2023年4月27日木曜日

2023年 4月30日(日) 礼拝 説教

   ー復活節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「飢えることなく、渇くことなく」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6 章 34~40 節
(新約聖書 175 頁).

讃美= 187, 392,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 かつて学生で賑わっていた街も今は昔。貸与型奨学金の時代から、進学ローン型の奨学金に制度が変わった結果、卒業後に返済する奨学金には利子がつくようになりました。つまり、一部の免除職を除いて、毎月あたかも、金融機関からの借入金を返済するかのような仕組みになり、「学業優先」との言葉とは裏腹に大学生はアルバイトをするのが当たり前という時代になりました。大学まで進学できたのだから、それだけでも感謝しなくてはという言葉もあるでしょう。しかし学生間でも経済的な格差が一層開いてしまいますと、例えばアルバイトの種類ひとつとってもその内容に大きく違いが出てまいります。見通しのない短期のアルバイト、一定の計画性をもって臨める長期のアルバイト。腹を減らして一日に格落ちのリンゴやバナナを食べながら本を読むという学生がいるのは今も昔も代わりません。皿洗いをしてくれれば餃子は無料という店でも、毎回皿洗いをするわけにもまいりません。

 もちろん若いころの貧しさはその後の頑張りでどうにか克服できもいたしますが、年齢を一定重ねたところで陥る貧困は正直辛いものです。さらには幼いころ味わった貧しさゆえに人格が歪んでしまうということすらあり得ます。お金さえあれば人生は豊かになるという妄想にとりつかれてしまいますと、そこから抜け出すことは容易ではありません。分からない箇所を見つける喜びから、万事分かりやすければそれでよいという考えへと流されていきます。ドイツでは国家公務員扱いとなっている演奏家が、日本では個人としては日々の暮しすらままならないという状態が慢性化していることからもその問題の深さが分かるというものです。

 本日の『聖書』の箇所では二匹の魚と五つのパンで人々を満たした奇跡の出来事の後日談が記されます。イエスは誰一人洩れなく食を分かちあう奇跡を成し遂げた後、追いかけてきた群衆にこう申します。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。それに対して群衆が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、人の子イエスは次のように答えます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。これは実に豊かな広がりをもっている箇所です。この言葉はどのように言い換えられるのかという一点につき、『マタイによる福音書』ではイエスが野の花や空の鳥を指し示して「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて全て与えられる」と語ります。イエス・キリストの身体をいのちのパンとして受け容れる者は、神の国と神の義をまず求めるものであり、そうすれば「これらのものはみな加えて全て与えられる」というのです。この文言は決して侮られるべきものではありません。祈りのうちにわたしたちの願いや思いが神の御旨に適っているかどうかを吟味する時を尊びたいと願います。

 もしわたしたちの暮らしが誰かを欺いたり収奪したりというわざにのみ根ざすならば、それがどのような絢爛豪華さを伴っていたとしても、そこにはただの飢え渇きと表裏一体の欲望はあったとしても、まことの愛の絆を育むことは極めて困難です。血が通っているはずの家族でさえ離散し、戦国時代の人間関係さながらの争いというものが遺産相続といったものにあっても生じるものです。けれども家族のうちに暮すところのか弱い者、繊細な者、生きづらさを抱えている者を支えていく生き方には、却って互いを物心両面にわたって支えていく交わりを授かります。パウロは『フィリピの信徒への手紙』4章10節で次のように語ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう。物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。パウロでさえもこの手紙の中でようやく「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とあるように、ひとかどならざる葛藤を経ながらもこのようなあり方へと方向転換していったのではないでしょうか。

 牧師のいないまま、無牧のままで会堂改築を決意し、礼拝堂の再建に着手した教会をわたしは知っています。当座は借入金の返済のために何をするべきかで汲々としていたところ、地域につながるための様々な集会を祈り求めては実践することで、滞りなく借金を返済した教会もあるのも確かです。このご時世。確かに教会は大きな課題を背負っています。けれどもだからといってそれが教会の否定には決してつながらないという事例を目のあたりにしました。「わたしはいのちのパンである」。『聖書』だからこそ記しうる宣言。この宣言は復活の喜びにつながっています。だからこそわたしたちは時に応じた分かちあいの志しを祈り求めます。

2023年4月20日木曜日

2023年 4月23日(日) 礼拝 説教

   ー復活節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「おかれた場所で咲くもまたよし」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24 章 36~49 節
(新約聖書 160 頁).

讃美=  453, Ⅱ 192,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 2012年、ある調査によれば累計で約200万部のベストセラーになった著作があります。それは『置かれた場所で咲きなさい』。ノートルダム清心学園理事長であったシスター渡辺和子さんが、宣教師に渡されたメモとして授けられた言葉に救いを得たところから始まるエッセイであり、文章表現の美しさとともにベストセラーとなりました。2012年といえば東日本大震災の翌年であり、その傷から被災地もまだ立ち直っていない人々が大勢。どうすればよいのか途方に暮れる方々の一部には救いのメッセージにはなったでしょう。確かに2.26事件で父親を殺められた渡辺和子さんの、元兵士に向けた赦しの言葉には心が動かされます。

 けれどもこの言葉はすべての人にあてはまるものかと考えると、首を傾げたくなります。著書とは意識・無意識に一定の読者層を想定して執筆されます。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が大規模な教育現場や教会などで語られるのであれば納得もいくのですが、茨の中に落ちてしまったような環境にいる方々との具体的な関わりの中では、とてもではありませんが語れません。茨を取り除くか、または土ごと植え替えなければ、生命の危機にすら晒される人々が大勢いるのが、あれから10年後の世界です。
『ルカによる福音書』のほぼ最後にあたる本日の箇所で、復活されたイエス・キリストは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と語ります。「父が約束されたもの」とは事実上の続編『使徒言行録』に記される聖霊降臨の出来事も含んでいます。しかし内容のよく似た他の福音書の「ガリラヤへ行け」とはメッセージが明らかに異なります。「置かれた場所で咲きなさい」とは「都に留まれ」の意味なのでしょうか。

 イエス・キリストが「都に留まれ」と弟子たちに命じるその訳は、エルサレムが聖霊降臨の場であるとともに、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ためのベースキャンプになるとの理解があります。そして復活したイエス・キリストはすべての国の民に通じる仕草でもって使徒となる弟子に伝えられる神のメッセージを示します。それは「あなたがたに平和があるように」との言葉と、「焼いた魚を食べる」という行為です。イエス・キリストの語る平和とは、単に戦争のない状態を示すのではありません。それは世界的な使信であり、また身近なメッセージとして、人々がキリストを軸とした「分かち合い」の中で活かされる日々を示します。そして「焼いた魚」とは実際には当時の貧しい人々が味わった日々の糧であり、おそらくあらゆる民の間で食されていた食べ物です。すなわち、いよいよこれから弟子たちは、世界宣教のわざに従事していく象徴として、イエス・キリストは貧富や文化を問わず、すべての民と食卓をともにする交わりを具体的に示します。復活したイエス・キリストは幽霊ではありません。肉体と分離した霊魂ではありません。その手とその足には十字架で受けた傷が明らかに示されていたはずです。それは傷そのものとして歴史を示しています。復活したイエス・キリストに背中を押されて、弟子たちは死を越えていく喜びの報せを数多の出会いの中で広げてまいります。それはその場に留まり続けるだけでは味わえない出来事の連続です。その時、その時にあっては、空を仰いで「どこから助けは来るのだろうか」と呟くほかない場面にも出くわすことでしょう。けれどもその道中には、甦られたイエス・キリストがともにあゆんでくださっているのです。弟子は使徒として神の愛の証しを立てるために置かれた場所で福音の咲くこともあれば、見聞きしたこともないような体験を通して花を咲かせる自由を授かってまいります。置かれた場所で萎れそうになるとき、主の御手はその人を土ごと別のところへと変えてくださります。ですから、置かれた場所であっても、そうでなくても、神の御旨であるならば、わたしたちは自由に、そして伸びやかに旅を続けることができるのです。

 思えばアブラハムから始まる族長たち、モーセに率いられたイスラエルの民は、旅と深く関わっていました。人の子イエスもさまざまな場所を移り変わりながら神の愛がすべてを治めるとの希望を語りました。そしてわたしたちもまた、めまぐるしく変わる世の常識や技術の中で、祈りながら神の愛を証ししようとしています。上手くいったと思えば傲慢になったり、その傲慢さが却って砕かれたり、駄目だと思って頭を抱えれば思わないところから感謝をされて心を震わせたりと、キリストがともにいてくださるからこそ、実ににぎわい豊かな日々を過ごすことができるというものです。

 教会という場所や交わりは、決して人を特定の場所や境遇に縛りつけるようなメッセージを語ることはありません。もちろん今は動くべき時ではない、今は待つべき時であると主なる神は語ります。しかし窮地にある人々を、神はその場に留まり続けなさいとは決して仰せにはならないのです。シスター渡辺和子さんのように自らのライフトーリーを語りうる人もいれば、そうでない人もいます。けれどもすべての人々の花を、神さまは咲かせてくださると、復活の主イエスは仰せになっておられます。

2023年4月13日木曜日

2023年 4月16日(日) 礼拝 説教

ー復活節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「ともにあゆむイエス・キリスト」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24 章 13~27 節
(新約聖書 160 頁).

讃美= 154, 155,540.
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動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 今年のイースターは4月9日でした。この日は77年目のディートリヒ・ボンヘッファーの命日にあたります。ボンヘッファーという人物の名前を知らないという方もいるかもしれませんが、世代的に言うと若き日の土山牧羔先生を指導した世代からは少し若いところに位置する人物です。21歳の若さで博士学位を最優秀成績で取得するという天才的な一面がある一方で、その時代のドイツの実権を握っていたヒトラー政権に対しては、その方針、すなわち国策に無用とされた障碍者の安楽死や似非科学に基づいた人種理論によって人間を分類して虐殺を行なう政策、ユダヤ人の公職追放、『聖書』もユダヤ教の依るべきテキストであるという理由から『旧約聖書』を否定する態度を批判、戦争に反対した態度により「戦力破壊活動」を理由に逮捕、そしてヒトラー暗殺計画に連座したという理由から39歳で第二次世界大戦末期の欧州で殺害された神学者でした。ボンヘッファーの著作の中には『聖書研究』という書物があります(生原優、畑裕喜、村上伸訳、『ボンヘッファー聖書研究旧約編』、新教出版社、2005)。その中に「キリストの教会は、すべてのことの終わりについて証言する。キリストの教会は終わりから生き、終わりから考え、終わりから行動し、終わりから宣べ伝える」との一文があります。いったい何のことだろうと考えるのですが、福音書の中でイエス・キリストが語った「神の国」または「神の愛による統治の完成」と理解するとわたしたちにも馴染み深くなるかもしれません。わたしたちが告別式の説教でともにするところの、召された人の身体を前にして語られる復活のメッセージ。すべてのものが、人の世の罪でさえも、また社会に生じている様々な歪みさえも神の愛によって新たにされ、完成されるという「世の終わり」。この「世の終わり」に基づいて当時としては画期的な着想のもとで執筆され、公刊されました。

 『ルカによる福音書』では、イエス・キリストは神の国を「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とファリサイ派の人々に語りかけます。つまり、わたしたちの一見凡庸に思える、しかし祈りの中で育まれる交わりの中にこそ、神の国の訪れが「未だなお」と「もはやすでに」との緊張感の中ですでに授けられているのだとの理解に立ちます。まさしく『聖徒の交わり』であり『共にいきる生活』というボンヘッファーの主題に重なります。神の統治の先取りとして、夕暮れのエマオへの道の風景が描かれていくと考えても全く問題はありません。エルサレムから11キロほど離れたところにあるエマオという村。その道を歩く二人の弟子には、女性たちが懸命に伝えたであろう主の復活の出来事のメッセージはまだはっきりとは理解されてはいません。二人にとってイエスは「イスラエルを解放してくださる」という意味での救い主であり「イエスは生きておられる」との証言を受けとめはするものの、人の子イエスを埋葬したはずの墓は空だった、という程度でしか理解できてはいません。この二人の弟子はイエス・キリストをそのような枠の中でしか捉えてはおりませんでしたし、納得もできてはいなかったことでしょう。だからこそ10キロに及ぶその道すがら、復活の出来事の現場にいた女性たちから受けた報せを疑いながら議論し続けずにはおれなかったのです。

 しかしそのような疑いをも含めたところのやりとりの中に、主イエス・キリストはそれとない姿でともにあゆんでくださったのです。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずではないか」と、あえてざっくりと分かりやすく申しあげれば「仕方がないなあ」と言いながら、モーセ、すなわち『律法』とすべての『預言者の書』から始めて、その時代の『聖書』すべてにわたってキリスト自らに基づいて記されていることを解き明かされたのだ、と書き記すのです。言い換えればキリストの訪れに基づいて、すなわち神の支配の先駆けに基づいて『旧約聖書』全体が解き明かされることとなります。その究極の救い主のありかたが「ともにあゆむキリスト」となります。

 『旧約聖書』に収められている物語を目通しすれば、そこには決して理想的な人物像が描かれていないことに気づかされます。神との約束を気づかないまま破り続けていく人間。虐げられた人々と分かち合うべきところ、独り占めして道を踏み外す原因となる財産の用いられ方、言われなき殺人。また神の名前を口実にした大量殺戮や戦争。エジプトのファラオの命令に基づいてナイル川に投げ捨てられていくこどもたち。若いころは神から知恵を授かった名君であっても年老いて権力欲にとりつかれる王の姿。見えない神より見える金銀に心が奪われる人々の群れとその滅び。そのような世界と無関係では暮らせない中で神を受け容れた人々の危機、使徒たちの群れの危機、そしてわたしたちの暮しの危機。魂の危機は時を超えて重なっています。そのような中だからこそ、十字架で処刑された後も変わらずに「シャローム:神の平和があるように」(神さまがいる。大丈夫だよ)と声をかけ、自らの身体の痛みに先んじてわたしたちの心身の痛みや悩みを分かち合ってくださる救い主が、幼いころから、そして今もなおわたしたちとともにあゆんでくださるのです。わたしたちの暮らしの中でともにあゆむイエス・キリストをより信頼してまいりましょう。

2023年4月7日金曜日

2023年 4月9日(日) 礼拝 説教

ーイースター礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「いのちの復活に触れて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』20 章 11~18 節
(新約聖書 209 頁).

讃美= 146, 148, 讃美ファイル 3, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
 今年の受難節ではなぜか、キリストの受難のあゆみを解き明かす説教は機会としては少なかったように思います。三年間続いた新型コロナウイルス感染症対応型の礼拝がまだ身体から感覚として脱けていないからか、それとも大切なご家族を見送る方々とともにいたこともあり、魂が耐えられず敢えて離れていたかどうなのかは分かりません。ただ、牧師・教会員お互いは家族に等しい大切な存在のはずで、そのような方々を弔うわざは、なかなか機械的にできるものではありません。「あなたはプロなのだから」との指摘に感じるのは、要は信頼を得られるキャリアやノルマを積み重ねるわざと『聖書』への向き合いや教会員のへの向き合いを同一視することに他なりません。そのような気持ちになれば作業は簡単です。無難に教会と向き合い、各個教会のバックヤードにある組織にも抜け目なく向き合い、年月を経るに連れて規模も肩書きも立派なものにしていく。その中での告別式や結婚式も淡々とこなし、『聖書』の言葉も刺激的なものは避けていくといった具合です。

 しかし牧師に限らず教会に根を下ろす役目はプロフェッショナルではなく「コーリング」と呼ばれます。つまり自ら「ある職種を選ぶ」という意志に先んじて、何者かの声に呼び止められてその役目に招かれていくという道です。もしある人が個人的な願望にのみ基づいて牧師の道を選ぶとすれば、やがて幾つも綻びが生じてまいります。意見の合わない者は直ちに排除の対象となり、教会も事業体も組織として手練手管を用いて大きくさせ利潤を得られるようにします。多様性を認めない者への抵抗とは異なる不毛な争いも生じますが、これには人としてどうなのかという仕方を用いてでも対処します。コーリングという言葉が欠けているならば、たとえ全世界を手に入れたとしても、その人の死とともに、一代限りで全ては雲散霧消してしまいます。

 ナザレのイエスが神の呼び声を聞く場面を、本日の箇所にいたるまで少なくともわたしたちは二度触れているはずです。第一には人の子イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから水による清めの洗礼を授かったとき。最初期に成立した福音書では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声。そして、イエスが僅かな弟子を連れて山に登り、『旧約聖書』を代表するモーセと預言者エリヤと語らい、真っ白に輝く姿に変容したときの「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声。栄光を現わすと言われるこの神の語りかけも、十字架への苦難の始まり、そしてモーセとエリヤとの語らいは「イエスがどのような最期を遂げるか」を内容としていました。いずれにせよ、イエスは救い主として神に拓かれた苦難の道をたどり、そしてあゆまれました。それは自分のいのちを削り人々に癒しと慰めと希望を授けるあり方でした。その果てに待ち受けていたのは十字架刑による死でした。

 ローマ帝国の磔刑とは十字架に掛けられる前に鞭で身体中を傷つけられ、衰弱させられます。そして少しでも苦しみが増すように脱臼させられて杭に釘打たれます。全体重を用いての亡骸の傷みは想像を絶します。変わり果てた遺体をせめて清めにと墓を訪れた弟子たちは、主の復活に気づかずその遺体が取り去られたものと思いその場から立ち去ってしまいます。『ヨハネによる福音書』に登場する「イエスの愛していたもう一人の弟子」は復活を信じるものの、その後にどのように振る舞ったかは記されていません。

 しかしマグダラのマリアの描写は実に対照的で、活きいきとしています。マリアは弟子たちとは異なり、墓の中に白い衣を着た二人の天使を見ます。一人はイエスの骸が置かれた頭の方、一人は足の方に座っています。御使は「女性よ、なぜ泣いているのか」と尋ねますと「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません」。慟哭と身の震えが伝わります。「わたしがあの人を引き取ります」。このマリアのうろたえを受けとめながら名を呼びかけた声は、マリア自らから「ラボニ(先生)」という言葉を引き出します。「わたしにすがりつくのはよしなさい」とはどのような意味でしょうか。それは「マグダラのマリアにもまた神が授けた役割がある。それは『あなたがたの神のところに上る』との言葉を仲間に伝えることだ」とのメッセージです。「イエスの愛していたもう一人の弟子」に較べますと、まことに力にあふれて「わたしは主を見た」と「信じる」という言葉よりもさらに直接的な言葉で弟子に自らの体験を語ります。このかけがえのない出会いは決して消えることはありません。

 わたしたちの教会はイエス・キリストを土台とし、イエス・キリストを頭とした交わりに連なっています。世にある組織として問われる責任はその礎の上にあります。そして様々な社会不安と無責任さが世を覆うほどに、わたしたちの交わりに多くの痛みの中から助けを求める手が伸ばされています。イエス・キリストは孤独と絶望と、痛みと涙と裏切りを知る救い主です。その痛みがマリアの悲しみを癒し、いのちの希望とともに、あゆむべき方向に向かわせたに違いありません。いのちの復活に触れる雛形がそこには描かれます。そしてわたしたちもまた、味わう悲しみや痛みをイエス・キリストの復活に重ね、進むべき道へと向きを変えられていきます。特別な思いで迎える主の復活の喜び。何も恐れる必要はありません。主が支えてくださるのです。