2022年3月24日木曜日

2022年3月27日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です。当日はリモート礼拝となり、礼拝堂での対面礼拝はございません)

 ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

リモート礼拝となります。


説教=「思いがけない出来事の中での助け」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 9 章 2~10 節.
(新約聖書 78 頁).

讃美= Ⅱ 177(1.3),Ⅱ 136(1.3),542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  道端にはタンポポや清楚な青の映えるイヌノフグリが懸命に花咲こうとしています。天候の定まらない季節ではありますが、雨が地面を潤しいのちを育んでいる様子が分かります。繊細な花弁が春の風雨の中で立ち続けています。
 そのような季節ですから本格的に野山を散策し、登山にも挑戦したいとお考えの方もいるかもしれませんが、春山と申しますのは、冬山以上に遭難するリスクが高くなります。草木を潤す温かさは雪を溶かし、些細なことをきっかけにして雪崩となります。また天候が不規則となり霧や雲に巻かれてしまい、足下が見えなくなって崖から滑り落ちてしまいます。想定外の事柄が起きるほど、わたしたちは慌てふためいて我を見失います。平常心を保っていればまだしも、焦るほどに疲れは増し、判断力の低下を招きます。そうなりますと、本日の聖書の箇所で、自らの迫害と苦しみ、そして死と復活を語ったその日から数えて六日目にイエス・キリストがごく限られた弟子、すなわちペトロとヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登ったというその理由には、物わかりの悪い弟子に十字架へのあゆみを少しでも伝えようとの御旨があったのかもしれません。9章2節には単に「山に登った」とあるのではなく「高い山に登られた」と山の高さが強調されているからです。
 当然ながらこの時代、天気予報もなければ精密な地図、コンパスも登山靴もありません。さらには山そのものが人間にとっては不可侵の領域として特別な意味をもっていたことは『旧約聖書』の十戒を授かる場所、また追っ手から逃れて預言者が身を隠した場所でもあるホレブ山(シナイ山)に特別な意味が込められるところからも分かります。一度入れば二度と降りてこられないかも知れない危機の只中に弟子たちは置かれます。もちろん、人の子イエスとともにであります。別の言い方をすれば、この思いもしなかった過酷な環境の中に、イエスは弟子を招き入れたのかもしれません。それならば、主イエスの意図したところは何だったのでしょうか。
 もちろんそれは救い主とは何かを示すためであったでしょう。その姿は弟子が思い描いていた以上の輝きをもって迫るものでありました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」。モーセはイエスの時代のユダヤ教に不可欠な正典である『律法(トーラー)』、エリヤもまた同じく『預言者(ネビイーム)』を示すとの見方もできます。しかしモーセもエリヤも『旧約聖書』の物語の中ではキリストとしての姿を現わしたイエスとはいわば「山仲間」の間柄だという見方も可能です。エジプトの奴隷の家から解き放たれて、本来はアブラハムの神に感謝すべきはずのイスラエルの民が、その境遇に不平不満を言わずにはおれなくなったとき、モーセは雲に覆われたホレブ山で十戒を授かりました。預言者エリヤは、富と力に溺れたイスラエルの民がアブラハムの神を顧みなくなったとき、人々に戒めに相応しい道を示し続けました。しかし彼は追っ手に狙われ、自らの死をも願いながらホレブ山に逃れる中で「神なき富と権力に跪かなかった七千の民のために」預言者としての働きを全うせよとの励ましをアブラハムの神より授かります。「鼻で息をする者」としての人間との関わりを超えて神が働きかける場としてのホレブ山。イエス・キリストはその連なりの中で自らを示しました。
 ただわたしたちも、また恐らく弟子もまた気になるところは、モーセが山から降りて、どのような道を辿ったのか、また預言者エリヤが山から降りて、やはりどのような道を辿ったのか、そしてイエス・キリストは山から降りて、どのような道を辿るのかという「その後のあゆみ」です。雲の中から響いた「これはわたしの愛する子。これに聞け」との言葉にあるとおり、三人の弟子は下山の後に人の子イエスに尋ねます。「エリヤは来たが、聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらった」。それがイエス・キリストの答えでした。モーセも同じように、イスラエルの民から理解されないどころか、人々が神との間に重ねた過ちのゆえに、神が約束した土地へと入るという願いは叶いませんでした。イエス・キリストもまた、モーセやエリヤの道を辿るかのように、いやその道以上の「茨の道」をあゆみ、世に神の愛を証しました。そして人々や弟子の傲慢さを打ち砕き、自ら十字架で苦しまれ、死にいたることを通して、人が強さを誇ろうとするほど、虐げられていく弱さに光を注がれ、その中にこそ、神が備え給ういのちの輝きをお示しになりました。予想外の中で味わう苦しみ。しかしその苦しみには必ず救いの手が添えられます。苦しみを味わうはずの弱さに、わたしたちは目を注ぎましょう。偽りの強さに憧れる時代は、今まさに過ぎようとしています。

2022年3月18日金曜日

2022年3月20日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

  ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「あなたの誤解が溶かされるとき」 
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 8 章 27~33 節.
(新約聖書 77 頁).

讃美= 354(1.3),262(1.3),542. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 今も続くコロナ禍に伴う物価の上昇、名もないこどもたちのいのちが召される戦争の報せ、そして年度末の足下の事柄。どうしたものかとときにはうつむいて歩くうちにふと顔をあげますと、そこにはモクレンのつぼみが膨らんでいました。カレンダーをたどって季節の訪れを予測するというのも、ひとつの考え方かもしれませんが、やはりモクレンがふくらんでまいりますと、また春が訪れたとしみじみ感じ入ります。
 モクレンの花はわたしたちがふだん目にする他の花に較べて肉厚で、野鳥の餌にもなります。そして花が咲き、時が経つに連れて茶色に変色して散っていくのであります。花が散ればそのはかなさに胸を痛めるというのが世の倣い。けれども実際にモクレンが樹木全体として活力を増していくのは、花が散ってからです。そうなればはかなく感じる思いは誤解だったとも言えます。事実、夏のモクレンは花こそ咲きませんが、生い茂るその葉は強い日差しの中で一層その存在感を増していきます。
 本日の『聖書』の箇所では次の物語が記されます。「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた」。「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。「そこでイエスはお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです』。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」。『新共同訳』では「ペトロ、信仰を言い表す」とありますので、わたしたちはこの箇所を辿ってまいりますと、あたかも筆頭弟子ペトロが信仰を言い表したと読みとってしまうのですが、本当のところはどうだったのでしょうか。
 実は本日の聖書の箇所に続いての記事は「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とあります。しかもそのことをはっきりとお話になったと、物語の書き手は念を押します。そのときにペトロがどのような振る舞いに及んだかと言えば、イエスをわきへ連れていき、いさめ始めた、とあります。そのとき「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」と続きます。この箇所から遡って考えますと、ペトロは確かに「あなたはメシアです」と答えはするものの、そこには大きな誤解があったようにも思えます。わたしたちが考えるところのキリストのあゆみとはかけ離れたところで理解されるメシアのイメージとは、多くの苦しみを受けることもなく、長老、祭司長、律法学者からも迎えられ、殺害されることもなく、イスラエルの民を救済するという、大勢の人々に共有されるメシアです。おそらくは当時のユダヤ教の一般的なメシアのイメージがそこにはあったのでしょうが、人の子イエスが語る救い主のあゆみとは全く異なっていました。福音書にあってペトロはイエスとの対話の中でいつもボタンの掛け違えと申しましょうか、ちぐはぐなやりとりをするのですが、本日の箇所ではちぐはぐどころか「サタン、引き下がれ、あなたは人間のことを思っている」と指摘されてしまうのです。それではサタンとはどのようなものでしょうか。それは人にものを独り占めさせるために、飢え渇きの中で石をパンに変えさせようとする、つまりいのちの価値を生産性のみでしか計らず、聖書を用いながら神を試させるという仕方で神への信頼を疑わせ、ついには世の全ての国々とその繁栄ぶりにのみ目を向けさせる者であり、また言葉だとして理解できるでしょう。ペトロはイエス・キリストの「いさめ」によって、このような誘惑と誤解から身を遠ざけることが辛うじてこの場ではできたと言えます。
 疫病、戦争の報せ、そして木曜日には東日本大震災の記憶も生々しい地域で起きた震度6の地震。人は不安に駆られ、また煽られますと、自分の将来のみならず、わが子のことや家族をめぐってどうしたものかと心細くなります。当然のことです。しかしその当然の生活態度の中で、わたしたちはいつの間にか鼻で息をする者のみ、人間の力や噂ばかりを頼ってはいないでしょうか。隣人にも誤解をしてはいないでしょうか。誤解されてはいないでしょうか。そのような猜疑心を、イエス・キリストはいのちの息吹をもって追い払ってくださります。そして今ある私達のありようとよしとするために、十字架のあゆみを重ねていかれます。キリストの身体としての教会を育んでまいりましょう。


2022年3月10日木曜日

2022年3月13日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―受難節第2主日礼拝―


説教=「ただ赦しあえるように祈る」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 3 章 20~27 節.
(新約聖書 66 頁).

讃美= 452(1.3),519(1.3),542. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  2月24日に始まったロシア・ウクライナ戦争は、兄弟ともいえる二つの民が干戈を交えるにいたり、プーチン大統領は核兵器の使用を仄めかし原子力発電所を攻撃するなど国際条約と次々と破る中、あたかも21世紀に再現された「第二次世界大戦」が報道される毎に、わたしたちは胸を痛め主の平安を祈るほかありません。ウクライナのゼレンスキー大統領は東欧ユダヤ人、アシュケナジームと呼ばれ親戚の多くをナチスの絶滅収容所で失い、父親はソ連軍の兵士として従軍した系譜に立ちます。ウクライナ語とロシア語は近い関係にあり意思疎通も難しくはありません。ですから中にはこの戦争で家族が分断され敵味方に分かれてしまう悲劇に見舞われる方もおり、欧州諸国は難民の受け入れに全力を注いでいます。
 しかし一方でロシア国内でも亀裂が生じ始めています。契機となっているのがメディア。概してテレビに情報を依存する人ほどプーチン支持者が多いと言われています。ロシア国内のテレビのニュースではウクライナの様子すら滅多に報道されません。他方でSNSでは次々と情報が入ってきます。ロシア国外に暮らす人も同様です。情報を手に入れる媒体に応じて、国際社会に核兵器の使用可能性を公言したプーチンを支持する側と戦争反対を叫ぶ側に分断される事態が起きています。力や圧力による支配は一見強固に見えても思いがけず瓦解する可能性を常にはらんでいます。
 本日の『聖書』の箇所では人の子イエスをめぐる親族のありようが描かれます。先ほど述べた分断とは異なるところは、これは国家による分断ではない、というところです。主イエスが12人の弟子を選んだ後に記されるのは「群衆が集まり、一同は食する暇もないほどだった」。『マルコによる福音書』ではこれまで一貫して人の子イエスの癒しの物語が記されてきました。したがって名もなき民の間にはイエスこそ救い主だ、神の子だとの評判が立ったことでしょう。しかし同時にそのような評判が立つと困る者も現れます。それはこれまで人の子イエスが歩んできた道を追いかけてきた人々の態度に眉をひそめる、既成秩序から成るところの律法学者やファリサイ派の一部、またヘロデ王の息子たちのとりまきです。わざわざエルサレムからガリラヤまで来て「気が変になった男」「悪霊の力で悪霊を追い出す」との噂を流したのはこのようなイエス・キリストの歩みに反感を覚える人々だったかもしれません。すさまじい情報戦です。それでは人の子イエスの家族はどの説に与したのでしょう。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえにきた。『あの男は気が変になっている』と言われていたから」。残念ながら親族は人の子イエスの働きに理解を示し受け入れるどころか、身柄を拘束しにやってきました。血は水よりも濃いとわたしたちは口にしますが、福音書の世界では必ずしもその言葉は当てはまりません。暮らしの秩序を乱す者として、身内からイエスは縛られ身動きを封じられようとするのです。そのただ中でイエス・キリストは語ります。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成りたたない。家が内輪で争えば、その家は成りたたない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず滅びてしまう」。主にある交わりを分断しようとの試みは、返す刀で自らの交わりをも分断し、ばらばらに解体してしまうのです。そこに待っているのは自縄自縛の孤独という名の底なし沼です。
 それではイエス・キリストはどこに神の国のモデルとなる交わりを見出したというのでしょうか。それは自らの母親と兄弟姉妹、つまり血縁者が宣教の旅に出たイエスを捜し求める中、イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」との宣言するところにあります。イエス・キリストは決して家族の関わりを否定しません。むしろその愛情を徹底させて、血縁のない人々の群れもまた、自らの名によって孤独を感じる必要のない交わりを授け、その交わりに喜びを広めていく力を注がれていくのです。それはいつか必ず、自らを縛りあげるところの身内の者にも伝わるに違いありません。『創世記』にある「アダムの系図」では、世にあるすべての人々はアダムに源をもつ家族として描かれます。後にイスラエルの民と敵対する人々でさえその系図に属します。アダムとは固有の名であると同時に「人」をも意味します。係累を絶っても絶たれても、身内に諍いがあろうとも、神の愛は必ずその諍いにうち勝ち勝利します。なぜならそこには赦しがあるからです。イエス・キリストは自ら痛みと苦しみを担い、わたしたちの家族や世の民の争いの壁を取り除き、和解させるお方です。神の平和を祈りましょう。


2022年3月3日木曜日

2022年3月6日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ―受難節第1主日礼拝―


説教=「荒れ野にいのちの滴、ひかる朝」
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 1 章 12~15 節.
(新約聖書 61 頁).

讃美= 30(1.3),495(1.3),542.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
ローマカトリック教会では、『聖書』に劣らず教会の伝統が重きをなし、そこにあるさまざまな言い伝えが尊ばれています。これは「聖なる伝承」を意味する「聖伝」というのですが、その言い伝えと併せて「聖い人」すなわち教会のために格別な働きを全うした人として権威づけられ、教会が続く間、敬われる人々の物語が虚実ない交ぜにされながらも現われます。パウロもペトロも聖パウロ、聖ペトロとして称されます。さらに『聖書』以外の言い伝えもミックスされて聖ゲオルギオス、という聖人も現われます。聖ジョージや聖ゲオルク、聖ゲオルギーとも呼ばれます。騎士の鎧に身を包み、ドラゴン、すなわち龍を成敗している具合で描かれます。槍を突き立てられているドラゴンは「天地創造物語」で描かれる蛇の化身として邪悪さを示すとの言い伝えです。
 しかし甲冑に身を固め、槍を突き立てることで邪悪な言動は果たして退散するのでしょうか。距離を置いて考えれば、邪悪だとされたドラゴンもまた、神に創造されたという視点からはやはり尊いいのちを授かっています。このような鬼退治や怪物成敗の物語は、いとも簡単に異文化や異なる言語や暮らし向きにある人々を排除する意味も持ちかねません。ですからわたしたちには一定の距離が必要になります。
 その距離は何より今朝の『マルコによる福音書』の箇所にも描かれています。『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』に記されるところの、荒れ野で悪魔から人の子イエスが誘惑を受けるという物語に較べて実に描写があっさりとしています。むしろ力点がかかるのは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」との言葉。人の子イエスは神の霊に送り出されて荒れ野へとおもむき、四〇日の間そこに留まったとしか記されません。サタンから誘惑を受けたが、それがどのような誘惑なのかは記されません。その間「野獣もともにいた」とありますが、天使たちが人の子イエスに仕えていた、とあります。これが後に『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』では「石をパンに変えよ」「高いところから飛び降りて神を試せ」「わたしを伏し拝めば全ての国々の権力と繁栄を与える」との悪魔の誘惑の物語へと内容が広がります。あろうことか『聖書』を悪魔は用いて誘惑しますが、イエス・キリストは神との関係の中で『聖書』の言葉を解き明しながら、全ての誘惑に勝利します。決して槍や剣を用いて悪魔退治をするのではなく、悪魔自らが離れていくという仕方で物語は節目を迎えるのです。イエス・キリストが用いたのは「神の正しさ」であり、人が思いのままに操れるような歪んだ正義ではなかったという違いが、本日の箇所を踏まえて受け継がれていくのです。だからこそ、荒れ野にあっても、野獣とともにありながら、天使となった、いや、天使とされた人々との交わりがもたらされるという、イエス・キリストを軸とした野獣と天使の交わりがすでに荒れ野で育まれているのにお気づきでしょうか。サタンや悪魔を排除するのでも、野獣を滅ぼすのでもなく、いつの間にか全てのいのちがともに青草を食むという、所謂「殺生」なくては生きてはいけないという軛から解放された、「天地創造」のいのちの交わりが輝いています。それは世の終わりに約束された「神の国の現れ」の始まりでもあります。
 主イエスが送り出された荒れ野とは、そのものとしてはわたしたちが今暮らしている生活の場からはかけ離れているかも知れません。しかしわたしたちの暮らしがこれからどうなるかは、その実、誰にも分かりません。イエス・キリストはそのようなわたしたちに、たとえ人生の荒れ野にあったとしても、いのちの交わりをつなぐことができるとお示しになりました。荒れ野に暮らすいきものの中には、夜明けのころ、身体についた滴を舐めていのちをつなぐ群れがいます。人間の力では万策をもってしても、そのような環境を設けられません。荒れ野はわたしたちが考えるよりも、ずっと豊かにいのちを養う場であることを、わたしたちは知らなさすぎるのです。わたしたちが「悪よりお救いください」と神に訴え、悪魔が荒れ野で示した安易な問題解決の誘惑に目を遣らず、世の只中にありながら、世に勝利し給うイエス・キリストを見つめているならば、必ず時に適った智恵が授けられます。大声で呼ばわり、甲冑の重さで押し潰されそうになり、槍で他のいのちを害するというありかたでは授かることのできない智恵。それは神がともにいてくださることで、わたしたちも、時に葛藤しつつも、ともなるあゆみを可能とする道を拓きます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。荒れ野から湖畔に暮らす人々へと、そして癒しを必要とする人々、エルサレムで世の力に依り頼む人々へと向けられた声は、今もわたしたちのいのちを伸びやかにするのです。