2021年5月28日金曜日

2021年5月30日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「聖霊の交わりは時を超えて」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』11章25~30節 
(新約聖書20頁)

讃美歌:66,74,544
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 聖霊降臨節のただ中、風は初夏の薫りがします。今年度を迎えてふた月を数えるところですが、みなさまには礼拝を全うするにあたり献げられる祝祷に注意深く耳を傾けておられますか。一般には「仰ぎ乞い願わくは、父なる神の愛、イエス・キリストの御恵み、聖霊の御交わりが、あなたがたとともに、いつまでも永久にありますように」という祈祷に集約されてまいります。「あなたがたとともに」が「わたしたちとともに」となる場合もあり、かつて伝道師として初めて薫陶を授かった教会の牧師はそのように祝祷を献げていました。昨年から泉北ニュータウン教会の礼拝では、祝祷とは世にあるわたしたち、また関わる人々だけでなく、すでに主のみもとにあり、安らぎの中にある兄弟姉妹とともに、という文言を加えております。それはなぜでしょうか。

 それは、今献げられているこの礼拝は、決して世にあるわたしたちに独占され、私物化されるものではなく、あくまで主なる神に向けられた感謝であり、その声は天に召された兄弟姉妹にも及ぶのだと、わたしたち自らが確かめるためでもあります。仮に席が空いていたとしても、そこには召された兄弟姉妹や関係者が座っておられるとの確信の中で礼拝を献げているのだと、在宅礼拝を献げている今だからこそ、より深く心に刻みたいと願うところ。何よりもまず聖書のメッセージに合致するところであると、稲山個人の存念ではなく、あくまでも御言葉から聴き、そして読み取るからです。みなさまはどのようにお考えになるでしょうか。

 本日の聖書の箇所は、人の子イエスが悔い改めを行わなかった町々を叱りつけた厳しい態度から一転して、一切の憤りから解き放たれたかのように神を讃えるという内容になっています。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心にかなうことでした」。世にあって全ての町々がイエス・キリストを受け容れたのではなく、世にある全ての人々がイエスを喜びとともに迎えたわけでもありません。聞くに堪えない言葉も投げかけられたことでしょう。けれどもイエス・キリストは、そのような人々の言葉や振るまいをも含めて、すべてが「御心にかなうことであった」として肯定してまいります。「父のほかに子を知るものはない」、世にあって人の子イエスを理解するものはおらず、キリストを通して示される者以外には、父なる神との関わりに目覚める者もいないと語ったのち、それでもなお「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎ、すなわち平安を得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と語ります。

 人の子イエスは、わたしたちにはご自身の姿を直に詮索する仕方でのあゆみ寄りを絶っているようでもあります。イエスがどのような人であったか、わたしたちは聖書を通して知るほかに道筋がありません。おそらくわたしたちは隣人に対してもせいぜい「分かった気」になっている程度かもしれません。けれども本日の箇所には、それでも「疲れた者、重荷を担う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。そして疲れや重荷を通して、ご自身への道が拓かれるのだと語るのです。今日もまたため息に終わったという、徒労こそまことの疲れであり、重荷とはわたしたちの背中や心にこびりついて離れない鉛のような不安なのかもしれません。イエス・キリストはそのような思い煩いは「わたしが担う」とは言わず、逆に「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」というのです。「軛」とは家畜をともに作業させるために二頭が離れないようにする首枷の横木を指します。キリストに丸投げするというよりも、その徒労や不安をともにされることで、キリスト自らがわたしたちを招いてくださるというのです。だからこそまことの平安があるというのです。イエス・キリストに従う。イエス・キリストを生きる。これ以上の底はないという痛みと苦難の中で出会う時に、わたしたちもまた福音書に描かれ、キリストと出会う者の一人となる。自らを聖書の中に投げ込むことによって、わたしたちは幼子のもつような弱さを通して、キリストと出会います。神の愛の力であるところの聖霊の働きは、召された者も地にある者にも、ともに及び、堅く結びつけてやみません。この確信を分かち合いましょう。今、この時。キリストを通して、隣には大切な方々だけでなく、召された大切な方も、ともにいると確信してくだされば幸いです。

2021年5月20日木曜日

2021年5月23日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「くすぶる灯心は消えず」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『使徒言行録』2章1~11節(新約聖書215頁)
讃美歌:249,183,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類(動画事前録画版、ライブ中継動画版)ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。

ライブ中継のリンクは、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 ベツレヘムという小さな村の家畜小屋に宿された雫、一滴。この雫を通して主なる神は生きとし生ける者すべてに決定的な道筋で自らの愛をお示しになりました。その愛は世にあって傲慢な者に及んだのではなく、わたしたちがどれほど調べたところで決して明るみには出ない無名の人々、とくにその時代の公文書にも記されないところの、貧しさにある人、病に罹った人々や社会から遠ざけられていた人々を真っ先に活かすところとなりました。この雫とは他ならないイエス・キリストであります。
 しかしながらこの潤いは、最も近いところにいたはずの弟子たちには理解の超えたところにあり、人の子イエスに対立するところの祭司長や律法学者といった権力に近い側に立つ人々だけでなく、弟子の中にもその流れから逃れようとする者、流れをせき止めようとする者、流れを見誤る者も多くありました。やがて弟子はイエスの教えにも十字架と復活の出来事にも躓いていきます。しかしそのような躓きをものともせず、慈しみでつつみ、キリストは弟子たちを祝福しながら父なる神のもとへと昇っていったのでした。
 この祝福に応えるようにして、今度は弟子に神の愛の力が豊かに注がれます。「五旬祭の日」。過越の祭から五〇日を経て祝われるこの祭で、モーセがシナイ山で十戒を授かった記念をエルサレムでは祝いました。この戒めの完成としてイエス・キリストは世に遣わされ、救い主としてのわざを全うされました。次は弟子の番です。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれわかれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」。神の恵みは泉や水という言葉に表されもしますが、『使徒言行録』ではキリストの祝福を通して弟子に注がれた神の愛の力を「炎」に重ねて伝えようとします。炎は冷めきった料理を温めるだけでなく、感染症の危険から人々を遠ざけます。燃えさかる炭火に鉄をかざし叩き続ければ不純物は取り除かれ、次第に硬さを増していきます。暗闇を照らし生きる上で必要な交わりをもたらしながらも、人は炎をそのままのかたちで手にすることはできません。この力に押し出されるようにして、いよいよ教会の導き役としての使徒が働きを始めます。福音の世界宣教が始まります。
 五旬祭を祝うためにエルサレムを訪れたユダヤ人たちの出身はさまざまでした。パルティア、メディア、エラム。メソポタミア、ユダヤ、カパドキア。ポントス、アジア、フリギア。パンフィリア、エジプト、リビア地方、ローマから来た者、もともとユダヤ人であった者、異邦人からユダヤ教徒になった者、クレタ島やアラビアに暮らす者。ローマ帝国の支配圏に留まらず、さらに広範な地域からやってきたユダヤ教徒の群れでエルサレムは賑わい豊かでした。この場に集う人々には、ガリラヤなどは取るに足らない一地域です。けれども集う人々は、語られる言葉を聞き届けて驚きます。「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろう」。この疑問は人々の大きな関心となって知らぬ者同士を結び、使徒たちには一斉に眼差しが向けられます。しかし。
 幼き日に聴いた言葉はまことにシンプルです。母が子にささやく言葉が難しいはずがありません。使徒は神の愛を語っています。日本語では神の愛は「ご大切」とも訳されました。実はこの場面、神の愛のネットワークが、あらゆる言語の違いや分断の壁を超えて届き、「聴き従う」という祈りがあれば、だれもが明るみにされた神の愛の交わりにつながると語りかけています。傲慢さが交わりを混乱させた分断をもたらし、意思疎通を不可能にした『創世記』のバベルの物語の逆転現象が起きているのです。感染リスク対策は怠ってはなりませんが、コロナ禍による分断の悲しみは、絶えず育まれ続ける、いのちにあふれたネットワークに打ち勝つことはありません。



 今年の聖霊降臨日の礼拝は中継礼拝やHP動画という仕方で献げられています。今のところはやむを得ない苦渋の決断です。わたしたちは神との関わりを日々の忙しさの中で見失ってしまうのではないかと不安に駆られますが、『イザヤ書』42章2節から3節には次のようにあります。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなっていく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」。くすぶる灯心を消さない神の愛。神さまは時にふさわしい仕方でわたしたちに礼拝の豊かさをお示しになります。多様なわたしたちの一致は、イエスは主であるという呻き。その呻きから潤いに満ちた讃美と祈りが生まれます。



2021年5月13日木曜日

2021年5月16日(日) 説教(在宅礼拝となります。ライブ中継を行います。当日礼拝堂での対面礼拝はございません。)

「なみだの雨が止む日を待ち望む」 
説教:稲山聖修牧師

聖書:『ルカによる福音書』24章44~53節  
(新約聖書161頁)

讃美歌:158, 171, 544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類(動画事前録画版、ライブ中継動画版)ございます。

説教動画は「こちら」をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
中継ライブ礼拝を献げます。
ライブ中継のリンクは
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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【説教要旨】
 連日の新型コロナウイルスの報道の中で、わたしたちは具体的な予防対策を立てるというよりは、医療のインフラが機能しなくなり、医療従事者の方々も過労のどん底にあるとの話を聞き、打ちひしがれる日々を過ごしています。また、自分が罹患しないか、または感染させないかどうかとの不安を抱え続けなければならない毎日に疲れを覚えています。そのような中で味わう今朝の聖書の箇所は、復活したイエスが弟子の前に現れて焼いた魚を食べ、復活の出来事が夢幻ではないとの証しを伝えます。そして続くのは、わたしたちが今日『旧約聖書』と呼ぶ書物に刻まれた約束が今まさに完成すると宣言し、弟子たちの心の目が開かれて、神の愛の証しと教えを宣べ伝えるわざを託されるという内容です。しかもそのわざの始まる場所とはキリストが十字架に架けられ、殺害された町であり、キリスト自らも「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子を何度集めようとしたことか。だがお前たちは応じようとはしなかった」と嘆いた場所から始まると語ります。「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と、弟子の心には深く爪痕を残した町に残り続けなさい、というところが、ガリラヤへ行けとの言葉を託されるドラマとは異なる、『ルカによる福音書』ならではの言葉です。人の子イエスの宣教のわざの原点に戻るという意味よりも、十字架と復活こそが基であり、その出来事が弟子の心の目が開き、いよいよ使徒として覚醒するとともに、神の愛の宣教を任せながら、キリスト自らが天に昇っていくという描写。絶望に包まれていたエルサレムが「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあるとおり、喜びの町として全くその意味合いを変えてしまうのです。思えば「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」神の約束とはどのようなものであったか、わたしたちは改めて思い起こすように求める声を聞きます。

 旧約聖書に記された神の約束。神の側からするならばその約束は一つであり、旧い約束と新しい約束に分断されはしませんが、人の側からするならば、多くの犠牲が強いられた恵みでもありました。祝福の御手の中にありながらも、アブラハムを始めとした族長たち、とりわけ女性たちは人生の局面では犠牲を覚悟せねばならず、モーセもまたエジプトの奴隷の家から解放された人々を導きながらも、そこにはやはり犠牲がなかったとは到底言い難い生涯がありました。モーセとその誡めの物語に続いて神の言葉をとりついで証しする者は、頑なな人々を前に、あるいは神に逆らう人々を前にして、多大なる犠牲を伴なわずにはおれませんでした。そして時にはそれが恵みだと見なされました。

 しかし復活したキリストが語る「約束の実現」は、救い主の死を最後にして、もはや神の愛の証しに際しての苦しみや犠牲は必要なものではなくなったとの宣言でもあるとも読みとれます。これは決して「福音の安売り」「神の愛のはき違え」ではありません。世の中へ絶望、鼻で息をする者への絶望を知りながらも痛みや苦しみに慣れっこにならず、ただキリストのみを見つめることによって備えられる喜びです。これまでとは異なり、互いの優劣を比べず歩みだした弟子たちの喜びです。「キリスト以外に救いはない」という言葉は裏を返せば、キリストがすべての犠牲を収めてくださったとの確信を言い表しています。この確信のもと、弟子は使徒としての次のステージに立つにいたります。

 変異株の感染力の強さの中でわたしたちは日々キリスト者として、そして市民として可能な限りの対応を心がけていますが、世にあっては保健所や医療従事者の方々の労苦に思いを重ねずにはおれません。また社会福祉施設や公共交通機関といったエッセンシャルワーカーの方々の働きにも思いを重ねずにはおれません。就労に苦しむ方々の痛みを感じずにはおれません。進路変更を迷う若者の悩みをともにせずにはおれません。泉北ニュータウン教会自体が「社会福祉法人地球の園」のわざなしには証しを語ることは困難です。だからこそわたしたちはこのような言葉を分かち合いたいと願うのです。それは「犠牲なき献身こそ真の奉仕」。構成員の自己犠牲にのみ頼る援助活動は決して長続きしないというナイチンゲールの言葉です。5月12日はナイチンゲールの誕生日でした。多くの犠牲を伴なう奉仕こそがまことであると、ときに思い込んでいたわたしたちには目から鱗が落ちるような思いではありますが、献身に伴うであろう犠牲を最小限にしなければ、その奉仕は長続きしないことを見抜いた言葉でした。それは彼女が聖書から聞いた言葉でもあったでしょう。なみだの雨に濡れそぼち立ち続ける必要はないと、祝福しながら弟子たちのもとを離れていくイエス・キリストはわたしたちにも語ります。そして天に傘を差しだしてくださります。暮らしに不安を感じる日が常態化する中で、その不安もまた、キリストの祝福に勝るものではないと確信し、祈り続けましょう。

2021年5月9日日曜日

教会創立50周年記念礼拝のお知らせページについて

泉北ニュータウン教会創立50周年記念礼拝については

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