―受難節第4主日礼拝―
時間:10時30分~
リモート礼拝となります。
稲山聖修牧師
聖書=マルコによる福音書 9 章 2~10 節.
(新約聖書 78 頁).
讃美= Ⅱ 177(1.3),Ⅱ 136(1.3),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
道端にはタンポポや清楚な青の映えるイヌノフグリが懸命に花咲こうとしています。天候の定まらない季節ではありますが、雨が地面を潤しいのちを育んでいる様子が分かります。繊細な花弁が春の風雨の中で立ち続けています。
そのような季節ですから本格的に野山を散策し、登山にも挑戦したいとお考えの方もいるかもしれませんが、春山と申しますのは、冬山以上に遭難するリスクが高くなります。草木を潤す温かさは雪を溶かし、些細なことをきっかけにして雪崩となります。また天候が不規則となり霧や雲に巻かれてしまい、足下が見えなくなって崖から滑り落ちてしまいます。想定外の事柄が起きるほど、わたしたちは慌てふためいて我を見失います。平常心を保っていればまだしも、焦るほどに疲れは増し、判断力の低下を招きます。そうなりますと、本日の聖書の箇所で、自らの迫害と苦しみ、そして死と復活を語ったその日から数えて六日目にイエス・キリストがごく限られた弟子、すなわちペトロとヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登ったというその理由には、物わかりの悪い弟子に十字架へのあゆみを少しでも伝えようとの御旨があったのかもしれません。9章2節には単に「山に登った」とあるのではなく「高い山に登られた」と山の高さが強調されているからです。
当然ながらこの時代、天気予報もなければ精密な地図、コンパスも登山靴もありません。さらには山そのものが人間にとっては不可侵の領域として特別な意味をもっていたことは『旧約聖書』の十戒を授かる場所、また追っ手から逃れて預言者が身を隠した場所でもあるホレブ山(シナイ山)に特別な意味が込められるところからも分かります。一度入れば二度と降りてこられないかも知れない危機の只中に弟子たちは置かれます。もちろん、人の子イエスとともにであります。別の言い方をすれば、この思いもしなかった過酷な環境の中に、イエスは弟子を招き入れたのかもしれません。それならば、主イエスの意図したところは何だったのでしょうか。
もちろんそれは救い主とは何かを示すためであったでしょう。その姿は弟子が思い描いていた以上の輝きをもって迫るものでありました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。モーセはイエスの時代のユダヤ教に不可欠な正典である『律法(トーラー)』、エリヤもまた同じく『預言者(ネビイーム)』を示すとの見方もできます。しかしモーセもエリヤも『旧約聖書』の物語の中ではキリストとしての姿を現わしたイエスとはいわば「山仲間」の間柄だという見方も可能です。エジプトの奴隷の家から解き放たれて、本来はアブラハムの神に感謝すべきはずのイスラエルの民が、その境遇に不平不満を言わずにはおれなくなったとき、モーセは雲に覆われたホレブ山で十戒を授かりました。預言者エリヤは、富と力に溺れたイスラエルの民がアブラハムの神を顧みなくなったとき、人々に戒めに相応しい道を示し続けました。しかし彼は追っ手に狙われ、自らの死をも願いながらホレブ山に逃れる中で「神なき富と権力に跪かなかった七千の民のために」預言者としての働きを全うせよとの励ましをアブラハムの神より授かります。「鼻で息をする者」としての人間との関わりを超えて神が働きかける場としてのホレブ山。イエス・キリストはその連なりの中で自らを示しました。
ただわたしたちも、また恐らく弟子もまた気になるところは、モーセが山から降りて、どのような道を辿ったのか、また預言者エリヤが山から降りて、やはりどのような道を辿ったのか、そしてイエス・キリストは山から降りて、どのような道を辿るのかという「その後のあゆみ」です。雲の中から響いた「これはわたしの愛する子。これに聞け」との言葉にあるとおり、三人の弟子は下山の後に人の子イエスに尋ねます。「エリヤは来たが、聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」。それがイエス・キリストの答えでした。モーセも同じように、イスラエルの民から理解されないどころか、人々が神との間に重ねた過ちのゆえに、神が約束した土地へと入るという願いは叶いませんでした。イエス・キリストもまた、モーセやエリヤの道を辿るかのように、いやその道以上の「茨の道」をあゆみ、世に神の愛を証しました。そして人々や弟子の傲慢さを打ち砕き、自ら十字架で苦しまれ、死にいたることを通して、人が強さを誇ろうとするほど、虐げられていく弱さに光を注がれ、その中にこそ、神が備え給ういのちの輝きをお示しになりました。予想外の中で味わう苦しみ。しかしその苦しみには必ず救いの手が添えられます。苦しみを味わうはずの弱さに、わたしたちは目を注ぎましょう。偽りの強さに憧れる時代は、今まさに過ぎようとしています。