可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
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-アドベント第1主日礼拝-
時間:10時30分~可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
-収穫感謝日・謝恩日礼拝-
降誕前第5主日礼拝
時間:10時30分~
説教=「今・この時、天に宝を積む」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』10章17~22節
讃美=503(1,3節), 391(1,3節), 540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
世界の企業のトップランキングの会社名が日本の会社で占められ、世の景気が爛熟期を迎えたバブル時代といえば、何を思い起こされるでしょうか。いずれにせよ浮かれた雰囲気に満ちていたような気がします。この雰囲気に矛盾を感じた若者は、禁欲的な修行で知られる新宗教に居場所を見つけようとします。その中で有名になったものにオウム真理教がありました。高学歴で生真面目な若者がこぞって教祖の話に耳を傾け、出家という名の家出をし、富士山麓の村に設けた施設に身を委ねるにいたりました。ことの次第はあえて申しませんが、数多の犠牲者をもたらした地下鉄サリン事件の実行犯として処刑された者の中には、わたしの五年上の高校の先輩も含まれていました。
あらためてこのような影をも併せもつところの物質的な豊かさの中で世を敵視して大きな罪を犯して逮捕され、処刑されていった者たちは本来は何をすべきであったのかと、今なお犠牲者がおられる中で考えずにはおれません。
本日の箇所では「たくさんの財産をもっていた」ところの人物が描かれてまいります。初対面のイエス・キリストに唐突に走り寄り、ひざまずいて尋ねるところを観ますと、人の子イエスにそれなりの敬意を払っていたことでしょう。しかしその質問は内容の割にはあまりにも唐突です。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。財産をもっていたこの人は「何を悟ればよいか」とは言っておりません。「何をすればよいのか」と、なすべき行ないや立ち振る舞いについて問うています。返す人の子イエスの答えとは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ」というもの。主イエスの答えは「モーセの十戒」であり、その時代のユダヤ教徒であれば常識として誰もが知っている掟です。この答えに「たくさんの財産をもっている」この人はこう答えます。「先生、そういうことはみな、こどもの時から守ってきました」。初対面の人物、しかも尊敬する相手への言葉としては、少し幼い気がいたします。モーセの「十戒」の誡めのもつ重さと難しさを視野に入れずに素朴に答えられるのであれば、さほど人生経験を積んできたとは思えません。その意味で「富める若者」との理解が定着したのでしょう。主イエスは資産家の若者に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」。イエス・キリストのこの言葉から、若者はただの資産家であったとは断定できないと考えられます。「たくさんの財産」。金銀だけでなく家もあり土地もあり、その時代のことですからたくさんの使用人がおり、奴隷もあり、ローマ帝国の人々とのつながりもあり、家族に恵まれていたかもしれません。福音書の中で主イエスに救いを求めに来た徴税人や病人とは全く異質の世界に暮らしていたことでしょう。このような経緯を踏まえるならば、主イエスは財産を売り払っての出家を決して促してはいません。むしろ「あなたが今、独り占めしているその豊かさは、本当のところ誰のために用いるのか」との覚悟を求めているように思えるのです。あなたのもつ豊かさを、あなた以上に必要としている人には、その豊かさはまさしく天に積まれた宝として計り知れないほどの値打ちをもつから、まずそれを献げてきなさいと語っているように思えます。そしてそれは献げる者自らには字義通り天に積まれた宝となります。現代ですら、小腹を満たすためのおにぎり一つが、ある人には一日の食事となる場合すらあります。それが深い関わりを互いにもたらします。そのような分かちあいへと踏み出す勇気を持てなかった若者は、悲しみながら立ち去ったとありますが、イエス・キリストは「慈しんで」とあるように、決して彼を見捨てておりません。若者が肩を落とし見捨てられたと思い込んでいたとしても、主イエスの愛なる眼差しは、絶えずその人に注がれています。
経済バブルの崩壊から三十年。幾度もの経済的な危機を経て暮らしは「専業主婦・終身雇用制」から「共働き・ダブルインカム」が主流となりました。多くの試練を経て、障碍をも含めた多様性・こどもたちの多様性が少しずつ理解され、受け入れらていく途上にあります。社会も教会に集う人も五十年前とは確実に変化しています。かつて豊かさを楽しんだ若者たちは責任世代となり、物質的な豊かさに代わる人生の実りを見出そうとしています。そのような中で授けられた日ごとの実りを神に献げ、隣人と分かちあい、キリストの愛のうちに喜び過ごす日々をわたしたちは今・この時に与えられています。上辺の豊かさではごまかせなかった貧しささえも、わたしたちは分かちあい、新しい多様性と豊かさへとつなぐ祈りがあります。その実りを収穫感謝の祈りとして、神に献げていきたいと願います。
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
降誕節前第7主日礼拝
-永眠者記念礼拝-時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
降誕節前第8主日礼拝
-宗教改革記念日礼拝--降誕節前第9主日礼拝-
時間:10時30分~-聖霊降臨節第22主日礼拝-
信徒伝道週間ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー
緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
-聖霊降臨節第18主日礼拝-
説教:「いつくしみ深き」アフガニスタンのカブール空港に自衛隊機が到着したものの、現地人の関係者は全て置き去りにされて飛行機は飛び立ちました。その報せとともに思い出したのが旧外務省職員リトアニア・カウナス日本領事館領事代理の杉原千畝氏の「いのちのビザ」でした。杉原氏は当時の外交官の職務として旧ソ連やドイツ周辺国の情報収集にあたり、ソ連の動向を日本政府に連絡する諜報活動にも従事しました。しかし独ソ戦が始まり領事館にユダヤ人の難民が押しかけるようになると「夜、宵の始めに起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」(口語訳『哀歌』2章19節)、そして「神は愛だからです」(新共同訳『ヨハネの手紙Ⅰ』4章8節)を思い浮かべた伴侶の幸子さんの励ましもあり、ユダヤ人難民に2139枚以上のビザを発給しました。しかし三国同盟を危うくするとの日本政府の叱責を受け、ドイツの秘密警察の監視を受けながら、何とか外交官としての職務を遂行、1947年に帰国するも外務省から退職通告書を受け退官、戦後は辛酸を舐めた人物でした。アフガニスタンといえば中村哲医師を思い出しますが、お二人に共通するのは中村哲医師の場合「困っている人を放っておくことはできません」、杉原千畝氏は「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」というまことにシンプルな動機です。中村医師はバプテストの教会、杉原千畝氏はロシア正教会に連なるキリスト者でした。
こうした言葉を踏まえながら本日の聖書を味わいますと言いようのないやるせなさを感じます。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたはみな知っているはずだ」。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめて慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。礼拝を赦されているわたしたちは、コロナ禍にあり苦境に立たされていても辛うじて暮らしを持ちこたえています。さらに話を広げれば、人によれば万一、病床使用率が逼迫する中で新型感染症に罹患したとしても入院加療が可能です。他方でコロナ関連の変死事案として警察が公表した方々は少なくとも122名にのぼります。開発途上国にあっては酸素さえ届かないという状況が慢性化しています。困っている人は今の世には数え切れないほどおられます。中村医師や杉原千畝氏の言葉は痛いほど分かるのです。けれどもわたしたちはこの金持ちの男性のようにイエス・キリストに従い得ない者として嘆くほかないのでしょうか。職場から戻り一息つこうとするとき、隣家から家族の間でのただならぬ物音を聞いてしまうとするならば、わたしたちは途方にくれるほかないというのでしょうか。
しかし、仮にそうだとしても、わたしたちは本日の聖書の箇所で主イエスが「帰りなさい」と男性にひと言も語っていないところに注目すべきです。憤ってはいないところにも目を向けましょう。むしろ「慈しんで」との言葉でもって男性を見つめているその顔を仰ぎたいのです。悲しみながら立ち去ったその人との関わりをイエス・キリストは決して否定しません。それどころか「慈しみ」すなわち「神の愛」によって自らと堅く絆を結んでおられます。「永遠の命を受け継ぐ」とは、キリストの愛を前にして死をも恐れない道筋を備えられることでもありますが、あなたはその道から決して遠くないと、本日の聖書の箇所でイエス・キリストは嘆き悲しむ人に語りかけています。
わたしたちは神さまから異なる賜物を与えられています。それはその人の個性やコンプレックスに留まらず、どこに暮らしているのか、どのような生き方を積み重ねてきたのか、他人に語れないデリケートな事柄をも含みます。また神さまは、他人と較べながら神の愛の証しを立てなさい、キリストに従いなさいとは申しません。「困っている人を放っておくことはできません」、「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。そのように言える場所はわたしたちにも備えられています。自分探しから隣人の尊さに目覚めたとき、神の愛、即ち永遠の命を喜ぶのです。
緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
【説教要旨】
「やられたらやり返す。倍返しだ」との決め台詞がブームとなった番組のキャッチフレーズを今になって思い出しますと、『聖書』を知る人であれば「人間は変わらないなあ」と溜息をつくのではないでしょうか。要するに『旧約聖書』が成立する前から、その舞台でやりとりされていた「同害復讐法」の焼き直しでしかありませんし、現在なおも超大国が戦争を始める際に口実とする常套句である「報復原理」の蒸し返しに過ぎません。くすぶる様々な不満を「倍返し」で発散する。今の混沌とした時代には仕方がないのかもしれません。しかし「倍返し」に夢中な大人の背中をこどもたちは観ていたのは事実です。けれどもわたしたちは「別の生き方」を知っています。【説教要旨】
『新約聖書』が描く世界で羊たちはどのように飼われていたか。今日のように品種改良されていない家畜は、牧童の言葉に必ずしも従順ではなかったかも知れません。けれどもいざというときには、つきっきりで世話をする羊飼いの声を聞き分け集まってくるということは充分あり得ることでした。それだけではありません。『新約聖書』の世界では今で言うところのアラビア数字はまだ発明されておりません。また実質的にはデスクワークとはほど遠いところで汗を流す羊飼いたちに数を数えるという習慣があったかどうか。もちろんそれは指折り数えてという意味ではあったかもしれませんが、緻密な計算の術を学ぶ機会があったかどうかは分かりません。そのような中で百匹の羊と関わっていたと申します。すなわち、羊一匹いっぴきの個体差を見抜いて名をつけ、そしてその名を呼ぶことで、羊を飼育していたというのです。この境地までに達しますともはや飼育するという枠を超えて「ともに暮らす」としか表現できません。一匹いっぴきの顔つきや表情、毛艶や年齢や声の調子を見極めて健康状態を確かめながら養い続けます。牧童すなわち羊飼いには一匹も九九匹も変わらない、名のある存在です。ですから迷い出た一匹がいれば他の九九匹と同じように探し求めますが、見つけ出せばやはり他の九九匹の羊と同じような喜びに包まれます。小さな者の一匹でもいなくなってしまうのを羊飼いが喜ばないのと同じように神は一人でも滅びるのをお喜びにならないという譬え話です。この譬え話を土台にして次のメッセージを主イエス・キリストは語ります。【説教要旨】
ガラスパール、あるいはイミテーションパールという製品をお聞きになった方はおられるでしょうか。乳白色のガラス玉に魚から抽出したカルシウム等を吹きつけもので、大正時代以降に仕あがりとともに経済性を兼ねた商品として南大阪地方の産業を担っていたと申します。当時の庶民からすれば汗がつけば光沢が失われてしまう天然の真珠よりも扱いやすかったのかもしれません。実用性を重んじる気風が窺えるというものです。
しかし逆に言えばそれは真珠の扱いがどれほど難しいかを物語ってもいます。「宝石」という名で呼ばれながら、入り込んだ異物から身を守るためにアコヤガイが自らの貝殻の成分でもって身を守るために包み込むというわざの中でもたらされる「生体鉱物(バイオミネラル)」と申します。養殖の真珠の場合、アコヤガイは身体の中に人工的に異物を入れることになり、その結果多くの貝が死んでしまうという現状があります。その中で残った貝の中から取り出されるのがいわゆる「真珠」となります。結晶ができてもできなくても貝が自らのいのちと引き換えにして一粒の真珠を送り出すのには変わりありません。
本日の聖書の箇所では「天の国」すなわち「神の愛がわたしたちの世を支配するとき」を次のように譬えます。宝が畑に隠されているとき、見つけた人はそのまま隠しておき、財産をすべて売り払い畑ごと買っていくというあり方。一見ずる賢くも思えるし、実に聡明な、クレバーなあり方としても受けとめられます。しかし自分の財産をすべて売り払うわけですから「あれもこれも」ではなく「のるかそるか」の覚悟が求められます。一度交わした契約は元に戻すことはできないからです。そして先ほどお話しした真珠のお話です。真珠の養殖は明治期に日本人が世界で始めて成功したものですから、この時代の真珠とはこれすべてみな天然。アコヤガイを見つけること自体とても難しく、その中でも品質がデリケートであるところの高価な真珠は手に入れるだけでなく、その後の手入れもまた重要になってまいります。そしてお話のまとめとしては漁師の譬え。様子を見るとどうやら地引き網のようです。網の中にいる獲物の中でよいものは器の中に、そして悪いものは仕分けされていきます。おそらく毒性があったり傷みやすく口にできない生きものもその中にはいたはずです。そしてこの三つの譬えを経た上で、世の終わりに天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃えさかる炉の中に投げ込むというわけです。
ただわたしたちが注意しなくてはならないのは、先週お話しした「毒麦の譬え」と併せて本日の箇所に耳を傾けるべきであります。繰り返しますが、世にある人間の正義とは人の数ほど、星の数ほどあります。その正義をぶつけ合わせることを、イエス・キリストはけしかけてはいません。ある信仰共同体、ある教会に属する者が全て網の中にいたよい魚であるはずがありません。そこには毒針をもっていたり鋭い歯をもっていたりする魚もいるかもしれません。しかしそれは決して焼かれていく毒麦ではなく調理の仕方によっては実に豊かな滋養を病床にある者にもたらすかもしれないのです。また目利きの商人の見つけた高価な真珠一粒よりもさらに気品漂う真珠が別のところにあるかも知れません。隠しておいた宝も、値打ちの分からない人に掘り返されて何日も宝を見つけた人は泥まみれになって探し続けなくてはなりません。どこにあるのか。これはわたしたちには隠されています。けれどもそれは必ず見つかるものであり、探し続けるその最中にあって当事者一人ひとりの希望にすらなり得ます。決してそれは高尚な理想というものではなくて、この世の欲とない交ぜになっているものかもしれません。しかし、それは探し続ける者の志を決して曲げるものではありません。畑に隠された宝も、気高く値の高い真珠も、選りすぐりの魚も、わたしたちのいのちと不可分ではないからです。決していのちを粗末にするものではないからです。
わたしたちは神の前にあっては、むしろわたしたち自らが泥まみれでありながらもイエス・キリストが汗だくになって探してくださる宝であり、アコヤガイが自分のいのちと引き換えにもたらす繊細な真珠であり、見た目には確かに癖があるかもしれないけれども、重篤な病の床にある人の養いとなる魚になり得る尊さを秘めているのではないのでしょうか。その尊さを大切にしながら、わたしたちの隣にいる人のいのちの輝きに感じ入るとするならば、それは他ならないイエス・キリストのわざであります。偏った政治の中で見失いがちないのちの主キリストの手に包まれたとき、わたしたちはどのようなところにあったとしても気高い輝きを放ち始めるのであります。祈りましょう。