2020年3月1日日曜日

2020年3月1日(日) 説教

泉北ニュータウン教会では、
日本基督教団による
新型コロナウィルス感染症に伴う注意喚起についての声明」を踏まえながら
礼拝と平日定例集会を行っています。
お越しくださる方々にはご理解とご協力をお願い申しあげます。

「主なる神を讃え、主に仕えなさい」
『マタイによる福音書』4章1~6節
説教:稲山聖修牧師

聖書は処世術を記した書物でも自己啓発本でもない。とりわけ福音書が示すのはイエス・キリストの復活にいたるまでの生涯、そして「キリストに従う」道である。だから時として読み手の理想や思い込みを粉々に打ち砕き、偽りの平和の正体を暴く。仮に政治家がその演説で聖書を戦争や搾取、差別を正当化するために用いるのであれば、それは果たしてイエス・キリストに従う態度に裏打ちされたメッセージとなるのだろうか。
今朝の「荒れ野の試み」として知られる物語で注目するべきは、悪魔自体が何者かというよりも、悪魔として描かれる誘惑者の言葉そのものだ。第一には「神の子なら、これらのパンが石になるよう命じたらどうだ」とある。これは単なる食の誘惑には留まらない。救い主のみがもつ力を、自分のために用いてみろという自己救済の誘惑でもある。イエス・キリストが十字架の苦しみにある時、人々は「神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい」と罵り、その場にいた祭司長や律法学者や長老も「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう」と侮辱する。イエス・キリストのわざは、徹頭徹尾他者のためにある。決して自分を救うためにではない。「自分さえよければそれでよい」という身勝手さは神の御旨とは相いれないと、はっきり記されている。
そして第二の誘惑「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちはあなたを支える』と書いてある」との言葉。この箇所で誘惑者は『詩編91編』12節を引用する。「彼らはあなたをその手に運び、足が石に当たらないように守る」。誘惑者は聖書を引用してイエス・キリストを翻弄する。そしてその誘惑の実とは、神の愛を試すということだ。「試す」とは疑いや不信でもある。聖書を引用して神を疑わせるというテクニックに、わたしたちは幻惑される。イエス・キリストは『申命記』6章16節を引用して「試してはならない」と首の皮一枚の差でこの誘惑に打ち勝つ。
第三の誘惑は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。誘惑者は単なる偶像崇拝を形式的に勧めているのではない。「非常に高い山」「世の全ての国々とその繁栄ぶり」に暗示される名誉と権威、そして富が礼拝そのものの対象である。高台に暮らす人々には下町の暮らしは隠されている。世の全ての国々の繁栄は必ず誰かの犠牲に成り立っているのに、苦しむ仲間の姿が見えていない。旧約聖書では孤児と寡婦、そして寄留者を軽んじるありかたは厳しく戒められているのに拘わらず、その誘惑に抗えなかった人々は少なくはなかった。『マタイによる福音書』では「誘惑の物語」がイエス・キリストの洗礼者ヨハネに水による清めの洗礼の記事の直後に記される。イエスが救い主としての生涯を始める初めての出会いが、実は誘惑者なのだ。なぜこのような物語の構造になっているのだろうか。思うにそれは初代教会にこのような「独り占めの誘惑」がはびこっていたからではなかったか。まさにその只中で、福音書を書き記した人々は、その試みを神がもたらした試練としての確信に立って描く。だからこそ、イエス・キリストは救い主になる修行のためにではなく、「霊」、則ち神の力に導かれて誘惑を受けたと記す。そして諸般の誘惑をそれとして見究めて、打ち克つために「あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕えなさい」と『申命記』6章13節を引用する。シンプルかつ決定的な矢をキリストは放っている。『マタイによる福音書』で主イエスが用いている旧約聖書の言葉は、全てが『律法(トーラー)』の中に収められている。イエス・キリストは単に聖書を振りかざすのではない。また世の倣いを聖書で正当化するのでもない。あくまでも聖霊の力に背中を押され、わたしたち人間が陥る誘惑をことごとく見極め、そして自らその誘惑の只中でご自身を神の言葉とし、勝利される。キリストは独占や自己救済の誘惑に勝利し、分かち合いのもつ豊かさと、他者へ痛みを伴う愛を示す。
新型感染症の対応をめぐって、身のまわりではただならない混乱が起きているように思える。礼拝ですら閉鎖した教会もある。だからこそわたしたちはイエス・キリストに根ざし、神を讃える交わりに支えられ、主なる神の賜わる落ち着きと冷静さ、平安を授かる。受難節の第一主日礼拝。主がともにいるとの確信に立って歩もう。