ー聖霊降臨節第6主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「一期一会の喜び」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』17 章 11~19 節
(新約聖書 142 頁).
讃美= 453,234.544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
本日の箇所では、人の子イエスがエルサレムに上る道中でサマリアとガリラヤの間を通ったとの書き出しから始まります。ある村に入りますと、重い皮膚病に罹患した10人が出迎え、敢えてイエスに近づかずに遠くに立ち止まったまま「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びます。重い皮膚病とはギリシア語では「レプラ」と呼ばれ、新共同訳の『聖書』でも初期に出版されたものでは「らい病」と訳されていたかと記憶します。ただし『新約聖書』の「レプラ」と記される病が現代でいう「らい病」、すなわちハンセン病をそのまま示しているかどうかが分からないということ、そして「らい」という言葉にまつわる近現代の扱いがあまりにも悲惨で、確かに「らい病」という病を癒したイエスの物語に癒された人々は今日までいたものの、様々な悲しみを想起させるというところから「重い皮膚病」との訳に手入れをされたと聞き及んでおります。もちろん『新約聖書』の舞台での「重い皮膚病」とは、19~20世紀の日本でのらい病に劣らないほど患者の人格を否定する対応が処されたと言われています。『マルコによる福音書』では重い皮膚病に罹患した患者がイエスのもとに来てひざまずいて癒しを願う、という描写がなされますが、これはその時代のユダヤ教の誡めと倣いには反する行為でした。ですから本日で遠くの方に立ち止まったまま助けを乞い願うというあり方のほうが、その時代の誡めに則していると言えます。この箇所でイエスは患者たちに触ることなく遠くの方にいるその姿を見て「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われます。祭司が、感染症が治ったかどうかを、清められたかどうかという基準で判断しますので、当然の判断だと言えますが、その道中で10人の患者の病は癒されてまいります。この経緯までは福音書にあるところの型どおりの癒しの物語だとも言えます。しかし問題はその後。自分が癒されたのを知って大声で神を讃美しながら戻り、イエスの足下にひれ伏して感謝したのは一人のサマリア人であり、他の9人のガリラヤ人は癒されたまま戻ることもなく、感謝もなかったという事件です。サマリア人とガリラヤ地方に暮す人々は交わりがなく、サマリア人は『旧約聖書』の時代にさかのぼれば神に逆らった結果、外国人の血の入った穢れた人々だということで遠ざけられていました。この喜ぶサマリア人を迎えて、心中穏やかでなかったのはいったい誰だったのでしょうか。
それはイエスに従っていた弟子たちではなかったかと考えられます。同胞であるはずのガリラヤの人々は人の子イエスに癒されるやいなや立ち去ってしまい、事実上神を讃美しながら喜びとともにイエス・キリストの足下にひれ伏したのはサマリア人であったという結末。サマリア人とは古代のユダヤ教の因習に囚われてもいた弟子達には「招かれざる客」でもあったはずです。しかしこのような仕方で教会の交わりは神の祝福と多様性、そして喜びにあふれる集いとして育まれてきたのではないでしょうか。
二ヶ月ほど前、堺市西区の前任地の教会でときに厳しく、ときに誠実に向きあってくださった教会員を、わたしは天に見送りました。理に適っているだけに、譬えお叱りを受けたとしても決して不愉快にならない不思議な方でした。前任地の教会員が司式担当の若い牧師に頼み、稲山まで訃報が届きました。確かに教会だけ、しかも概ね五家族だけで構成されている教会ではいろいろな出来事がありました。例えば「ちょっとお話しがあるのですが」との不意の来客を断るわけにいかずお話しを聞くうちに実はお金の無心である場合もあります。けれどもお時間をいただいてドリップコーヒーを整え、訪問者自身に留守番を頼んで近所のケーキ屋さんに走ります。その上でお話しを伺ううちに実はお金の無心は口実で、立ち入った話を聞いて欲しかったとのことで、予定の仕事は大幅に遅れますが、その分「お金は要りません。ただ話を聞いて欲しかっただけです。気持ちの整理がつきました。大丈夫です」と見送ることもしばしば、でした。「先生もお人好しですね」と召された教会員に笑われながらも、教会が少しずつ新たに地域から関心を寄せられるようになったのは嬉しいかぎりでした。すえた匂いのする服を着た訪問者を、釜ヶ崎の生活相談のNPO法人に連れていき、当事者に叱られることもある一方で、後々感謝されて一度だけ礼拝に出席してくださった方もおられました。思えばある時にはわたしたちはイエス・キリストに癒されながらもお礼のひとつも伝えようとしない10人のうちの9人であるかもしれず、たった一人でキリストのもとに喜びのあまりひれ伏しに来るサマリア人になるかもしれません。どうなるかは主なる神に委ねながらではありますが、キリストを頭とした教会の豊かさは、サマリア人もユダヤ人であったイエスの弟子たちもともに神を讃える群れとして祝福されるところにあるとは言えないでしょうか。弟子達の思惑とは異なった交わりが今ここで育まれようとしています。これまで教会を支えてきた教会員の望みとは異なった交わりが今ここで育まれようとしているかも知れません。けれども最も大切な事柄とは、「神を讃美しながら戻り、イエスの足もとにひれ伏して感謝する」群れであるということに尽きます。イエス・キリストとの、週毎でありながらも、実は一期一会であるところの出会いでもある交わりを尊び、喜びたいと願います。