどもイエスさまのお祈りが、お金では測れない神さまの愛の力を人々に注ぎました。おともだちはパンと魚をイエスさまにわたした後、何が残るのでしょうか。何も残らないはずです。ちいさなおともだちでさえそうした献げものをしています。それをイエスさまは神さまに感謝しています。おとなはどうするのでしょうか。布の袋にしまっておいたお弁当。近くに座る人にはお弁当のない人もあります。こんなお弁当、わけるなんでできっこないと思っていた大人は大勢いました。袋に入れたまま、隠していた大人もいました。けれどもイエスさまのお祈りで、みんなで少しずつでも分ければ、誰もおなかをへらさずにすむことに気づいたのです。「だめだ、これしかない」から「安心した。こんなにある」へと変えられたのです。食べものは神さまがくださるものです。それだけではありません。これまで何もお話ししなかった人々の間で「どこから来たのですか」「おなかは減りませんか」「あのちいさなこどもはどこから来たのかな」「寒くありませんか」「大の大人がご飯を独り占めでは恥ずかしいなあ」といろいろなお話しができる間柄が生まれました。12人のお弟子さんたちはびっくりしました。だって、お金がなければ何もできないと思い込んでいましたから。でも、イエスさまがいてくださるところでは、だれも一人ぼっちで「おなかが減った」と悲しむ人はいなかったのです。
イエスさまが神さまにお祈りをして人々に配ったのは、食べ物ばかりではありません。小さなおともだちの素直な気持ち、そしてこれからはどんなちいさなよろこび、辛い目にあったときに感じる辛さをわけあう気持ちです。こういう気持ちをわけあうならば、しんどいときも、たのしいときも、かなしいときも、けっして一人で苦しむことはありません。必ずだれかがみていてくれています。支えてくれます。うれしいことは分ければ倍になります。辛いことは分ければ半分になります。そのためにも、イエスさまがあるいた道をいっしょに進んでいきましょうね。イエスさまもみんなを支えてくださっています。うれしい気持ちだけでなく、さみしい気持ちも、イエスさまはどんなものでもわけあってくださります。