2023年6月28日水曜日

2023年 7月2日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一期一会の喜び」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』17 章 11~19 節
(新約聖書 142 頁).

讃美= 453,234.544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 本日の箇所では、人の子イエスがエルサレムに上る道中でサマリアとガリラヤの間を通ったとの書き出しから始まります。ある村に入りますと、重い皮膚病に罹患した10人が出迎え、敢えてイエスに近づかずに遠くに立ち止まったまま「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びます。重い皮膚病とはギリシア語では「レプラ」と呼ばれ、新共同訳の『聖書』でも初期に出版されたものでは「らい病」と訳されていたかと記憶します。ただし『新約聖書』の「レプラ」と記される病が現代でいう「らい病」、すなわちハンセン病をそのまま示しているかどうかが分からないということ、そして「らい」という言葉にまつわる近現代の扱いがあまりにも悲惨で、確かに「らい病」という病を癒したイエスの物語に癒された人々は今日までいたものの、様々な悲しみを想起させるというところから「重い皮膚病」との訳に手入れをされたと聞き及んでおります。もちろん『新約聖書』の舞台での「重い皮膚病」とは、19~20世紀の日本でのらい病に劣らないほど患者の人格を否定する対応が処されたと言われています。『マルコによる福音書』では重い皮膚病に罹患した患者がイエスのもとに来てひざまずいて癒しを願う、という描写がなされますが、これはその時代のユダヤ教の誡めと倣いには反する行為でした。ですから本日で遠くの方に立ち止まったまま助けを乞い願うというあり方のほうが、その時代の誡めに則していると言えます。この箇所でイエスは患者たちに触ることなく遠くの方にいるその姿を見て「祭司たちのところへ行って、体を見せなさい」と言われます。祭司が、感染症が治ったかどうかを、清められたかどうかという基準で判断しますので、当然の判断だと言えますが、その道中で10人の患者の病は癒されてまいります。この経緯までは福音書にあるところの型どおりの癒しの物語だとも言えます。しかし問題はその後。自分が癒されたのを知って大声で神を讃美しながら戻り、イエスの足下にひれ伏して感謝したのは一人のサマリア人であり、他の9人のガリラヤ人は癒されたまま戻ることもなく、感謝もなかったという事件です。サマリア人とガリラヤ地方に暮す人々は交わりがなく、サマリア人は『旧約聖書』の時代にさかのぼれば神に逆らった結果、外国人の血の入った穢れた人々だということで遠ざけられていました。この喜ぶサマリア人を迎えて、心中穏やかでなかったのはいったい誰だったのでしょうか。

 それはイエスに従っていた弟子たちではなかったかと考えられます。同胞であるはずのガリラヤの人々は人の子イエスに癒されるやいなや立ち去ってしまい、事実上神を讃美しながら喜びとともにイエス・キリストの足下にひれ伏したのはサマリア人であったという結末。サマリア人とは古代のユダヤ教の因習に囚われてもいた弟子達には「招かれざる客」でもあったはずです。しかしこのような仕方で教会の交わりは神の祝福と多様性、そして喜びにあふれる集いとして育まれてきたのではないでしょうか。

 二ヶ月ほど前、堺市西区の前任地の教会でときに厳しく、ときに誠実に向きあってくださった教会員を、わたしは天に見送りました。理に適っているだけに、譬えお叱りを受けたとしても決して不愉快にならない不思議な方でした。前任地の教会員が司式担当の若い牧師に頼み、稲山まで訃報が届きました。確かに教会だけ、しかも概ね五家族だけで構成されている教会ではいろいろな出来事がありました。例えば「ちょっとお話しがあるのですが」との不意の来客を断るわけにいかずお話しを聞くうちに実はお金の無心である場合もあります。けれどもお時間をいただいてドリップコーヒーを整え、訪問者自身に留守番を頼んで近所のケーキ屋さんに走ります。その上でお話しを伺ううちに実はお金の無心は口実で、立ち入った話を聞いて欲しかったとのことで、予定の仕事は大幅に遅れますが、その分「お金は要りません。ただ話を聞いて欲しかっただけです。気持ちの整理がつきました。大丈夫です」と見送ることもしばしば、でした。「先生もお人好しですね」と召された教会員に笑われながらも、教会が少しずつ新たに地域から関心を寄せられるようになったのは嬉しいかぎりでした。すえた匂いのする服を着た訪問者を、釜ヶ崎の生活相談のNPO法人に連れていき、当事者に叱られることもある一方で、後々感謝されて一度だけ礼拝に出席してくださった方もおられました。思えばある時にはわたしたちはイエス・キリストに癒されながらもお礼のひとつも伝えようとしない10人のうちの9人であるかもしれず、たった一人でキリストのもとに喜びのあまりひれ伏しに来るサマリア人になるかもしれません。どうなるかは主なる神に委ねながらではありますが、キリストを頭とした教会の豊かさは、サマリア人もユダヤ人であったイエスの弟子たちもともに神を讃える群れとして祝福されるところにあるとは言えないでしょうか。弟子達の思惑とは異なった交わりが今ここで育まれようとしています。これまで教会を支えてきた教会員の望みとは異なった交わりが今ここで育まれようとしているかも知れません。けれども最も大切な事柄とは、「神を讃美しながら戻り、イエスの足もとにひれ伏して感謝する」群れであるということに尽きます。イエス・キリストとの、週毎でありながらも、実は一期一会であるところの出会いでもある交わりを尊び、喜びたいと願います。


2023年6月22日木曜日

2023年 6月25日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「かけがえのないあなた」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』15 章1~10 節
(新約聖書 138 頁).

讃美= 313,534.540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 何度計算し直しても帳尻の合わない一日の業務の仕上げとしての決算。次々と家畜が生まれるシーズンとなったため、出産の繁忙期で汗を流す畜産関係者。現代でも、福音書の時代でも、一見すると異なる業種の関心事を通して、福音書の書き手はイエス・キリストの伝えた人が神の赦しと恵みに気づく喜びの瞬間を語ります。どちらも忙しさの中で起こりがちな「ついうっかり」という場面を用いながら、巧みに物語の構成を整えることで、神の愛に気づかない、あるいは神の愛から逸れていく人のありようというものを描きながら、最後にはその人のありかたが洩れなく神に受け容れられていく様子がユーモアを交えて描かれます。

 事の次第はローマ帝国の支配の最末端で人々から税をとりたてる者、すなわち徴税人や、古代ユダヤ教社会の一般常識からは様々な事情によりほど遠い暮らしをする他なかった人々とイエスとの交わりに律法学者やファリサイ派の人々が難癖をつけたところから始まります。向き合う主イエスが『旧約聖書』の解き明かしではなくて譬え話を語るのは、明らかに聴き手を意識しているようです。その聴き手とは律法学者たちというよりはイエスと食卓さえ囲んだところの、罪人と呼ばれる人々に重きを置いています。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて『一緒に喜んでください』と言うであろう」。イエスの誕生物語で描かれますように、羊飼いは決して一人ではその務めにはあたりません。ですから九十九匹の羊の安全は確保されてはおりますが、この物語の鍵とは「羊を数で数えている」ところにあります。羊を数で数えるのは羊飼いではなくてその上に立つ羊飼いの管理人です。現場の羊飼いは羊それぞれに名前をつけてその名を呼び、羊はその声を聞き分けて集まってくるという具合になります。ですから数で数えられている点では知識人階級であるところの律法学者、テキストには描かれませんがそこにいた羊飼いの描写はイエスと交わりをともにした人々に向けられているという仕組みになっています。しかも見失われた羊は担がれて運ばれてまいります。自力での歩行が困難であり、何らかの怪我か障碍を負っている、つまり市場価値という観点からすれば疑問が呈されるという意味で欠けを負っている羊です。

 譬え話はこの物語だけでは終わりません。銀貨を十枚持っている女性がそのうちの一枚を無くした、という忘れっぽい女性が描かれます。1ドラクメは一日の賃金に相当する額。庶民にはまことに貴重な額であり、別段この女性ががめつい訳ではありません。わたしたちがそうするようにこの女性は必死になって銀貨を探します。それこそ電気のない、今よりも暗がりの多い時代ですから、ともし火をつけて家捜しをし、そして終にはその銀貨を見つけます。友達や近所の女性たちを呼び集めて「無くした銀貨を見つけましたから喜んでください」。それがこの女性の言葉です。

 しかし輪をかけて不思議なのは、市場価値とはほど遠い、自力で歩けない羊を見つけた羊飼い、また何のことはない、自分の物忘れや不注意で無くしたはずの銀貨を見つけた女性が「友達や近所の人々」「友達や近所の女性」を集めて「一緒に喜んでください」と呼ばわるところです。何の関わりもない人からすれば、その程度のことで騒ぎなさんなという話になるかもしれません。けれども「一緒に喜んでください」と言うからには、ともに喜んで暮れる人々がいたという交わりがあったということとなります。そして羊飼いには自力で歩けない羊が、女性には一枚のドラクメ銀貨が、安全圏にある羊や財布に収められた銀貨とは異なる価値を持っていたという解き明かしはできないでしょうか。なぜ銀貨の譬え話をしたのかといえば、そこには徴税人がいたからです。なぜ見出され、担がれて帰ってきた羊の話をしたのかといえば、おそらくは文字の読み書きどころか、抽象的な計算能力すら持ち合わせていない、しかし人との出会いを決して忘れない人々がいたからです。そのような人々がイエス・キリストとともに食卓を囲んでいたからではないでしょうか。そして咎め立てをする律法学者たちに向けられた「あなたがたには悔い改めの喜びはあるのか」「神の恵みをあなたがたは本当のところどこで見出しているのか」という問いかけが隠されているように思えてならないのです。

 『聖書』で描かれる世界の人々は、まだアラビア数字というものを知りません。また、お金の勘定以前の可否以前の問題として、文字の読み書きすら覚束ないという人々が9割以上も占めていました。ユダヤ教社会から蔑まれていた、同胞からの税の徴収に喜んで従事した人々が本当のところいたかは分からず、また充分な律法の養いを得なかったからこそ遠ざけられた無名の人々もいたはずです。「お前の代わりなどいくらでもいる」と幾度も蔑まれた人々を、イエス・キリストは「あなたはかけがえのない人だ」「あなたは大切な人なのだ」とその人を前にして呼びかけ交わりをともにしました。数値評価以前の出来事として、神の愛は息づかいのある姿をとり世に現われました。救い主は、「あなたは大切なのだ」とわたしたち一人ひとりに今も呼びかけています。

2023年6月16日金曜日

2023年 6月18日(日) 礼拝 説教

 ー聖霊降臨節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「キリストが授ける尊厳と癒し」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』8 章 40 ~ 48 節
(新約聖書 120 頁).

讃美= 300,121.540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 学生時分に通学のため、アパートを出たらば血まみれの男性が横になっていました。事件に出くわすとは思わなかっただけに、ただ警察に連絡するのが精一杯だった学生時代でした。それも一度や二度ではなかったため、最初は授業に遅刻して対応していたのにも拘わらず次第に慣れ、また地域の人の忠告も受けた結果、そのような人を避けながらの通学を覚え、そして結局は経済的な事情も相俟って大学の自治寮で暮すようになりました。振り返れば大学では『聖書』を学んでいたわけで、それだけに「善きサマリア人の譬え」が今でも胸に突き刺さって止まないところです。出会いとは本来は選び得ないはずなのに、わたしは道端に倒れた行き倒れの人を避け、JRの環状線に乗って通学していました。それが逃げなのかどうかは分かりませんが、ただ必死だったというのは言い訳です。その後何度も炊き出しに出かけても、どのような奉仕活動を行なっても、行き倒れの男性の姿は消えません。
そのような凡人の目からすれば、本日の聖書の箇所によれば、イエスはどのような不測の事態も拒まなかった様子が描かれます。救いを求めてきた人は誰もが深刻な事情を抱えており、その必死さを較べるなどはできません。「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」。救いを求める群衆が集うところに、ヤイロという人物がまいります。この人は「会堂長であった」とあるように、古代ユダヤ教の礼拝堂の管理を任されている者で、決して身分の低い者ではありません。しかしこの人は人生がこれからという娘のいのちの危機を救って欲しいと懇願いたします。あくまでも先に約束を入れたのはヤイロでした。

 しかしヤイロの家を訪ねにいく途上、群衆がまたも押し寄せてきます。その中でもクローズアップされるのは12年もの期間、出血が止まらず、医者に全財産を使い果たした女性が描かれます。わたしたちの時代とは異なり、この時代の女性の結婚は家同士が決めるもので、病臥に伏せっているヤイロの娘は二年もすれば婚約者を備えられる年齢となります。片や「死にかけていた」というヤイロの娘、そして片や娘が生まれてからこのかたずっと、結婚以前の問題として妊娠・出産に関わる病に罹患し、その時代の女性としての人格を否定され、財産も尽き果てた無名の人が近づいていきます。この女性は正面からイエスに救いを求めようとはせず、後ろからイエスの服の房に触れて、せめてもの関わりをもとうといたします。弟子のペトロでさえ誰が触れたのか分からず、当のイエスでさえも「わたしに触れたのはだれか」と問わずにはおれない秘めたる関わりがあります。

 以前わたしは、以前「細々とした信仰」についてお話しをみなさまにお伝えしたことがありました。生活をとりまく状況が変わり、教会と日常的に関わりが持てなくなるという状況に陥るのは、老若男女を通して誰もがあり得ることです。しかしその人の中で燻るようなキリストへの思いがあれば、またたとえ傷ついても葦のような折れない記憶があれば、いずれそのような信仰は時を重ねる中で新たな神の恵みへの気づきが備えられ、息を吹き返し、涙の川を越える橋がかかるというものです。震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第を皆の前で話す女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とイエスは語りかけます。老いを隠せないこの女性に「娘よ」と呼びかけるキリストの言葉は、身体の癒しとともに、新しい人生の可能性を示しています。

 ただし、このイエスの服に触れた女性の話はあくまでもヤイロの家へと赴く途上の出来事でしかありません。ヤイロからすれば一刻も早く自宅へ到着して欲しかったことでしょう。途中から割り込むように入ってきた女性との関わりなど放っておいて、娘のもとにたどり着いて欲しいとの憤りと焦りで一杯だったことでしょう。無名の女性とは対照的に「お嬢さんは亡くなりました」との使い番の声が、この本日の箇所の後に虚しく響き、「この上、先生を煩わすことはありません」と、遠回しではありながらも悲しみに満ちた憤りがイエスにぶつけられます。しかしイエスは会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と語りかけ、人々の悲嘆と嘲りの声の中で「泣くな。死んでのではない。眠っているのだ」と語ります。ヤイロの娘もまた癒され、起き上がるという物語が本日の箇所に続いて記されてまいります。

 わたしたちが「万策尽きた」「もう駄目だ」とうなだれるとき、ある人は「苦しみとは二重にも三重にも押し寄せてくるものだ」と表現されていました。無名の女性も、ヤイロ自らも、ヤイロの娘も、群衆も、ヤイロの娘の具合に絶望して泣き悲しむ人たちも、ついには押し寄せる困難になすすべなしと黙り込むほかない人々でした。しかしそのような、予想不可能な二重三重の苦しみを、イエス・キリストは受けとめながら、黙って近づき寄り添ってくださります。キリストが授ける尊厳と癒やし。道端にいたあの男性は帰宅後にはいなくなっていました。巡回中の警察が対応したとのこと。充分な治療を受けられていたらと今でも願います。

2023年6月7日水曜日

2023年 6月11日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第3主日礼拝ー

花の日・こどもの日礼拝

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「どんなものでもわけあおう」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章5~14 節
(新約聖書 174 頁).

讃美= 「せかいのこどもは」「きみがすきだって」
「どんどこどんどこ」「どんなにちいさいことりでも」
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【説教要旨】
  おともだちのみなさんは、イエスさまが好きな人ばかりだと思います。それはイエスさまがとってもやさしくて、生きるのがつらかったり、力が弱かったり、いじめられている人の味方となって支えて慰め、どんな力の強い人を相手にしても、どんな大人数を相手にしても、全く関係なく「正しいことには正しい」「間違っていることには間違っている」と言えた人だったからです。

 今日の『聖書』のお話しでは、病気の苦しみを癒してもらった人が大勢イエスさまを追いかけてきたところから始まります。お日さまも少しずつ傾き、お昼過ぎになってきました。朝にお日さまが昇ってから沈むまでがこの時代の一日でした。ですから人々は一日二食の食事を食べていました。電車も何もありませんから、どこかへと行くときにはいつも歩きです。コンビニエンスストアやハンバーガーのお店もありません。ですから出かけるときには必ずお弁当をもって出かけました。ただしお弁当といっても粗末なもので、大麦を焼きしめた塊と、魚の干物しか持ちあわせていません。今日の『聖書』のお話で「パン」とあるのは、本当のところは焼き固めた粗末な大麦の塊と、お魚を干したものしかないのです。けれどもそんな粗末な食べ物さえ全員に与えるには200万円ぐらいはかかるだろうと、イエスさまのお弟子たちは考えました。集まった人々はそれほど多かったのです。「どうしたものだろうかなあ」と弟子は思い悩むばかりでした。そんなとき、あるおともだちが「いいいよ、これ食べてよ」と五つのパンと二匹の魚をすべてお弟子さんにわたしました。でもお弟子さんたちは口をそろえて「大勢人が集まっているのに、これっぽっちでは何の役にも立たないよ」と文句を言うばかりでした。これでは何の役にも立たないよ、と弟子は口々に言いました。
 
  けれどもイエスさまは違いました。おともだちがわたしてくれた大切なお昼の食事をやさしく見つめながら、集まった人たちを野原にすわらせました。ふかふかした草の上で身体がほぐれた人々はたちまちお腹が空いてきます。お弁当のある人もいます。お弁当のない人もいます。お互いに気にしながらキョロキョロ周りを見ています。
 
  そんなとき、さっきのおともだちからもらった五つのパンをとって、イエスさまは神さまに感謝の祈りを献げてから、人々に配り始めました。お魚の干物も同じようにして配りました。小さなおともだちが素直な気持ちで「これ食べてよ」といってくれたパンと魚です。お弟子さんが「これっぽっちでは何の役にも立たないよ」といった、本当に貧しいお弁当です。けれどもイエスさまのお祈りが、お金では測れない神さまの愛の力を人々に注ぎました。おともだちはパンと魚をイエスさまにわたした後、何が残るのでしょうか。何も残らないはずです。ちいさなおともだちでさえそうした献げものをしています。それをイエスさまは神さまに感謝しています。おとなはどうするのでしょうか。布の袋にしまっておいたお弁当。近くに座る人にはお弁当のない人もあります。こんなお弁当、わけるなんでできっこないと思っていた大人は大勢いました。袋に入れたまま、隠していた大人もいました。けれどもイエスさまのお祈りで、みんなで少しずつでも分ければ、誰もおなかをへらさずにすむことに気づいたのです。「だめだ、これしかない」から「安心した。こんなにある」へと変えられたのです。食べものは神さまがくださるものです。それだけではありません。これまで何もお話ししなかった人々の間で「どこから来たのですか」「おなかは減りませんか」「あのちいさなこどもはどこから来たのかな」「寒くありませんか」「大の大人がご飯を独り占めでは恥ずかしいなあ」といろいろなお話しができる間柄が生まれました。12人のお弟子さんたちはびっくりしました。だって、お金がなければ何もできないと思い込んでいましたから。でも、イエスさまがいてくださるところでは、だれも一人ぼっちで「おなかが減った」と悲しむ人はいなかったのです。
 
  イエスさまが神さまにお祈りをして人々に配ったのは、食べ物ばかりではありません。小さなおともだちの素直な気持ち、そしてこれからはどんなちいさなよろこび、辛い目にあったときに感じる辛さをわけあう気持ちです。こういう気持ちをわけあうならば、しんどいときも、たのしいときも、かなしいときも、けっして一人で苦しむことはありません。必ずだれかがみていてくれています。支えてくれます。うれしいことは分ければ倍になります。辛いことは分ければ半分になります。そのためにも、イエスさまがあるいた道をいっしょに進んでいきましょうね。イエスさまもみんなを支えてくださっています。うれしい気持ちだけでなく、さみしい気持ちも、イエスさまはどんなものでもわけあってくださります。

2023年6月1日木曜日

2023年 6月4日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「喜びにあふれてほほえむイエス」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』10 章17~24 節
(新約聖書 126 頁).

讃美= 333,495,500. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  「その後、主はほかに72人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と始まる『ルカによる福音書』10章。12弟子に続いて72人の弟子たちがイエス・キリストに従っていたという、福音書の物語の中でも滅多に観られない数の弟子達。イエスがこの弟子たちに語るには「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物ももって行くな。途中で誰にも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるならば、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働くものが報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。イエスは実に事細かに、伝道に関する心がけを伝えています。財布も袋も予備の履物も持って行ってはならず、決して気を散らすような思いを抱いてはいけない。迎え入れてくださる家があればその家に神の平和に満ちた祝福を祈り、根気強くその家に留まりなさい。病人の苦しみをいやし、神の国の訪れを伝えなさいという、実に細かな指示ではあります。一を聞いて十を知るような相手であればこのようには教えないはずです。その意味では12弟子に次いで任命された72人は決して有能でも特別に聡明な人々でもなかった事が分かります。確かなのは、このイエスの教えの内容を決して違わずに受けとめていたという、ただそれだけの話であります。しかしその特性が強調されて、本日の箇所に繋がります。

 それはこの72人は独りも欠けることなく無事にその教えを全うして主イエスのもとに戻ってきたという事実です。12人以外の名もない弟子がこのように忠実に励むことによって、イエス・キリストから伝えられた務めを見事に果たして無事に戻ってきました。無名の弟子の報告を「悪霊があなたがたに服従したからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜べ」と誡めながらも、本日の箇所では福音書全体の物語を通しても珍しく、主イエス自ら「聖霊によって喜びにあふれた」という、イエス・キリスト自らが喜びにあふれ、笑顔を浮かべている様子がありありと描かれています。

 概して微笑みも含めて笑いと申しますものは、厳格な権威や強力な権力を求める者には苦手なものです。笑顔にあふれた独裁者のポスターなど観たことがありませんし、東アジア諸国の倣いでもそれは考えられません。けれどもイエス・キリストはこの箇所では自ら誰の目にも分かりやすく喜び、72人が無事託された務めを全うしたことを神に感謝いたします。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心にかなうことでした」。イエス・キリストが天に昇られた後に12人の弟子に託される世界宣教の雛形が、この72人の宣教の働きに隠されています。それは決して苦しみばかりに留まるものではなく、72人にも喜びをもたらし、イエス・キリスト自らにも喜びをもたらすものとなっています。預言者や王を引き合いに出しながら「あなたがたの観ているものを見ているものを見る目は幸いだ」とまでイエス・キリストは72人にも、そして12人の弟子たちにも語ったことでしょう。12と72を足せば84。これを12で割れば7となります。救いの全うされるそのモデルが、幼子のような者たちの働きによって示されたと言えます。命令への服従ではなく祈りに満ちた奉仕への参加への答えがイエスの笑顔に示されているように思うのです。

 5月27日(土)に創立60周年を迎えた止揚学園を訪ねました。同志社や近江兄弟社からの来賓が挨拶する中で一際心に沁みたのは知的障碍のある「仲間」たちの祝いのメッセージであり、汗だくで必死に言葉を紡ぐ福井生園長の言葉でした。泉北ニュータウン教会の礼拝堂の天井を模したと言われる空間も陽の光を上手く採り入れていました。来賓が帰宅した後に特別にご親族とともに敷地内に立つ納骨堂を訪ねることもできました。今は法律があるために難しくなりましたが、止揚学園創立時には敷地内での納骨堂の建設がまだ問題視されていなかった時代でした。いのちに関わる仕事に向き合う職員さん一人ひとりは、何かのエキスパートというわけではありません。しかしその志に応じようとした当時の止揚学園の姿勢が納骨堂には示されていました。

 社会福祉法人に限らず、学校法人もその創立者の目指した志を見失いますと、たちまちその足下を見失っては規模拡大の虜となり、いのちに関わっているのだという厳粛な事実から目を背けようといたします。72人の「幼子のような者」の集りは、その愚かさのゆえに、12弟子に先んじてイエス・キリストの教えを全うできたのではないでしょうか。キリストの肢体としての教会は、人間の集まりという側面も持ち合わせています。当然そこには衝突も起こります。しかしその衝突から新しいものが生まれ、神の平和が生まれるからこそ、止揚という言葉を用いたとお話しでした。淀まない神の愛の風に吹かれて新しい一週間を始めましょう。