稲山聖修牧師
聖書: 『マタイによる福音書』6章24〜34節
(新約聖書10頁)
讃美歌:310(1.2),495(1.3),頌 栄543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
【説教要旨】
竹城台2丁の団地の中を歩いておりますと、夾竹桃をはじめ季節の花が咲いています。過ぐる週、強い香りを放っていたのがクチナシの花。そのかおりに集まる獲物を求めてか、五ミリほどの小さなカマキリのこどもが花びらの上、大人そのままの姿勢で待伏せをしていました。
本日からわたしたちは聖日礼拝を再開することができました。今後も道筋を見極めなくてはなりませんが、緊張の中で平安を見出すあり方は、わたしたちよりもむしろ、野にある草花や虫を始めとしたいのちのほうがよく知っているかもしれません。確かにコロナウイルスはヒト以外の動物を攻撃することはほぼありません。しかし野にいるいきものは絶えずいのちの危機の中にいながらも、他のいのちを羨まず、今を生きることに全ての気持ちをを集中します。わたしたちは何に気持ちを集中していくのでしょうか。そして誰に思いを向けていくのでしょうか。
(新約聖書10頁)
讃美歌:310(1.2),495(1.3),頌 栄543
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
竹城台2丁の団地の中を歩いておりますと、夾竹桃をはじめ季節の花が咲いています。過ぐる週、強い香りを放っていたのがクチナシの花。そのかおりに集まる獲物を求めてか、五ミリほどの小さなカマキリのこどもが花びらの上、大人そのままの姿勢で待伏せをしていました。
本日からわたしたちは聖日礼拝を再開することができました。今後も道筋を見極めなくてはなりませんが、緊張の中で平安を見出すあり方は、わたしたちよりもむしろ、野にある草花や虫を始めとしたいのちのほうがよく知っているかもしれません。確かにコロナウイルスはヒト以外の動物を攻撃することはほぼありません。しかし野にいるいきものは絶えずいのちの危機の中にいながらも、他のいのちを羨まず、今を生きることに全ての気持ちをを集中します。わたしたちは何に気持ちを集中していくのでしょうか。そして誰に思いを向けていくのでしょうか。
本日の箇所で人の子イエスは、弟子を始めとした群衆に、野の花・空の鳥を示しながら「神の国と神の義を求めなさい」と語りかけます。そうすれば食べ物も衣服もすべて「加えて与えられる」というのです。コロナ禍での経営不振への恐れからか、株による投資のコマーシャルがしきりにホームページに出てまいります。これは労せずして収益をあげるわざであり「加えて与えられる」のではありません。またかつては「出会い系サイト」として日常から遠ざけられた禍々しいアプリケーションソフトと同じものが「マッチングアプリ」として今やお見合いの勧めのように用いられています。コロナ禍の中での不安や孤独、そして貧困につけ込む商法ですが、「出会い」もまた一度きりのもので「与えられる」のであり、決して金銭では買えません。しかし盛んなコマーシャルは需要あってのこと。この二ケ月の不安の中で、心身ともに疲れ歪んできている世相を反映しているようです。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。福音書成立以前、歴史的に人の子イエスが宣教活動に勤しんでいた時代にはすでに貨幣経済が充実しており、人々は世に暮らす限りお金のやりとりと無縁ではおれませんでした。そのような日々の暮らしを人の子イエスは責めません。戒められるべきは神とならび称される富、すなわち「マモン」と呼ばれる富を司る偶像への礼拝を指します。野の花も空の鳥もマモンに依らずに生きています。ソロモン王よりかぐわしい一輪の花はマモンとは無縁です。他方でわたしたちは、暮らしが窮するほどにマモンにすがっていこうとします。6月23日(水)、週の半ばに沖縄慰霊の日を迎えましたが、近代日本は、表向きは自然を大切にし「神々」として敬ったといいつつ、マモンに蝕まれた歴史を重ねてきました。「富国強兵」という言葉が戦後も変わらず「高度経済成長」にとって代わられたその行きつく果てには、その時を懸命になって生きた個人の意図とは全く異なる退廃がありました。「数」でなければ礼拝も交わりも計れないというありかたを、無条件に教会に持ち込むわけにはまいりません。しかしこの二ケ月。そのようなあり方が、いのちをリスクにさらすという恐るべき仕方でコロナの禍中に問われたといえましょう。まさに「時の徴」です。この二か月間の忍耐の時、わたしたちは暮らしの根を今の時代に相応しくどこに、そしてどのように降ろすのかと問われてまいりました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのことはみな加えて与えられる」。気持ちを集中する事柄とは何か。思いを向けるのは誰なのか。それが明らかになれば、マモンに支配される世にあって、マモンに呑まれず「神の国と神の義」を見極める知恵を授かります。その知恵はわたしたちを頑迷固陋さから解き放ちます。牧師個人の考えではなくて『聖書』に記されているのです。『箴言』14章29節には「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる」とあります。この箇所でいう英知とは何かといえば「神の国と神の義」を各々の暮らしの中で見出す知恵。「短気な者」とは「焦ってばかりいる者」という意味もあります。餌を得るためカマキリのこどもでさえ忍耐できるというのに、わたしたちは幾つになってもできずにいるとはいえないでしょうか。しかしそのようなわたしたちにも、神さまは伸びしろを備えてくださっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(『マタイによる福音書』11章28節)。対面式聖日礼拝に渇いた二ケ月。招いてくださる主イエス・キリストを讃えましょう。わたしたちの礼拝を忍耐しつつ待っていたのは、実はイエス・キリストだったのです。
「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」とあります。福音書成立以前、歴史的に人の子イエスが宣教活動に勤しんでいた時代にはすでに貨幣経済が充実しており、人々は世に暮らす限りお金のやりとりと無縁ではおれませんでした。そのような日々の暮らしを人の子イエスは責めません。戒められるべきは神とならび称される富、すなわち「マモン」と呼ばれる富を司る偶像への礼拝を指します。野の花も空の鳥もマモンに依らずに生きています。ソロモン王よりかぐわしい一輪の花はマモンとは無縁です。他方でわたしたちは、暮らしが窮するほどにマモンにすがっていこうとします。6月23日(水)、週の半ばに沖縄慰霊の日を迎えましたが、近代日本は、表向きは自然を大切にし「神々」として敬ったといいつつ、マモンに蝕まれた歴史を重ねてきました。「富国強兵」という言葉が戦後も変わらず「高度経済成長」にとって代わられたその行きつく果てには、その時を懸命になって生きた個人の意図とは全く異なる退廃がありました。「数」でなければ礼拝も交わりも計れないというありかたを、無条件に教会に持ち込むわけにはまいりません。しかしこの二ケ月。そのようなあり方が、いのちをリスクにさらすという恐るべき仕方でコロナの禍中に問われたといえましょう。まさに「時の徴」です。この二か月間の忍耐の時、わたしたちは暮らしの根を今の時代に相応しくどこに、そしてどのように降ろすのかと問われてまいりました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのことはみな加えて与えられる」。気持ちを集中する事柄とは何か。思いを向けるのは誰なのか。それが明らかになれば、マモンに支配される世にあって、マモンに呑まれず「神の国と神の義」を見極める知恵を授かります。その知恵はわたしたちを頑迷固陋さから解き放ちます。牧師個人の考えではなくて『聖書』に記されているのです。『箴言』14章29節には「忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる」とあります。この箇所でいう英知とは何かといえば「神の国と神の義」を各々の暮らしの中で見出す知恵。「短気な者」とは「焦ってばかりいる者」という意味もあります。餌を得るためカマキリのこどもでさえ忍耐できるというのに、わたしたちは幾つになってもできずにいるとはいえないでしょうか。しかしそのようなわたしたちにも、神さまは伸びしろを備えてくださっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(『マタイによる福音書』11章28節)。対面式聖日礼拝に渇いた二ケ月。招いてくださる主イエス・キリストを讃えましょう。わたしたちの礼拝を忍耐しつつ待っていたのは、実はイエス・キリストだったのです。