2020年3月22日日曜日

2020年3月22日(日) 説教


「復活の光の中での葬りの準備」
『ヨハネによる福音書』12章1~8節
説教:稲山聖修牧師

 今朝の箇所と重なる物語は『マルコによる福音書』14章3節に記される。キリストが招かれた場所は「重い皮膚病」に罹患していたシモンの家。その病はかつて「らい病」と訳された「レプラ」であるが、その時代には治療法が不明である。本来ならば彼は徹底的に隔離されるだけでなく、道行くときにその病名を叫ばなくてはならなかった。病がもたらす苦しみと、病が社会にもたらす混乱という二重の苦しみの中にシモンはいた。家族も同様の扱いを受けただろう。そのシモンの家に入り食卓をともにされたのがイエス・キリストであった。マルコの物語はこの出来事から始まる。
 他方『ヨハネによる福音書』の場合、この食事の場面ではある家族が描かれる。それはイエス・キリスト自らがラザロとその姉妹のマルタ。マリアはその家族として描かれる。場所はベタニア。ラザロの故郷は同じくベタニアだから彼の家での食卓だったろう。ベタニアという場所はイエスとその弟子にはどのような場所だったか。
 『ヨハネによる福音書』11章では、ベタニアに入るにあたり弟子がイエスに上申する。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。古代ユダヤ教の最高刑の待ち受ける場所がベタニア。それを承知の上でラザロを死の床から癒すためにイエスはその地に赴いた。弟子のトマスは、絶望的な心境から絞り出すように「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言うほどであった。
キリストを狙う祭司長とファリサイ派は最高法院、すなわちその時代のユダヤの最高議決機関を招集して審議する。「この男は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。キリストを信じるとは、ローマ帝国の支配原理とは異なる考えに人々が導かれることを意味する。ローマ帝国の支配原理について大祭司カイアファは語る。「あなたがたは何も分かってはいない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなた方には好都合だとは考えないのか」。この発言を、わたしたちはいかに受けとめるのだろうか。人間をそのかけがえの無さにではなく、数として考えた場合、カイアファの発言は俄然説得力を帯びる。少数が多数のために犠牲になる。国全体が滅びないで済む方が好都合だ。自分が安全圏にあるとの思い込みにある者の発言。しかしその思い込みは往々にして脆かったり、錯覚であったりするというものだ。
全てを知った上で食卓に座るイエス・キリストのもとにマリアが香油を持参する。『マルコによる福音書』では無名の女性だったが、この箇所ではマルタとラザロとの了解を得ている。この振る舞いを叱る声はマルコの物語と変わらない。「なぜこの香油を売って、貧しい人に施さなかったのか」。イエス・キリストが語るには「この人のするままにしておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。キリストの苦難の出来事、十字架の出来事、埋葬の出来事、そして復活の出来事は全て一度きり。そしてそのかけがえのなさは、復活の光の中で確かめられる。その宣言の証し人が食卓にいる人々となる。同時に「貧しい人々はいつもあなたがたとともにいる」とは、イエス・キリストの教えと生きざまを宣べ伝える教会に委託された務めである。それはキリストを通して注がれる神の愛の力であるところの聖霊なしにはできない。人の力にのみ依り頼むのならば、たちまち争いが生まれて歴史に消えていったはずだ。この委託が何とイスカリオテのユダに向けて語られ弟子たちに及ぶ。

 イエス・キリストの葬りの備えとなる香油。これはわたしたちが日々身にまとっていくところの香りであり、葬りを超えたところの復活のイエス・キリストの香りでもある。その香りに包まれるためには、自己責任の枠でその力を授かることは不可能だ。絶えずイエス・キリストの名前を心に刻んで神との関わりを忘れないところから全ては始まる。自分ではなくイエス・キリストを自らの中心に据える。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(『ヨハネの手紙Ⅰ』16節)。ため息をつく時から招かれる時へと、わたしたちは絶えず呼びかけられている。移ろう人々の姿を超えて、キリストの姿を見つめよう。