ー復活節第4主日礼拝ー
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
もちろん若いころの貧しさはその後の頑張りでどうにか克服できもいたしますが、年齢を一定重ねたところで陥る貧困は正直辛いものです。さらには幼いころ味わった貧しさゆえに人格が歪んでしまうということすらあり得ます。お金さえあれば人生は豊かになるという妄想にとりつかれてしまいますと、そこから抜け出すことは容易ではありません。分からない箇所を見つける喜びから、万事分かりやすければそれでよいという考えへと流されていきます。ドイツでは国家公務員扱いとなっている演奏家が、日本では個人としては日々の暮しすらままならないという状態が慢性化していることからもその問題の深さが分かるというものです。
本日の『聖書』の箇所では二匹の魚と五つのパンで人々を満たした奇跡の出来事の後日談が記されます。イエスは誰一人洩れなく食を分かちあう奇跡を成し遂げた後、追いかけてきた群衆にこう申します。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。それに対して群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、人の子イエスは次のように答えます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これは実に豊かな広がりをもっている箇所です。この言葉はどのように言い換えられるのかという一点につき、『マタイによる福音書』ではイエスが野の花や空の鳥を指し示して「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて全て与えられる」と語ります。イエス・キリストの身体をいのちのパンとして受け容れる者は、神の国と神の義をまず求めるものであり、そうすれば「これらのものはみな加えて全て与えられる」というのです。この文言は決して侮られるべきものではありません。祈りのうちにわたしたちの願いや思いが神の御旨に適っているかどうかを吟味する時を尊びたいと願います。
もしわたしたちの暮らしが誰かを欺いたり収奪したりというわざにのみ根ざすならば、それがどのような絢爛豪華さを伴っていたとしても、そこにはただの飢え渇きと表裏一体の欲望はあったとしても、まことの愛の絆を育むことは極めて困難です。血が通っているはずの家族でさえ離散し、戦国時代の人間関係さながらの争いというものが遺産相続といったものにあっても生じるものです。けれども家族のうちに暮すところのか弱い者、繊細な者、生きづらさを抱えている者を支えていく生き方には、却って互いを物心両面にわたって支えていく交わりを授かります。パウロは『フィリピの信徒への手紙』4章10節で次のように語ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。パウロでさえもこの手紙の中でようやく「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とあるように、ひとかどならざる葛藤を経ながらもこのようなあり方へと方向転換していったのではないでしょうか。
牧師のいないまま、無牧のままで会堂改築を決意し、礼拝堂の再建に着手した教会をわたしは知っています。当座は借入金の返済のために何をするべきかで汲々としていたところ、地域につながるための様々な集会を祈り求めては実践することで、滞りなく借金を返済した教会もあるのも確かです。このご時世。確かに教会は大きな課題を背負っています。けれどもだからといってそれが教会の否定には決してつながらないという事例を目のあたりにしました。「わたしはいのちのパンである」。『聖書』だからこそ記しうる宣言。この宣言は復活の喜びにつながっています。だからこそわたしたちは時に応じた分かちあいの志しを祈り求めます。
説教=「飢えることなく、渇くことなく」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 34~40 節
(新約聖書 175 頁).
讃美= 187, 392,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
かつて学生で賑わっていた街も今は昔。貸与型奨学金の時代から、進学ローン型の奨学金に制度が変わった結果、卒業後に返済する奨学金には利子がつくようになりました。つまり、一部の免除職を除いて、毎月あたかも、金融機関からの借入金を返済するかのような仕組みになり、「学業優先」との言葉とは裏腹に大学生はアルバイトをするのが当たり前という時代になりました。大学まで進学できたのだから、それだけでも感謝しなくてはという言葉もあるでしょう。しかし学生間でも経済的な格差が一層開いてしまいますと、例えばアルバイトの種類ひとつとってもその内容に大きく違いが出てまいります。見通しのない短期のアルバイト、一定の計画性をもって臨める長期のアルバイト。腹を減らして一日に格落ちのリンゴやバナナを食べながら本を読むという学生がいるのは今も昔も代わりません。皿洗いをしてくれれば餃子は無料という店でも、毎回皿洗いをするわけにもまいりません。
もちろん若いころの貧しさはその後の頑張りでどうにか克服できもいたしますが、年齢を一定重ねたところで陥る貧困は正直辛いものです。さらには幼いころ味わった貧しさゆえに人格が歪んでしまうということすらあり得ます。お金さえあれば人生は豊かになるという妄想にとりつかれてしまいますと、そこから抜け出すことは容易ではありません。分からない箇所を見つける喜びから、万事分かりやすければそれでよいという考えへと流されていきます。ドイツでは国家公務員扱いとなっている演奏家が、日本では個人としては日々の暮しすらままならないという状態が慢性化していることからもその問題の深さが分かるというものです。
本日の『聖書』の箇所では二匹の魚と五つのパンで人々を満たした奇跡の出来事の後日談が記されます。イエスは誰一人洩れなく食を分かちあう奇跡を成し遂げた後、追いかけてきた群衆にこう申します。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。それに対して群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、人の子イエスは次のように答えます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これは実に豊かな広がりをもっている箇所です。この言葉はどのように言い換えられるのかという一点につき、『マタイによる福音書』ではイエスが野の花や空の鳥を指し示して「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて全て与えられる」と語ります。イエス・キリストの身体をいのちのパンとして受け容れる者は、神の国と神の義をまず求めるものであり、そうすれば「これらのものはみな加えて全て与えられる」というのです。この文言は決して侮られるべきものではありません。祈りのうちにわたしたちの願いや思いが神の御旨に適っているかどうかを吟味する時を尊びたいと願います。
もしわたしたちの暮らしが誰かを欺いたり収奪したりというわざにのみ根ざすならば、それがどのような絢爛豪華さを伴っていたとしても、そこにはただの飢え渇きと表裏一体の欲望はあったとしても、まことの愛の絆を育むことは極めて困難です。血が通っているはずの家族でさえ離散し、戦国時代の人間関係さながらの争いというものが遺産相続といったものにあっても生じるものです。けれども家族のうちに暮すところのか弱い者、繊細な者、生きづらさを抱えている者を支えていく生き方には、却って互いを物心両面にわたって支えていく交わりを授かります。パウロは『フィリピの信徒への手紙』4章10節で次のように語ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。パウロでさえもこの手紙の中でようやく「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とあるように、ひとかどならざる葛藤を経ながらもこのようなあり方へと方向転換していったのではないでしょうか。
牧師のいないまま、無牧のままで会堂改築を決意し、礼拝堂の再建に着手した教会をわたしは知っています。当座は借入金の返済のために何をするべきかで汲々としていたところ、地域につながるための様々な集会を祈り求めては実践することで、滞りなく借金を返済した教会もあるのも確かです。このご時世。確かに教会は大きな課題を背負っています。けれどもだからといってそれが教会の否定には決してつながらないという事例を目のあたりにしました。「わたしはいのちのパンである」。『聖書』だからこそ記しうる宣言。この宣言は復活の喜びにつながっています。だからこそわたしたちは時に応じた分かちあいの志しを祈り求めます。