『ヨハネによる福音書』9章27~34節
説教:稲山聖修牧師
ただし新約聖書で描かれる世界では罪概念と穢れの規定との区分が曖昧になり、身体に障がいがあったり、病を患っていたりする場合、それは因果応報の結果として理解されていく誤解が生じる。当事者は生まれながらの特性だけでなく、その特性を人格的に否定されるという重い軛に責め苛まれ続ける。しかし、イエス・キリストはこの因果応報論から盲人を解き放つ。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。イエス・キリストは個人の自助努力ではどうすることもできない因果応報の闇から、先天的に目の見えない人を苦しみから解放し、同時に旧約聖書の誤解をも修正している。物乞いするほか生きる術のなかった男性の目に自らの唾で捏ねられた泥を塗る。イエス・キリストはその上で「シロアム(遣わされた者)の池」に行って洗うように命じ、そのようにしたところ、男性は見えるようになる。
それでは男性の家族はこの出来事を喜んだのだろうか。男性の目が啓かれたのは安息日。病の癒しを公に認める役目は祭司あるいはユダヤ教の法学者にある。そこでは激しい議論が巻き起こされる。「安息日に癒しのわざを行うなど神のもとから来たのではない」。やがて質問は癒されたところの、かの男性に向けられる。「お前は一体、あの人をどのように思うのか」。
調査はさらに続く。「本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と両親は自分たちとその出来事とは無関係だと言わんばかりに男性を遠ざけていく。因果応報の軛から解放されながらも、男性は孤立を深めていく。家族までを責め苛む大勢の人々は、それが罪ある行為であるとは気づかない。確信犯的な悪意の中でなく、正義感や善良さの中で人が罪を犯すという地獄絵図が記される。「我々はモーセの弟子だ」と自称して憚らない人々は、自らの癒しの出来事を証しするにいたった男性を「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と責め立て追い出す。遣わされた者の孤独と戸惑い、そして苦しみが描かれる。
とはいえこの癒された男性の歩みは、悲劇に留まったのだろうか。かつて見えなかったという男性は、イエス・キリストとの出会いによって問い質しを受け故郷を追い出されるが、実はこれこそが男性の新しい旅路の始まりではなかったか。この人はイエス・キリストを凝視する歩みを始めた。それは避けることのできない心細さと孤独とがついて回る歩み。けれどもその心細さと孤独はイエス・キリストの救いの確信と新しい交わりの形成へと変容していく。イエスは男性が追放されたことを聞き届け「あなたは人の子を信じるか」と問う。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエス・キリストは語る。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。男性が「遣わされた者」となったことを悟った瞬間だ。
わたしたちは年齢や未熟さを言い訳に、教会の交わりでも人と比べて自分を卑下する場合がある。しかし最大の問題は年齢を問わずイエス・キリストの出来事に「馴れてしまう」ことなのだ。誰もが無力な盲人を尋問し責め立てた挙句、交わりから追い出すという危うさを、その「馴れ馴れしさ」の中で抱えている。それこそ自覚なき現行罪だといえるだろう。イエス・キリストはそのような馴れ馴れしさの中で、浅薄な正義感と善良さとが引き起こした無数の過ちによって十字架への道を歩むにいたる。しかしその歩みは同時に復活の光によって照らし出されている道でもある。イエス・キリストを凝視するとき、全ての恐れから解放され平安を授かる。病の罹患はその人の罪科によるのではない。神から授かる平安と「落ち着き」を今こそわたしたちは必要としているのだ。