「悲しむ者を忘れない救い主の光」
『マタイによる福音書』2章16~23節 説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書2章16~23節
讃美:292(1節), 122(1節), 540.
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正月三ヶ日最後の日曜日。主のご降誕をお祝いする降誕節は1月6日まで続きます。和暦では「松の内」直前になっても物語は続きます。さて本日の箇所では正月気分を台無しにするどころか吹き飛ばすような物語が記されます。それはヘロデ王が三人の博士から告げられた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」との問いに不安を抱き、博士に「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と虎視眈々と救い主の殺害の機会を窺っていたのにも拘らず、そのねらいが外れた結果、大いに怒り「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」という実に痛ましい箇所です。『マタイによる福音書』とのタイトルにもある通り「福音」とは「よき知らせ」であるはずなのに、なぜこのような記事が挿入されているのか、わたしたちは書き手に問いかけずにはおれません。しかしながら福音書を丹念に読んでまいりますと、クリスマスの物語で示される「よき知らせ」とは、わたしたちが勝手に妄想するファンタジーとは大いに異なるものだ、と逆に身に詰まされてくるのです。
例えばNHK大河ドラマが戦国時代に及んだ際に必ず描かれるのが織田信長。開明的な発想や数々の合戦の物語、そして本能寺の変での横死が劇的に描かれますが、反面その時代の民衆が連なる一向宗と絡んだ伊勢長島農民一揆への過酷な仕置に言及する作品は殆どありません。信長はこの一揆に臨んで長島城に女性やこどもを含めて20,000人から30,000人以上を閉じ込めたまま焼き討ちして殺害に及んだとの史実がありますが、これは滅多に扱われません。おそらくそれは日曜日の午後8時という時間にそぐわない、またはお正月の娯楽作品にもそぐわないからと見なされているからでしょうが、聖書の書き手は『旧約聖書』でも『新約聖書』でも人間の邪悪さをめぐり淡々と筆を進めてまいります。『出エジプト記』におきましてはモーセ誕生前夜にファラオから出されたヘブライ人の男の子の虐殺の勅令を忘れずに描きます。そして今朝の箇所でもヘロデ王が及んだ野蛮な振る舞いを忘れません。この蛮行の記事には『出エジプト記』の記事に加えて『旧約聖書』の預言の成就という着想が加わります。則ち、人間が時の権力に忖度し削除したり改ざんすることもあり得る「公文書」ではなくて一切の権力におもねらずに、神が備え給う世を人が歪めていく様をも一切隠ぺいせずに書き記すという視点が加わるのです。多くの無辜のこどもたちが、ヘロデ王の毒牙にかかりました。そこには遺された者の悲しみ、とりわけ想像の及ばない母たちの嘆きがあります。うわべだけを読めば、イエス様がお生まれにならない方がよかったのではないかとお考えになる方もいるかもしれません。正月にそのような話など聞きたくないと思われるかもしれません。神などいるものかと叫ばずにはおれない人もいるかもしれません。
けれども、単に人が刻む資料からは忘れられたり改ざんされたりする物語とは異なり、このこどもたちが殺害されたという出来事を決して神は忘れず、母の悲しみもクリスマスには相応しくないという理由では決して退けられはしないのです。むしろ神の約束の完成へと向かう物語に編み込まれて、この出来事は決して福音書から削除されるどころか、幼子イエス・キリストが成長し向かうであろうところの十字架での死と復活の出来事と、不可分に関わり光に照らされます。なるほど、確かにこの箇所で引用される『エレミヤ書』31章15節は「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」で終わります。しかし、この文章は16〜17節で次のように続きます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国から帰ってくる」。ところで、『エレミヤ書』にある「敵の国」とは誰の国を指しているのでしょうか。『マタイによる福音書』と並んで『エレミヤ書』の文脈を踏まえますと、その時代と今日の政治状況にも重なる事情の中にある母とこどもたちの嘆きを、神は忘れずに聞き届け、罪という言葉では言い表しがたい、それが誰でも犯し得る凡庸な悪であれ、人の世に巣食う根源悪であれ、その邪悪さの中での疲弊、そして死への恐怖から救い上げてくださる、とも理解できます。ある教会では「幼子殉教者」とさえ記される、ベツレヘムでいのちを絶たれたこどもたちの物語を経て、ヘロデ王の息子アルケラオスの支配地から遠ざかり、ガリラヤのナザレへと、エジプトへ逃れていたイエス・キリストとその両親は戻ってまいります。それは何のためであったのか。「あなたの未来には希望がある」との声を聞くためです。年始の華やぎの陰で、悲しみに暮れる方々を決して忘れないイエス・キリストに示された神の愛が、新年もまたわたしたちに迫ってくるのです。
「いのちの光を見つめてあゆむ道」
『マタイによる福音書』2章1~12節
説教:稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書2章1~12節
讃美=106(1節), 118(1節), 542.
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12月21日(月)の日没後、木星と土星が397年ぶりに接近するという天体現象がありました。コロナ禍の重苦しさに疲れがちであった日常から空を仰ぎ、または中継される望遠鏡の動画を観ながら、しばし肩の荷を降ろすような気持ちを味わいました。もちろん夜空の星々がどのように科学的な仕組みの中で動いていたのかを知る人は聖書の中には登場いたしません。聖書で描かれる世界では地球を見下ろす視点ではなく、天動説に基づいてお椀のような夜空を星々が動く理解に立っていました。
しかしだからといって、そのような理解が天地を創造された神への信頼を損なうことはありませんでした。むしろ古代のユダヤ教には属さない人々、すなわち異邦人にも星の動きを通して新しい王の誕生がほのめかされます。三人の博士は異邦人であり、エルサレムの王に拝謁して問うには「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」。世の力の束縛から解き放たれて星の示すところを、長い年月をかけて歩んできた三人の博士とは対照的な王の姿があります。ヘロデ王。その名は福音書で描かれるイエス・キリストの生涯や教会のあゆみにつかず離れずつきまとう、わたしたちが無視できないところの人の姿や態度を示しています。
福音書に登場するヘロデの系譜はクリスマス物語に記されるヘロデ王に次いで、2章22節に記される息子ヘロデ・アルケラオスを記します。またその弟であるヘロデ・アンティパスは14章に記され、洗礼者ヨハネの処刑に関わっています。さらにクリスマス物語のヘロデ王の孫の世代にあたり『使徒言行録』12章で「ヨハネの兄弟ヤコブ」を処刑し、その後にペトロを捕らえ監禁するヘロデ・アグリッパⅠ世、『使徒言行録』25章ではアグリッパの息子であり、使徒パウロの弁明に耳を傾けながらその行く末を案じるようでもあるヘロデ・アグリッパⅡ世と、実に四代に渡って記されます。三人の博士は、救い主とそのわざに従う初代教会のわざにつきまとう闇の一族のルーツと出会うのですが、博士は星の輝きを見つめながらヘロデ王の力の虚構を見破ります。「まことのユダヤ人の王としてお生まれになった方の星」との関わり、つまり垂直の関係の中で、目の前の王が、ローマ帝国という後ろ盾なしには立ち得ない脆さに脅えていると見抜きます。三人の博士にはヘロデ王への恐怖は微塵もありません。むしろ不安に包まれ慌てふためくのは、世の権力とは無縁な博士ではなく王のほうです。ヘロデ王の権力は、一重にこの不安を覆い隠すために用いられます。少なくとも福音書には、王がその力を公共のために用いている姿は描かれません。息子の代も孫の代も、その振る舞いは何ら変わらず引き継がれていきます。ヘロデ王は三人の博士の指摘を覆そうとしたのでしょうか、民の祭司長や律法学者を全て集めて調べさせますが、その指摘は不安を消すどころか却ってメシアの誕生の信憑性を裏づけます。「ユダの地、ベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」。ヘロデ王は表向きはユダヤの王でありながらも、この記事を知りませんでした。観念したヘロデ王が打つ次の手は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の幼児の虐殺です。暴君と化した王の剣から逃れるために三人の博士は決して同じ土俵には立ちません。三人はひたすら星の示すところへ進み、飼い葉桶に安らう救い主とまみえ、宝の箱から黄金・没薬・乳香を取り出して献げます。博士の眼差しは決して揺らがず、イエス・キリストを讃える礼拝へと向かいます。それは博士たちの祈りでもありました。剣に頼るヘロデ王からは遠く響くメッセージの中で、各々の国にいたる帰り道も新たに開拓しながら進んでいったのでした。困難で狭い道。しかしいのちの光にあふれた道。
社会情勢が不透明になる中で教会のありようもまた深く問われているようでもあります。わたしたちのすぐそばにはヘロデ王とその末裔に表される、神とは遠く離れたところにある、神との絆なしに力を振るう者の無言の圧力があるかもしれません。それはフレーズとしては実に分かりやすく、大勢の人々が讃える安楽な道かもしれません。しかしそれは滅びにいたる広い門であり、深淵が口を開けて待ち受けているかもしれません。その一方で一見すると、実利には繋がらず無用・非効率に思えながらも、わたしたちを確実に導くいのちの光があります。何のためにわたしたちの特性や賜物は用いられるのでしょうか。それは嬰児虐殺という、未来を奪う惨たらしい人の現実の一面を決して忘れずに、そのような残虐さや悲しみの声を一身に受けとめる、十字架へと赴く救い主に献げるためです。激動の2020年を全うして新たな年に向かう時、博士のあゆみに祈りつつキリストに従う者の姿を重ねてまいりましょう。
「力の支配を破る救い主の誕生」
『マタイによる福音書』1章18~25節
説教:稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書1章18~25節
讃美=107(1節), 109(1節), 542.
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イエス・キリストの誕生物語は、本日ともに味わう『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』とではその舞台設定がかなり異なっています。『ルカによる福音書』ではマリアとヨセフがベツレヘムに帰郷する旅路とその背景を、ローマ皇帝やシリア州の総督の名を挙げるまでに実に細かく描いています。他方で『マタイによる福音書』の冒頭で重んじられるのはアブラハムから人の子イエスにいたるまでの系図、そして聖霊によって身籠るマリアとヨセフの姿です。旧約聖書との関わりの中で若い婚約者のやりとりをクローズアップするだけでなく、救い主の誕生の出来事がいかに奇跡的であったかを強調します。だからこそ救い主の身籠りが華やかなファンファーレのもとに描かれるのではなく、人々に戸惑いと不安をもたらす「事件」として記されます。喜びの前奏曲として重々しい調べが響きます。なぜなら救い主の誕生の光に照らされたわたしたちの世のありのままの姿もまた描かれるからです。
例えば次の一節。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身籠っていることが明らかになった」。『マタイによる福音書』では、単にマリアが身籠った、またはマリアに子ができたとは記しません。聖霊によって身籠ったとして、神のなさる出来事がいのちに及ぶ場合の「神の神秘」または「神の秘義」を徹底的に強調します。その出来事はまず、42代にわたって記される系図にメスを入れます。わたしたちがいずこに生まれたかという正当性をめぐって系図をたどる場合、血筋という事柄が浮かびあがってまいりますが、血縁を頼ってたどれるのは、イエスの父ヨセフまでであります。マリアは聖霊によって身籠ったという一文によって、父ヨセフと飼い葉桶に安らうみどり児との「血によるつながり」が寸断されて、救い主の誕生がどれほどわたしたちの想像を絶した出来事であったのかが強調されます。それだけではありません。例えば王家の正当性に観られる由緒正しさを血筋によってはたどれなくなる代わりに、血の繋がりがあろうとなかろうと人々が背負い込まなくてはならなった神への反逆の歴史、それこそ業や因果という言葉では到底表現できない、長きに渡る歴史の闇を、キリストが一身に受けとめる歩み。この道がすでに暗示されています。
それだけではありません。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。この箇所でいう「正しさ」とは旧約聖書の誡めに適うという意味での正しさです。ヨセフの身には覚えのない妊娠。それは二人の亀裂ばかりを示すのではありません。誡めに重ねるならば、マリアは婚約の身にありながら「姦通を犯した女性」として扱われます。「表ざたにする」とは処刑の前に行なわれる晒しものとしても理解できます。モーセの十戒にまとめられる古代ユダヤ教の誡めでは姦通、すなわち不倫の罪は石打の刑でもって処刑されるという大罪です。ですからヨセフはマリアのいのちを守るために婚約を解消し、彼女を身籠らせた別の男性との結婚へと導かなくてはなりません。これはマリアにもつらく、またヨセフにもつらいはずです。けれどもヨセフに残された道はそれしかないと映りました。
しかしまんじりともしないままでいるヨセフの夢に「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。それは旧約聖書との関わりを絶つのではなく神の約束の完成です。「見よ、おとめが身籠って男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は「神がわれわれとともにおられる」という意味であると記された後に、不安に苛まれていたヨセフがその後、マリアとどのように関わっていったかが記されます。
この小さな救い主の誕生は東方から訪れる三人の博士の知るところとなり、この博士たちはローマ帝国にへつらい権力を手にしていたヘロデ王の偽りをあばき出すこととなります。ヘロデ王の支配によるところの平和。それはローマ帝国の後ろ盾に基づいた圧政のもとでの平和でした。それに無頓着なエルサレムに暮らす誰もが、救い主の誕生を喜ぶどころか、不安に包まれたというのです。力の支配が破られ、世の全てが白日の下にさらけ出されるという場合、福音書の世界ではそこには混乱が生じます。旧約聖書で人は神の顔を直に仰ぐには堪えられないと記される通りです。しかし、イエス・キリストが神とわたしたちとの間に立ち入ってくださり、直に仰ぐにはあまりにもまぶしすぎるいのちの真理の光を、自ら不条理な世の力の支配の下で傷を重ねるその傷みそのものによって、キリストは温かな光へと変えてくださいます。磨りガラスには無数の傷がありますが、その傷を通してこそ、まばゆい神の真理の輝きは、いのちを活かす温かな光へと変えられてまいります。御子イエス・キリストの誕生をこころから祝いましょう。
「あなたの前に道を備える主」
『マタイによる福音書』11章2~10節
説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書11章2~10節
(新約聖書19ページ)
讃美:95(1,4節), 二編119, 542.
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人の子イエスは、救い主キリストなのかどうか。イエスの故郷で、人々はあまりにもこの問いかけに無頓着でした。他方キリストは果たして人の子イエスなのかどうか。この問いを抱き続けていた人がいました。無関心と問いを抱く態度は異なります。それは他ならない洗礼者ヨハネ。ヨルダン川の川辺で集まる人々に、水による洗礼を授けていたあの人です。『ルカによる福音書』では洗礼者ヨハネの母エリザベトはマリアと親しい間柄にあると描かれ、『ヨハネによる福音書』ではイエスが近づいてこられるだけで「見よ、神の小羊」と見抜くヨハネですが『マタイによる福音書』ではかなり態度が異なっています。『ルカによる福音書』ではイエスと洗礼者ヨハネは親戚として描かれる、家庭的なぬくもりに包まれるような物語となっています。『ヨハネによる福音書』では確信に満ちた預言者として記されます。しかしながら本日の箇所で洗礼者ヨハネは、自ら告げ知らせた救い主が果たしてイエスなのかと戸惑っている様子が描かれています。人の子イエスが救い主なのかどうかは一目瞭然とはしません。隠された存在のままなのです。
しかしながら、今日の箇所で洗礼者ヨハネの置かれた場所を踏まえますと、それもまた宜なるかなとしか申せません。今や洗礼者ヨハネは自らのホームグラウンドである荒れ野にいるのではなく、牢獄に捕らえられています。救い主の訪れを告げるとともにヘロデ一族の無法を批判したこの預言者は、その存在を危ぶまれて今や囚われの身となりました。洗礼者ヨハネの牢獄、今でいう刑務所か拘置所、または収容所での暮しは、決して祈りと讃美ばかりの日々ではなかったと分かります。ヨハネに自分のなすべきことを果たしたとの確信はあったのか。それとも彼が自分の力不足を嘆き、悲しみを主なる神にぶつけていたのか、それは定かではありません。それでもヨハネは人の子イエスのわざを聞いて、弟子を遣わします。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネにはもはや猶予は残されていません。生涯を賭けたその働きの実りがもたらされるのか、それとも虚しく潰えていくのか。それを確かめるすべは、もはや洗礼者ヨハネには残されていません。
問いを託されたヨハネの弟子に、イエスは決して自分が救い主であるとは直ちには答えません。次のように答えるだけです。すなわち「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。イエス・キリストは出来事だけを洗礼者ヨハネの弟子に伝えます。その言葉には特別な意図もありません。目的もありません。ただ事実を述べています。その意味でいうところの証しを淡々と立てているだけです。再現不可能な出会いの中で起きた出来事を述べた後にただひと言、「わたしにつまずかない人は幸いである」。故郷ガリラヤのナザレの人々は「イエスにつまずいた」、イエスその人そのものにつまずいたとあります。同時にイエス・キリストは身柄を拘束された洗礼者ヨハネに「わたしにつまずかない者は幸いである」との言葉を託します。自分の歩んできた道はこれでよかったのかと自問する洗礼者ヨハネの姿。実はこの姿の中に、救い主を指し示しながらも万事力を尽くした中でなお沸きあがる内なる問いに向き合う飾り気のない人としての預言者の姿があります。このようなヨハネがイエス・キリストを指し示す器として描かれているところに、福音書のクリスマス物語が重なります。先日は「恐れるな」という言葉をめぐってメッセージを分かち合いましたが、アドベントの第三週である本日は、イエス・キリストの訪れに戸惑いながらも、戸惑いを隠さずにその出会いを受け入れた一人として、洗礼者ヨハネの姿をともにしたいのです。なぜならわたしたちもまた大きな戸惑いの中に、今置かれているからです。どうして待降節の中でわたしたちは感染症に振り回されなければならないのか。罹患する日々の恐怖の中で、なぜクリスマスを迎えなくてはならないのか。わたしたちの行なってきたことは間違いだったのか。
粗末な飼い葉桶に眠る救い主は、御使いに誕生を告げ知らされた人、星に導かれた人、天使ガブリエルにその宿りを告げ知らされた夫婦にも、そしてわたしたちにも語りかけます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。主なる神は人の子イエスにつまずく者と、つまずかない者とをご存じでした。そしてイエスの弟子はつまずきのただ中で、キリストの確信にいたりました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。「それは人間にはできることではないが、神には何でもできる」。待降節に灯された光に希望を抱ける人々は、この不安が深まるほどに、いのちの光の温かさを感じ、自問自答の中から確信を神から備えられるに違いありません。囚われの身にあってヨハネはなおも問い続けました。飼い葉桶の主の道を備えた人々の列に加えられたいと願います。
「キリストに出会う勇気」
『マタイによる福音書』13章53~58節
説教:稲山聖修牧師
聖書 マタイによる福音書13章53~58節
(新約聖書27ページ)
讃美 96(1,3節), 二編41(1,3節), 542.
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「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることはなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聴いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである」。本日の福音書の13章14~17節に記されている、譬えを用いて神の国の秘密を語る問いに向けたイエスの答え。この言葉は福音書に記される物語であるとともに、イエス・キリストの言葉と働きへの向き合い方をわたしたちに問いかけてきた教えでもあります。思うに、イエス・キリストが故郷にお帰りになって語っていたその教えもまた、福音書にちりばめられた種々の譬え話と何ら遜色はなかったことでありましょう。
そのような場面も編み込まれた本日の箇所はクリスマス物語の後日談にもなっています。物語の舞台はナザレ。クリスマス物語でヨセフとマリアが、ヘロデ王の息子を警戒して訪れて住いを構えた集落でした。その集落に暮らす人々が人の子イエス、そしてその家族と関わった場でもあります。人々の挙動に目を注ぎますと、わたしたちはいろいろと気づかされます。それは家業が大工であると指摘しながら「母親はマリア」、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」と多くの弟の名を語り、さらには妹たちにも囲まれていたという生育環境を語っているのです。人の子イエスは、実に多くの家族に囲まれて育ったと記されます。しかし、なぜか人々はヨセフの名を語りません。世帯主として第一に名を挙げられるのが父ヨセフではなく母マリアですから、イエス・キリストは今日での母子家庭の中で育ったようでもあります。ただそのような家族事情そのものよりも深刻な現実があります。それは人々が人の子イエスの家族事情の詮索に興じてばかりで、イエスが「会堂」、すなわち当時のユダヤ教のシナゴーグで語る教えにはほとんど関心を払ってはいないその態度にあります。福音書の書き手はイエスを救い主として受け入れた人々やイエスに従う群ればかりではなく、またイエス・キリストの存在を危険視し、抹殺を企てるという仕方で強烈な関心を抱く勢力を描くばかりでもなく、イエスが救い主であると気づかなかったという「熱くもなく・冷たくもない」人の姿をも視野に入れています。そこで描かれる人々はせっかくイエスの人の子としての生涯と同時代に生まれただけでなく「姉妹たちは皆、われわれと一緒に住んで」いるほどの近さにいたとしても、誰がキリストなのか無関心、他人事なのです。
旧約聖書・新約聖書全巻を見渡して気づかされるのは、イエス・キリストとの出会いへと導かれる「神の愛」につつまれたその多くが、人生の「底を打った人々」であり「痛みを痛みとして」「悲しみを悲しみとして」「うろたえをうろたえとして」「どうすればよいのか他に道がなかった」という事情を背負っているところにあります。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたけ、そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とありますが、求めずにはおれない、探さずにはおれない、門をたたかずにはおれないという限界状況の中にこそ、キリストとの出会いが隠されています。わたしたちはそのようなキリストとの出会いを、そのような狼狽えや試行錯誤、多くの戸惑いの中で授かります。これは実に不思議な話ですが、神から授かる勇気なしに、わたしたちはそのような狼狽えや戸惑いの中に立ち涙を流す、鳥肌の立つような思いを抱くことはありません。むしろ人としては巧みにそのような狼狽や戸惑いを避けようとします。しかしそれでは「神の子イエス・キリストの誕生」という出来事の当事者となるのは困難ではないでしょうか。
もちろんわたしたちは誰しも人生の底を打つ体験から決して自由ではありません。その場に居合わせたとき、心身ともに身動きがとれなくなってしまったとき、「恐れてはならない」という声が胸に響くのです。イエス・キリストの誕生の当事者として、飼い葉桶の傍らに立つ人々の列へと加えられている事態に気づかされるのです。ある者は日々の暮しに苦しむ羊飼いであり、ある者ははるか遠いところから、道行く人々に半ば好奇の目にも晒されながら歩んできた三人の博士であり、やがて救い主に癒されるであろう、様々な歪みを抱えたところのわたしたちでもあります。「恐れるな」との声は、今日の箇所では姿を描かれないヨセフにも、またキリストを身籠ったマリアにも響きました。イエス・キリストの出来事の当事者となる門はわたしたちにも開かれています。キリストに出会う勇気、そしてその出会いを待ち望む勇気。その勇気を主なる神から注がれながら、待降節の第二週を過ごしましょう。