「神に見捨てられたキリスト」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』27章45~56節
讃美:136(1,2), 136(3,4), 539.
説教動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。 未曾有の悲しみや困難に襲われたとき、わたしたちはその原因となっている出来事に意味や由来を求めて納得し、説明しようと試みます。因果応報という考えがそれで、聖書の舞台となる世界でもしばしば見られるところです。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」という『ヨハネによる福音書』9章の物語はよく知られています。また災害や社会で生じている混乱について外国だけでなく異なる考えをもつ人々に責任を転嫁する陰謀論というものもあります。確たる裏づけはなく思い込みで流されるデマは必ず社会の弱者のいのちを弄びながらも、デマを流した当人は全く責任をとらないところへと拡大してまいります。
けれどもまことに不条理極まりない困難に遭って打ち砕かれた人は、その原因を探ろうともせず、また誰かのせいにもしようとはいたしません。実情が明らかになれば話は別ですが、心の底から打ち砕かれた人と申しますと、ただ嘆くしかなく、またただ閉じこもるほかなくなります。心も病みます。引きこもります。貧困はアフリカや南米にもありますが、わたしたちの街にある団地にさえ、戸建てにさえあります。誰も好き好んでそのような状況に陥る人はおりません。何が分かるのかという憤りさえ持てなくなるという困窮を、果たしてわたしたちは知っているでしょうか。必ずしも金銭だけでは計り知れない苦しみもあります。自己責任という言葉で切り捨てるにはあまりにも酷です。
本日の聖書の箇所では反感を抱く祭司長や律法学者といった権力者からイエス・キリストが危険視され、その果てに濡れ衣を着せられ、不当に逮捕され、公正な裁判さえ受けられず、ただただ坂道を転がされていくように誰もその責任を問われない仕方で十字架につけられ、その内実は殺害されていくという姿がなまなましく描かれています。この時代の処刑と申しますのは民衆の鬱憤晴らしという意味での見世物という性格も帯びていましたから、多くの人々の好奇の目に晒され、その時代の法的手続きに準じて処刑される死刑囚からも罵声を浴びせられるという始末です。本来ならばこのようなお話自体表沙汰にされず、闇に葬られるはずですが、福音書の書き手はこの十字架での出来事に救い主のあゆみの中で示された人の世の本質を曝こうといたします。それは何も悪いことをしていないどころか、貧困や孤独の中にいた多くの人々を導き癒したのにも拘わらず、十字架での殺害を通じて、わたしたちの暮らす世が、いかに神が創造されたいのちのあり方からかけ離れ、そして救い主自らの苦しみと絶望の叫びが、本来なら一瞥もされないところにある苦しむ人々の姿を映し出し、世の中心に置いているところに明らかです。わたしたちは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫んだことがあるでしょうか。これはただの苦しみの叫びではなくて、打ち捨てられていく人の絶望の叫びです。これは10年前の被災地で響いた声であり、あるいは新型感染症の中で万策尽きて斃れていく人々の声でもあり、困窮の中で声すらもあげられない人々の声なき呻きでもあります。わたしたちが仮に耳を塞いだとしても、イエス・キリスト自ら十字架の上でこの声を発している以上は、その痛みを聞き届けずにはおれません。
さらにわたしたちは次の事柄に注目したいのです。それは『マタイによる福音書』ではキリストのこの叫びが、死者の復活、そして本来ならばガリラヤを始めエルサレムにも暮らすユダヤの民を虐げる役目の最前線にいたはずの、また実質的にはキリストの殺害の責任者でもあったローマ帝国の軍人や下役に「本当にこの人は神の子だった」との呻きとも告白ともわからぬ言葉をもたらしているところです。なぜでしょうか。
いろいろな解き明かしが可能であるとは思いますが、やはりこの箇所からはイエス・キリストが、神に見捨てられた人、すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」と叫ばずにはおれない人々と一緒にいるという「神ともにいます」というあり方を究極にまで貫かれた姿がわたしたちに問われているのではないでしょうか。もし救い主にとって、死という出来事が乗り越えられない絶対的な壁であるならば、このような叫び声をあげることはあり得ません。むしろ沈黙してその死を従容として受け入れる、死を美化する姿を選ぶことでありましょう。しかしキリストはそうはされませんでした。復活という、言葉としては知ってはいるけれども荒唐無稽だとして笑われ、または人々から遠ざけられた救い主としてのあり方を実現されただけではなくて、死に対するいのちの勝利が全ての人々に及ぶのだと明らかにしてゆかれたのです。今、献げる礼拝もまたキリストを通して同じところに立っています。祝祷の際に牧師は天に召された兄弟姉妹を会衆に想い出していただきます。そしてこの場に集められたお一人おひとりに神の愛の祝福を祈っております。いつどこにあっても、神はわたしたちとともにいてくださるからです。
「人の尊大さ、神の謙虚さ」
説教:稲山聖修牧師聖書:『マタイによる福音書』20章20~28節
讃美:138(1,2), 240(1,3), 539.
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イエスには悪霊の頭がついているから、各々の悪霊を追い出せるのだとの噂をまき散らした祭司長や律法学者がいたと、先だってのメッセージでは申しあげましたが、イエスが救い主であると呻くように告白した人々の中にも様々な考えを抱く人々がいました。イエス・キリストに従い、仕えるわざは「人の上に立つ」ありようを根底から問うこととなります。しかしながら多くの人々は今自らを支配する人々と同じ力でもって、すなわちローマ帝国と同じ力と同じ道筋で人の子イエスが世を統治されるものだと思い込んでいました。それはかつて人の子イエスが荒れ野で誘惑を受ける中で、悪魔が「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄ぶりをみんな与えよう」と持ちかけた考え方と、残念ながら大差のないものでした。強制力を用いて民を統制しようとすれば、これは誰もが陥る落とし穴。この誘惑は『旧約聖書』で描かれるイスラエルの民の王たちを尽く呑み込むところの力でもありました。
ゼベダイの息子たちの母親はいったい何を望んでいたというのでしょうか。子を想う親の想いの中にも、あの誘惑と何ら変わらない黒雲が見え隠れします。子を思う親の想いとはまことにありがたいものだとする考え方に東アジアの伝統的な文化は立つとは申しますが、イエス・キリストとの出会いの中では親子の想いの中にも闇があるのだと、聖書はわたしたちに問いかけます。「イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください』」。母親の申し出は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの立身出世を願うに留まらず、わが子をキリストに委ねるわざが何を意味するかが分かっていません。人の子イエスは二人の弟子に答えます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。この問いかけにあろうことか弟子二人は「できます」と答えてしまうのです。実に浅はかです。その杯が何を示すのか二人は分かってはおりません。しかし人の子イエスは真摯に向き合おうとします。「確かにあなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。この言葉には人の子イエスがまさしくキリストだとの書き手の理解が示されています。この箇所には、『新約聖書』の物語の時に始まって、神の愛のわざが全地に及ぶという福音の完成、すなわち終末の出来事が示されているからです。それは福音書はおろかわたしたちにも遥か彼方の出来事かも知れませんが、神が必ず約束してくださっている出来事です。それゆえ他の弟子たちにもイエス・キリストの言葉の意味は隠されています。その結果何が生じるのか。それは温かさに満ちた交わりではなく醜い諍いです。聖書からかけはなれた教会もまたこのような争いを内に含まずにはおれません。だからこそキリストの次の言葉が響くのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ローマ帝国で権力を握る者は実に孤独な仕方でその任を解かれたり、その身を追われました。暗殺された皇帝も決して少なくありません。かつて自らが行った謀り事は権勢を極めた後に、必ず自らに返るからです。聖書の世界では自力本願や自己責任は本質的には砕かれるものとして描かれます。そこには人間の尊大さが表れます。他方で『旧約聖書』では神は人々のもとに「降ってきて」メッセージを伝え、そのわざを行いました。イエス・キリストは「偉い人たちが権力を振るう」世に囚われている縄目からわたしたちを解放するために自らを身代わりとしてお献げになります。苦しみを担ってくださるのです。だからこそわたしたちは、どこにいても神さまから与えられた役目に応じられるというものです。どのような役目を与えられても、必ず祈り、支えて助ける群れがいることを心に深く刻むものです。
新型感染症の影響に伴い、教会もまたさまざまな新しい取り組みに向き合うこととなりました。これまでの経験則、つまり、教会でわたしたちはこれまでこうして来たのだという蓄積をも、神さまにお委ねしなければならない時を迎えているようです。しかし今こそキリストの肢体としての教会の伸びしろが発揮され、喜びとともにそれを受けとめ、さらなる成長を望む時。失敗を恐れたり体面を気にしたりして腕組みしながら何もしないというのではなく、しくじりを恐れず、また人任せにもせず、やってみましょう。イエス様はそのようなわたしたちの失敗をフォローするために苦しんでくださいました。そのわざは苦しみに留まるのではなく、復活のいのちの輝きを先どりしています。
「世の禍を背負う栄光の救い主」
『マタイによる福音書』17章1~8節
説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書17章1~8節(新約聖書32ページ)
讃美歌:244(1,3), 247(1,3), 539.
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山の上で人の子イエスの姿が弟子の目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった、という「山上の変容」の記事。自らの死と復活を弟子に語り、その言葉がペトロも含め大きな動揺をもたらした箇所の後に記されるこの物語。イエスとともにいた弟子はペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネという、いずれも人の子イエスと絶えずともに歩んだ者ばかりでした。岩肌でできた傷だらけの足の痛みを堪え、山特有の強い風に震えながらイエスとともに歩む弟子は、図らずも、エルサレムへ行き苦難の道の果てに十字架で殺害された後、復活された姿を先取りして仰ぐこととなりました。この姿の顕現は、同時にそれまでの弟子のイエスへの思いを根底から覆す出来事でもありました。しかし不思議なことに、弟子たちには、十字架での死の後にある復活を語るイエスを咎め立てしたありようへの反省は一切見られません。目の当たりにされるのは、イエス・モーセ・エリヤという、モーセが『律法の書』、エリヤが『預言者の書』を象徴し、この書物は『旧約聖書』全体に記された神の愛のわざと不可分の間柄にあるという、キリストの復活が指し示す重大な意味が理解できませんでした。モーセは出エジプトの出来事の中で、奴隷とされていたイスラエルの民を導く役目を授かった人物。そしてエリヤは『旧約聖書』の中で、同じくイスラエルの民の多くが神の愛から離れ、目に見えるところのかたちある豊かさの奴隷となったありようと、貧しい者や弱者を虐げるありかたを強く戒めた預言者でした。『律法』を授かったモーセのわざと、神の言葉を託された預言者の働きが、救い主の訪れによって活きいきと結ばれ、そして完成する。わたしたちもこの箇所を読む毎に、そのような華々しさばかりを思い出します。その意味ではモーセとエリヤとイエスとの語らいに水を差すペトロと何ら変りはありません。そのようなペトロは逆の視点を持てないでいます。つまり、モーセの苦悩はどこにあり、エリヤの苦しみや悲しみはどこにあり、そして人の子イエスの苦難はどこに根ざしていたのか、という問いです。『旧約聖書』、例えば『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』。いったいどこに、モーセ自らの栄光が記されているというのでしょうか。イスラエル60万の民を率いて荒れ野を旅したモーセは、多くの困難の中でイスラエルの民に誡めを授けながらも、イスラエルの民の過ちのゆえに、自らは神に約束されたパレスチナの地に入る願いは叶わず、次の世代がヨルダン川を越えていく様子を眺めながら生涯を終えてまいりました。預言者エリヤは、奴隷解放の神を忘れ、物質的な豊かな暮らしの糧を司るとされた土着の神々バアルを崇拝するばかりで、貧しさにある者や奴隷、寡婦、孤児を顧みないその時代の王をいのちがけで批判するだけでなく戦いましたが、志を同じくする者のいのちは次々と奪われ、「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と呟きながら四十日四十夜歩き続け、一人かつてモーセが十戒を授かったホレブの山で「静かに響く神の声」に背中を押され、その役目を全うしてまいりました。後の世の者が振り返れば、英雄として誇るべきだとされる『旧約聖書』の指導者や預言者は、その実は自らの力を依り頼むならば何もなすこと能わず、ただ神の栄光と後ろ盾によってのみ、その名を物語に刻んだ人々でした。そしてその苦しみは不条理でありながらも、人の子イエスに及んだ苦難と同じ線の上にあり、キリストの苦難もまた虐げられた者を顧みようとせず、また小さないのちの豊かさに何ら関心を寄せず、目の前の救い主を決して認めない長老・祭司長・律法学者らによるものでありました。この頑なさによって、キリストは不当な裁判を経て十字架で殺害されるに及びます。ですからもし今日の箇所で描かれる人の子イエスの姿の変容の中で、弟子たちが圧倒された栄光の救い主を描くのであれば、それは神のみが授けたもう栄光以外のなにものでもありません。その栄光の輝きを前に、弟子たちはキリストを讃えるのではなく、戸惑うだけでした。この姿や態度には、わたしたちの姿が重なります。
去る3月11日(木)に行われた政府主催の追悼式では「東日本大震災犠牲者の霊」とまとめて記された大きな柱を前に式辞が述べられましたが、人の目にはまことに不条理な仕方で天に召された方々には一人ひとり名前があったはずです。そこには決して数値化されたり、これで追悼式はおしまいになるというような人の都合が立ち入る隙はないはずです。生前のしるしが見つからない遺族にとっては、決して10年は節目にはなりません。それは教会墓地に埋葬された教会関係者お一人おひとりにも言えるはずです。節目という言葉はわたしたちの暮らしの便宜で用いられ、尊ばれる言葉であっても、神の栄光を前にしてはあくまでも現在進行中の秘義として、神の秘密として隠されているはずです。わたしたちはイエス・キリストの苦難と死、そして復活に示された神の栄光の中で、神の愛に背中を押されてあゆみを重ねていく。それはいかなる世の困難の中にあっても、世の禍の中にあっても変わりません。祈ります。
「わたしにつながっていなさい」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』16章13~20節
讃美歌:85(1,2節), 249(1,4節), 539.
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わたしたちの暮しは、責任を伴う生き方とともに、責任の所在が不明瞭ながらも流布するところの風評とは無関係ではおれません。「人々はこう見ている」「世間はこう見ている」「みんなこう言っている」。日本社会ではまことに強い同調圧力。この力にはときに抗わなくてはならないと腹を括る一方で、そのような覚悟を問われる、実に侮れない力が頑としてあります。自分のあり方への深い確信より、みんながどう見ているのかという「世間体」による不安に苛まれるのは、わたしたちに限ったことではありません。風評の中で苦しみを味わうのは、常に少数者であり、貧しく、落ちぶれ、虐げられた上に排除された人々であり、その列にはイエス・キリストのあゆみも連なっていました。
人の子イエスは、フィリポ・カイサリヤ地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった、と『マタイによる福音書』にはあります。人の子イエスもまた、風評の中で苦しみを味わわれました。カイサリアという地方には必ずローマ帝国の軍隊の駐屯地や派遣された役人の家がありましたから、ときにその風評の中で疑いをもたれる人々もいたことでしょう。人の子イエスの問いかけに、多くの弟子は的外れな答えをいたします。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」という噂を伝えるだけであり、「あなたがたはわたしをどう思っているのか」という問いまでには注意がいたりません。「先生、人の噂などどうでもよいです」と言葉を遮り、イエス・キリストに癒された人々のように深い平安と確かな信頼に満ち、「あなたは救い主です」との言葉を口にはできませんでした。この弟子たちの姿勢にはイエス・キリストとの超えがたい距離を感じずにはおれません。確かにそこに関わりはあります。しかしそれは霧の中にあるようにぼんやりとしているのです。
そのような中でただ一人、毅然として宣言する者がいました。それは漁師の身の上であり、教養とも関わりのなかった弟子であるシモン・ペトロ。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間はなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。このようにイエス・キリストはまことに大きな権能をペトロに授けます。しかしこの権能を委託した直後、イエス・キリストが自らの殺害と復活を語り始めるや否や、ペトロは「そんなことがあってはなりません」と諫め始め、この委託とは正反対の叱責を受けてしまいます。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」。同一の物語の中で、ペトロは「あなたは幸いだ」と祝福を受けながら、同時に「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」との叱責を受けるのです。一体どちらがまことのペトロの姿であり、そしてペトロに象徴されるところの教会の姿なのでしょうか。
神を見失っているとき、わたしたちは世の噂や風評ばかりに依り頼みがちです。その場合、わたしたちは人の声に臆するばかりで新しい道に足を踏み出す勇気を失くします。神の愛の開拓者への道は遠くなってしまいます。教会から、神を畏れ依り頼む態度が失われるならば、噂に流される人々の不甲斐なさがまことに鮮やかに浮かびあがり、隣人を慈しむ思いさえも、党派心や分断へとつながりかねません。その状況すら当たり前になれば「そのようなものだ」との諦めの中で、良心の呵責すらも麻痺していくのもまた人の姿です。しかし、わざわざイエス・キリストはシモン・ペトロを「振り向いて」、つまり自らの顔を向けてペトロを叱っています。教会が神の委託に応えるためには、振り向いて自らの顔をわたしたちに向けるイエス・キリストとの絆、もっと言えば綱のような堅固な交わりを深めていくのが欠かせないのだと聖書はわたしたちに呼びかけます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」との呼びかけに耳を澄ますためにも、全世界を手に入れるより小さないのちが救われるのを喜ぶためにも、その絆はなくてはならないのです。コロナ禍の中でわたしたちはおよそふた月にわたり、聖日礼拝を休会いたしました。その中で授けられたメッセージとは、神からの委託を可能にするところの、キリストが授けてくださる絆への新しい目覚めではないでしょうか。「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。仮想現実ではなく神の現実として、わたしたちはこのつながりの中で礼拝を献げ、喜びをともにしましょう。