2023年3月31日金曜日

2023年 4月2日(日) 礼拝 説教

  ―受難節第6主日礼拝―

ー棕櫚の主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「責任転嫁をしなかった人とともに」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』23 章 32~43 節
(新約聖書 158 頁).

讃美= 讃美ファイル 5, 257, 136, 271B, 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】

 「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』。」「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。『創世記』3章に記される、人間よりも賢いとされた蛇に唆されて善悪を知る知識の実を男女が食べたという、よく知られた場面です。『創世記』がバビロン捕囚の中で記された書物だと踏まえればなるほど話として納得はします。しかし問題はそのような時代考証には直接関わりはありません。むしろ「決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまう」との約束を授かった男性が、本来食べてはならないはずのその実を食べ、あたかも神であるかのように振る舞い始めたその最初の所作とは「弱い部分を隠すべきだ」と否定的な評価を加え、そして主なる神が歩いてくる音を聞けば身を隠し、そして善悪の知識の木の実を食べたその責任を「わたしの肉の肉、骨の骨」とまで喜びのあまり呼ばわり手を携えた女性に責任を転嫁してしまうという態度の豹変ぶりです。『創世記』の文脈では人間関係の最も基本となるのは夫婦とされ、「人間がともに生きるありかた」の最も基本となる絆であるとされます。「村」や「家」という集団を越えて、血のつながらない二人が神の前にお互いが対等の関わりを築くというのが古代社会では革命的な着想であるばかりか、今日に至ってなおも結婚式の式文で求められる誓いにすらなっています。しかし神との約束を疎かにしたことで、人間の間には不信の念が芽生え、女性は男性に支配され、男性は生涯食べ物を得ようと苦しむという結果にいたったとの物語が記されます。ただし注意しなくてはならないのはこの箇所には直接「罪」という言葉は記されておらず、したがって西方キリスト教の教えの中で見られる「原罪」という考えも『創世記』本文からは見られません。ただし決定的な事柄としては、神は責任転嫁という人間のあり方を決して見逃してはいなかったところ。そのルーツは自らとの結んだ約束の放棄にあったからだ。これが古代ヘブライ人の理解です。すべての人の歪みがこの物語には集約されています。

 本日の福音書の箇所には、実はこれほどの道筋があります。「ゴルゴダ」と呼ばれたその処刑場には三本の杭が建てられ、手を打ちつけるための横木がはめ込まれていました。そしてその真ん中の杭には、虐げられた人々、排除された人々とともにあゆみ、エルサレムの祭司長や律法学者たちから危険視された結果殺意を向けられ、不当な逮捕と裁判を受け、判決は責任不在のまま「たらい回し」にされた結果、刑に処せられた救い主イエス・キリストの姿があります。たらい回しもまた「責任転嫁」の別の言い方です。「自分を救ってみろ」との声も、現代の自己責任論にもつながる、誰も責任をとらないという意味では無責任論であり、責任転嫁の枠を出ない言葉でしょう。しかしあろうことかこの処刑場で奇跡が起きます。それは「お前は神をも恐れていないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことはしていない」と弱り切った体力を振り絞り呻く受刑者の声です。イエス・キリストが無罪であるとの告白が、この死刑囚には自らの犯した罪と真正面から向き合わせ、あらゆる責任転嫁の誘惑から解放しています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と十字架の上でイエス・キリストに語りかけます。究極の苦しみ悶えの中での信仰の呟きが、この死刑囚の苦しみを全く異なる次元へと変容させるのです。

 世界的な戦争のみならず、わたしたちの身近なところで起きるトラブルや不適切な言動。このような言動もまた「悪いのはわたしではない、別の誰かだ」との思いから始まります。それがその場にいない人々であったり、生活文化の異なる人々であったり。多様性を尊重しないところの、人権を踏みにじる言動もまた同じ理屈から生まれます。「悪いのはわたしではない」。その意味では『創世記』の天地創造物語の書き手集団の視点はまさしく神から授かった慧眼とも呼べるでしょう。しかし『創世記』のあの箇所でさえ、神との約束を反故にして楽園から追放される男女には皮の衣が着せられます。この衣には試練に満ちたあゆみの中「死なないように」との神の愛がほのめかされています。その時代、ローマの法学者でさえ逡巡したと言われる残酷な刑罰を自らの過ちへの正当な措置だと受けとめた無名の犯罪人とイエス・キリストとの語らいは、この犯罪人を不条理極まりなく、その過酷な生涯とは全く異なる地平へと引きあげます。イエス・キリストとのいのちを賭した関わりの中で、死刑囚は罪を認めないとの責任転嫁の呪縛を絶ちました。本日は棕櫚の主日礼拝。受難週の始まる主日礼拝です。その主日礼拝にこの教会では讃美が響き、栄華を誇ったソロモン王の宮殿よりも美しい花であり十字架を示すガーベラを分かちあいます。それはイエス・キリストの十字架の血潮が、わたしたちにあらゆる責任転嫁を止めさせ、その先にある滅びを突破する復活といういのちの出来事を指し示すためです。

2023年3月24日金曜日

2023年 3月26日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「世も人も新たにされるには」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』20 章 9~19 節
(新約聖書 149 頁).

讃美= 262,191,544. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 「わたしは天地の造り主、全能の父である神を信じます」と、古代の教会の時代から今にいたるまで教会の事実上の背骨の役目を担ってきた使徒信条告白があります。文語訳の「われは天地の造り主 全能の父なる神を信ず」と母教会では洗礼や堅信礼前には必ず暗唱するようにと指導されたものでした。しかしながら神は自らとしては『旧約聖書』にあっても宇宙や地球、いのちを始めとした万物に対して単に鎮座まします姿としては描かれません。『旧約聖書』とりわけ『創世記』で注目される神がわたしたちの世に向けてとる態度とは「くだる」という態度です。よく知られた「バベルの街の物語」でも「降っていく」とあり「ソドムの街の滅亡」物語でも、神はまず降っていって都市に暮す人々の様子を詳らかに調べます。全能の神の立場にただ留まるのであればわざわざそのような所作に及ぶ必要もないのですが、おごり高ぶる上昇志向の人間とは対照的に、自ら謙るだけでなく、人間に悔い改めと気づきの暇を授ける慈しみというものを感じる神の姿勢です。

 その姿勢はイスラエルの民、そしてわたしたちにも信仰の父と呼ばれるアブラハムが豊かさを快楽の源と取り違える乱れた都市ソドムを執り成す場面で一層徹底されます。アブラハムがこの都市国家が滅ばないように擁護するのは一重にそこに甥のロトが住まいを構えていたからで、もし神がソドムを滅ぼすのであればそれは甥も巻き添えを喰らってしまうに違いないとの思いもあったことでしょう。族長としては到底許容できない事態です。そのアブラハムに応えるべく、主なる神は御使いを通して「もしソドムに義しい人がいるならば」とのテーマで語らい、当初の条件の50人を10人に譲歩させてまで救いを授かろうといたします。

 もちろんこの物語は『新約聖書』の舞台ではすでに「伝承・伝説の物語」になっていたかもしれません。しかし人の子イエスはさらに身近な題材と内容としてはサスペンスやホラーに近い物語を語ります。ぶどう園の主人が農園を農夫に貸して長旅に出かけ、収穫の時を迎えたので僕を送ったところ、袋だたきにされ追い返されます。さらに他の僕を送ったものの、今度は袋だたきに加え侮辱まで受けて何も渡さず追い返されます。そして三人目は傷を負わされて追い返されます。あろうことか主人は「どうしようか、わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と息子を遣わします。もはや素朴なぶどう園の労働者の姿はそこにはなく、相続財産を奪う、ならず者集団と化した群れがあります。息子は殺害され放り出されてしまいます。今日で言えば誘拐殺人と死体遺棄の現行犯と見なされて当然の狼藉に及びます。しかしなぜこのような物語が記されたのでしょうか。

 わたしたちがぶどう園の主人であれば最初の僕が暴行を受けた時点で事実確認をし、何らかの対策を協議し結論を出すことでしょう。事実『旧約聖書』の族長物語や『士師記』、『サムエル記』、『列王記』などでは狼藉者に制裁を与えたところで指導者が神から責めを受ける場面はありません。他方でこのぶどう園の主人は、次から次へと僕を送っては重傷を負わされしまい、遂には愛息まで遣わし殺害の憂き目に遭います。神は犯罪の被害者遺族となってしまうのです。そういたしますと別の角度からこの箇所を味わう必要もまた生じます。つまり次々に派遣された僕は預言者であり、最後に遣わされた息子は救い主イエス・キリスト、これら神の役目を委託された者の殺害に及ぶのは欲に眩んだイスラエルの民を始めとしたわたしたち人間となります。しかしそれでも謎めくのは、なぜ神は自らのメッセージを託した重要な人物を人海戦術のような仕方でならず者の中に送り込むのかという点です。

 本日はこの箇所で『創世記』2章以下で「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と人に語りかけた主なる神の愚かさを重ねてみましょう。この箇所での神の振る舞いは人の目からは愚かにしか見えません。しかしそこには深いメッセージが隠されています。本日の福音書の箇所でもそれは言えます。それは相手がどれほど残忍な、ならず者であろうと僕を遣わし、息子を派遣することを止めないぶどう園の主人の姿です。これもまた主なる神の愚かさを語るに充分な内容で、人の子イエスの「さて、ぶどう園の主人はどうするであろうか」との言葉は、譬え話の本筋とは直接の繋がりはなく、対話を目的とした問いかけになっています。ならず者集団の巣窟となっているぶどう園はおそらくわたしたち人の世の問題を深く掘り下げた世界として描かれています。そこでは神の役目を授かった者が辛酸を舐める不条理に満ちています。そして僕に始まって自らの息子もまた徹底的に排除されるという酷たらしい現実と重ねられます。しかしイエス・キリストは次のような結論を導きます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。「隅の親石」とは木造建築でいう大黒柱にあたります。人々の群れに捨てられた木材が、是非とも必要な背骨の役目を果たすという物語です。排除される人々とともにあゆむイエス・キリストは、確かに福音書の舞台で十字架へと追いやられていきます。しかしイエス・キリストに根ざす交わりは、様々な生き辛さを抱えながら世に神の平和と希望をもたらします。世も人もそのように新たにされてまいります。

2023年3月17日金曜日

2023年 3月19日(日) 礼拝 説教

    ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「昔も今も愛を貫く神とわたしたち」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 28~36 節
(新約聖書 123 頁).

讃美= 66,270,544. 

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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 イエスがひとり祈っていたとき、ともにいた弟子に「あなたがたはわたしを何者だと思っているのか」と問われ、ペトロは「神からのメシアです」と答えたという記事。この記事がすでに記されていると踏まえながら、本日の箇所を読み解いていきます。すると凝縮された内容を本日の御言葉が訴えているとおぼろげながらに分かります。ペトロのメシア告白、則ちイエスが「救い主」であるとの告白は、ペトロ自らの権威を象徴するとの理解も確かにありますが、丹念に読みますとその理解は福音書が伝えようとしていた内容と大幅にずれているように思えます。それはペトロの告白の八日後に起きたとされる「山上の変容」の物語に記される通りです。イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登ります。イエスは祈っておられるうちに、服は真っ白に輝き、モーセとエリヤが現われて語りあうにいたりました。語りあいの内容は人の子イエスがエルサレムで遂げる最期でした。ペトロは猛烈な眠気に襲われながら、輝くイエスの姿と二人の姿が目に入り、山小屋を三軒建てようとよく分からないことを申します。「一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために」。この幻はイエスがまさしくキリストであることを弟子たちに示しているのですが、ペトロはボタンを掛け違えたような反応しかできていません。モーセは『旧約聖書』で十戒を始めとした誡め『律法(トーラー)』を象徴し、エリヤは預言者の代表として『預言者の書(ネビイーム)』を暗示しており、したがって『旧約聖書』に記された神の救いの約束の完成としてイエスが描かれてはいるものの、その最期である「十字架での処刑」こそが、その約束が始まる時であるとのところまでにはペトロの理解はまだ及んではいません。ペトロの理解は他の弟子同様に実に素朴でした。「ローマ帝国の支配から解放してくださる英雄」としての救い主。それがペトロのメシア理解であるならば、イエス・キリストに課せられた苦難に満ちた救い主のあゆみは心にも浮かばず、ただただイスラエルの民のみが救いに預かるという限定的な救いに留まるほかなかったでしょう。救い主の十字架での死と復活を幾度も否定する。それがペトロのむき出しの姿です。

 それではイエス・キリストの救いに連なるのはどのような人々であったのでしょうか。もちろん、福音書の物語で人の子イエスに出会った人々も洩れなかったことでしょう。目の見えない人、聴覚を失った人、手足の動かない人、悪霊にとりつかれたと決めつけられた人々。その時代のユダヤ教の共同体から排除されたこの人々に救いが及んだのは間違いありません。しかし『新約聖書』は言うに及ばず『旧約聖書』にもすでにその時代のユダヤ教徒以外の者にもまた神の愛がそそがれ、決して救いの蚊帳の外には置かれてはいないと明言されます。例えば『創世記』には「神はご自身にかたどって人を創造された」とあるだけに留まらず、「ソドムの滅亡」の物語では、古代都市ソドムの滅亡から辛うじて逃れたロトと二人の娘が、残酷かつ異様な体験の衝撃からか男女の関わりを持ち、それぞれ男児を授かるというエピソードが盛り込まれます。ただし、授かったこどもは、遠くダビデの先祖となる女性ルツの属する民の系譜となり、こども自らには決して罪はないとの理解が記されます。ペトロがこの記事を心に留めていたかは分かりません。しかし穢れた系譜に属するとされた人々にこそ救いが及ぶとの理解は画期的。「人生の闇」にも光は必ず射すのです。

 言うまでもなく、モーセは自ら「乳と蜜流れる土地」カナンの地には入れずに、またエリヤは絶えず神に逆らうイスラエルの民から遠ざけられるという、後の世には誉め讃えられながらも、物語を味わえば日本語でいう「畳の上では死ねなかった」人々ばかりです。イエスと語らう『律法』の象徴が高名な律法学者ではなく、『預言者の書』の象徴が時の賞賛を浴びた人ではなく、その時代の王族からいのちを狙われた預言者であるところからしても、キリストの苦難の頂点が示されているのは明らかです。さらに今なおその救いのスケールの大きさにわたしたちは圧倒されるばかり。本日の聖書箇所の書き手も踏まえた『マルコによる福音書』で最初に「この人は本当に神の子だった」との告白は、十字架刑の現場の責任者であるローマ軍の百人隊長から発せられます。

 わたしたちは「『旧約聖書』に記されているのは裁きの神」「『新約聖書』に記されているのは愛の神」だと誤解している節があります。けれども福音書を始めとした『新約聖書』の書き手集団は徹底的に『旧約聖書』を味わいながら、異なる民、異なる時代に活きいきと救いのメッセージを紡ぎ、それは神の遣わしたキリストをどの角度からも示します。時にわたしたちは『聖書』が「分からない」と呟きます。しかしその「分からない」という事実には、神の愛による養いの「伸びしろ」が隠れています。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」。イエスの不当逮捕の直前、ゲツセマネの園での態度と同じように眠気に襲われていたペトロ。しかしペトロがその眠りから醒めるとき、わたしたちにも目覚めが起きます。昔も今も時代を問わずわたしたちを愛さずにはおれない神。そのような神がわたしたちを愚かなまでに信頼して遣わされた救い主イエス・キリスト。神の愛は「愚かなまでの信頼」という姿をもとります。時に世の常識からは遠ざけられさえもする神の愛こそが、わたしたちの前にそびえる壁を打ち砕くのです。

2023年3月10日金曜日

2023年 3月12日(日) 礼拝 説教

    ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
説教=「一人ひとりのはかり知れない尊さ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9 章 21~27 節
(新約聖書 122 頁).

讃美= 301,452,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  堅いつぼみが少しずつ膨らむように、コロナ禍で規模縮小を余儀なくされていた公立学校に始まる地域の公共の諸行事も新型コロナ感染症流行以前の状態に戻そうとしています。用心深くではありますが、少しずつ肩の荷が軽くなるようでもあります。
けれどもこの新型コロナウイルス感染症でメディアから放置されているのが2011年の東日本大震災の被災地。津波によって壊滅的な打撃を受けた上に、東京に電力を供給する福島第一原子力発電所の1~3機の炉心溶融が起き、少なくとも名古屋市と同程度の広さの土地から人々の住まいが奪われました。機会ある毎に地元の人々は懸命にその後の自然災害を克服しながら自宅の農地を回復するべく里に戻っての作業に懸命。しかし廃炉の作業には少なくとも2051年まで必要だとの声もあります。発電所の免震重要棟と東京の電力会社での会議では「炉心の腐食はもったいないから淡水で冷却できないか」「どの道ふっとぶ」といった地域を無視した無責任な声がはっきり聞き取れます。卒業式を終えて震災に襲われ、住まいや生きる手立てまで奪われた人々の痛みが、たった12年で癒されるとは誰も考えてはいないでしょう。「補償金が出たのだからよいではないか」との心ない言葉が被災者には今も向けられます。けれども無気力に見える人々の姿は、これまで生き甲斐だった仕事を放棄するほかなかった絶望を物語っています。「最後は金目」との実に心ない言葉。一人ひとりの尊さを支える安全性を補償額に置き換える組織の体質は今も変わりません。  
確かに人を数字に変えて浸る悦楽は麻薬のようなもので、それは教会にも及んできます。数字の変化に示される課題は確かに重要です。しかし数値は氷山の一角で、その数値にいたった文脈を読み解かないと伝道どころか数値そのものの改善にすら及びません。『花は咲く』という歌が歌われましたが、こぶしの花咲く故郷に帰ったところで暮らす術がないという人は絶えないのです。
  
  ところで『旧約聖書』『新約聖書』で描かれる神はご自身のわざとしては人を数で勘定されません。その時代にはわたしたちが用いるアラビア数字が存在しなかったというだけでなく、一人ひとりが神の似姿として創造されているとの理解に立つからです。「神はご自分にかたどって人を創造された」という『創世記』の短い言葉は、神にかたどって創造されたのは人間すべてを指すのであり、それは特定の民や身体的に優れた特性を備えた人々、経済界層や身分に囚われていないという意味でまことに画期的な着想です。しかし他方で人間が作り出した社会なる組織は、神のお造りになった世界とは大幅にずれ、その歪みの中でわたしたちは苦しむのです。「神からのメシアです」と答えた使徒ペトロのメシア理解でさえ、それは独善的であり破れに満ちていました。その後に主イエスが語るのはイエス自らに襲いかかる苦しみと排斥と十字架による殺害です。そのような社会のありようを人の子イエスはその身に映した上で語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」。そして最後には「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまで決して死なない者がいる」。

  「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何になろうか」。何かを自分のものにしようと振る舞うわざを、かつて悪魔は荒れ野でイエスに唆しましたが、そのような事柄よりも肝腎なことがあると語ります。それはキリストに従うことだというのです。それは決して格好のよい体裁ではありません。心ない言葉を浴びて傷ついたとき、日を置かねば涙さえ流せないような別れを味わったとき。もうやめたいと思ったとき。そのようなときのなかで、キリストに従う道が拓かれます。前進するのもよいし、後退するのもよいし、遠回りするのもよいし、立ち止まるのも可能です。問題はその節目に、キリストがともにいてくださるとの祈りと確信がともなっているのかということなのです。希死念慮にとりつかれても神から託された使命を果たした預言者の物語さえあります。そうであれば今のわたしたちもまた、キリストに従うわざをかけがえのない日々の中で果たしうるのではないかとの希望が生まれます。その希望は必ず実現します。さらに「ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまで決して死なない者がいる」との言葉は、『ルカによる福音書』の文言からわたしたちに向けて発信されているメッセージでもあります。荒唐無稽な文言ではなく、イエス・キリストのこの言葉がこの地上から消されないかぎり(そしてそれはあり得ないことです)、この言葉に触れた者は誰であれ、身体の滅びとしての死を恐れない者に変えられてまいります。身体の滅び以上の死を『聖書』はわたしたちに語っています。それは神との関係を絶ち、そのあゆみを「忘却の穴」へと捨ててしまうことです。しかしそのような所業は決してわたしたちにはできはしません。見せかけの全能を誇ったローマ皇帝でさえ不可能だったのです。数字は尊い道具であり重要です。しかしいのちや生き甲斐には代えられません。全世界を得るよりも大切な事柄をわたしたちは知っています。

2023年3月3日金曜日

2023年3月5日(日) 礼拝 説教

   ―受難節第2主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「愛は人の徳を建てる」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』11 章14~23節
(新約聖書 128 頁).

讃美= Ⅱ177,300,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 人生のライフステージが大きく変わる季節。三月とはそのような月でもあります。この変化に心身がついていけない方々も多いと聞きます。1977年に設立された「日本いのちの電話連盟」は、渦巻く悩みを抱えた人々の声に耳を傾ける働きとして知られています。今よりも家庭内暴力や心の病に器の狭い対応しかできなかった時代、受話器から聞える声には希死念慮からあふれてくる叫びもあったことでしょう。その時代、伝統を重んじるところの教会の中には『聖書』にそのような記事がないのにも拘わらず「自死」を本人の罪の結果として決めつけるという、悶え苦しむご遺族の辛さを蔑ろにする態度をとり続けた過ちがありました。

 しかしそのような伝統に反して『旧約聖書』には希死念慮の塊のような預言者が描かれます。わずか4ページに過ぎない『ヨナ書』に登場するヨナがその人です。ヨナは戦によってイスラエルの民を大勢死に追いやった大国の都ニネベに神の救いの言葉を伝えるべく派遣されます。ニネベの住民はヨナにとっては不倶戴天の敵。ですから神の派遣に逆らい船に乗れば嵐に襲われ、慌てる船員に身の上を打ち明けた結果、波を鎮める犠牲として荒ぶる海へと放り込まれます。その後ヨナは大きな魚に三日三晩呑み込まれた後、陸地に吐き出されニネベに入り神の言葉を伝えます。ニネベの人々はその声に応じて神を信じ、王から民、すべての家畜にいたるまで断食し、悪の道から離れられるよう熱心に祈ります。その祈りは神に届き、都は滅びから逃れますが、問題はニネベの民よりもヨナ自らの態度。ニネベの救いに大いに不満であったヨナが神に訴えるには「主よどうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」。「生きているよりも死ぬ方がましです」。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」。かけがえのない家族や仲間を苦しめ、そのいのちを奪いながらも、神の前に悔い改めた異国の民が滅びを免れた、という出来事をヨナは受け容れられません。この短い物語には、人の子イエスの「敵を愛しなさい」との教えの尊さと困難さにも重なるところがあります。しかし「わたしの命をとってください」と神に叫ぶヨナに悪霊がとりついていると指摘する人はどこにも描かれません。むしろ神の愛が、都市の破壊と滅亡を望む預言者さえも用いて救いを実現させるところに神の愛と赦しが描かれます。大帝国アッシリアの都ニネべの王、そしてその民が赦されることで、ヨナもまた赦されるのです。

 他方で『ルカによる福音書』の本日の箇所では、人の口を利けなくする悪霊を追い出す人の子イエスとならび、イエスに「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と難癖をつけたり、イエスを試したりする人々をも描きます。主イエスが答えるには「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なりあって倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張した者は、より大きな力をもつ悪霊で人の子イエスが小さな力の悪霊を追い払ったとでも考えたのでしょう。人の口を利けなくする悪霊を追い出したイエスにこの批判者が見たのは、単なる「力」でしかありませんでした。しかし強引な考え方やとりくみでは、利けなくなった口を開き、交わりに加わっていくという希望と喜びをもたらすのは不可能です。希望や喜びは「悪霊の力較べ」とは何の関係もありません。イエス・キリストは語ります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。「口を利けるようにする」との交わりを新たにするわざを誤解し、妬む人々のところにも「神の国はあなたたちのところに来ている」と語るイエス・キリスト。抱えるものが闇であれ悪霊であれ、すべてを巻き込んで神の愛の渦へと導いているようにも読みとれます。神がイスラエルと敵対したニネべを赦したように、ヨナはニネべの王や民を憎むほかないヨナ自身にもその赦しのわざが及んでいると、深い憤りからこみあげる希死念慮の中でも感じたことでしょう。さらにはイエス・キリストは、口が利けず、喜びだけでなく悲しみさえも訴えられなかった人を話せるようにする奇跡を行ないました。それはこの癒しのわざを蔑む人々にも、神の国の訪れを告げ、その頑なな心を開くわざにも繋がりました。悪霊とは、具体的にはすべての関係を絶つ「閉じこもり」と示すとの考えがありました。この者たちの悪霊を、イエス・キリストは見事に追い出し、解きほぐしたと言えます。そこには相手の破壊ではなく、そのあり方を新たに建てるわざがあります。

 さまざまな報せのみならず、わが身に降りかかる不条理に対して深い憤りを覚えもするわたしたち。しかし『聖書』は神の愛が赦しというかたちをとると語ります。もちろん「なあなあで済ませば」よいのではありません。決して消せない痛みをともにし、関わる人それぞれが悶え苦しむ呻きに耳を傾け、反対に「なぜそうせずにはおれなかったのか」と問いかける相手の存在もまた、まずは受けとめて、同じ悲しみが広まらない手立てを祈り求めるあり方につながります。受難節第2主日を迎えました。キリストの苦難に満ちた血と涙の道とは、想像を絶する神の赦しの熱量をも示します。赦しの熱さに触れて新しい一週間を始めましょう。