「一粒の麦が地に落ちなければ」
『ヨハネによる福音書』12章20~26節
説教:稲山聖修牧師
『ヨハネによる福音書』には他の福音書では描かれない登場人物や群衆の様子が記されているという意味で多くの目覚めを与えられる。実に印象深いのは、この物語ではマルタとマリアという二人の姉妹にラザロという兄弟が加わり、このラザロがイエス・キリストの復活の出来事を先取りするかのような重要な役割を担っているというところだ。イエス・キリストがエルサレムに入城するという物語の場合でも『ヨハネによる福音書』の書き手はラザロに触れる。12章17節には「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせた時一緒にいた群衆は、その証しをしていた」。さらにはエルサレムに入城してきたイエス・キリストを群衆が出迎えた理由にも「ラザロの復活」の話の広がりがあったからだ、と書き手は理由づける。イエス・キリストを迎える群衆を目の当たりにして、律法学者は徹底的に打ちのめされる。
今朝の箇所ではイスラエルの民の奴隷解放を祝う「過越の祭」にギリシア人も加わっていたという話が記される。このギリシア人も群衆に紛れてエルサレムでの礼拝の列に加わろうとしていた。ガリラヤのベトサイダという、他の福音書では「災いだ、コラジンよ、災いだ、ベトサイダよ」と、ソドムの町よりも罪深いとして𠮟られた町から出てきたギリシア人は、キリストの弟子の一人フィリポに願い出る。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」。
フィリポとアンデレを経てイエス・キリストはこの知らせを聞く。別の福音書ではティルスやシドンといった様々な異邦人、ユダヤ人からすれば異国の民でごった返し享楽と商売で賑わう町や、創世記で神を顧みなかった町として滅ぼされたソドムの町よりも罪深いと扱われたベトサイダから使者として派遣されてきたかもしれないギリシア人の話を聞いてキリストが語ったのは「人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎むものは、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」。叱りつけたはずの町から救いを求める使者が訪れる。聖書の世界では救いを伝える使者は多く描かれるが、救いを求める使者は稀だ。それではイエス・キリストが担ったのは何か。それはティルスやシドンといった経済的な楽しみに現をぬかす街々、またソドムもほうが軽い罰で住むと言われたコラジンの町に暮らす人々への執成しに留まらず、ファリサイ派の一部や祭司長たち、長老といった人々の歯ぎしりに満ちた憎悪である。これら全てを一粒の麦が受けとめて、いのちを失った後に授けられる多くの収穫が、いのちの希望として記されている。「キリストに従う」「キリストに仕える」という言葉が抽象的にではなく、具体的にどのような道筋となるのかを考えさせられる。
COVID-19が猛威を振っており、日本もその例に漏れない。買い占めやマスクの転売を戒めるだけでなく、泉北ニュータウン教会では礼拝を休止しないのかという問いを抱く方もいるかもしれない。けれども同時に、礼拝に平安を見出す人がいるとするならば、牧師としては一人になっても続けなければと思っている。そんな折、イタリアはロンバルディアのベルガモで働くジュゼッペ・ベラルデッリ神父が、自分より若い患者にと人工呼吸器を譲って召されたという話を聞いた。これは美談では済まないぞと生き方を突きつけられている。神父は教会員を神に祝福され、キリストに赦された人として生涯を全うしたと気づかせるべく「病者の塗油」というわざを行い看取りをする。その際に感染する者も多く、医療従事者に劣らない数の司祭がイタリアでは逝去している。
召された聖職者も自ら望んでいたとは考えづらい。神から委託された働きに懸命に励んだに過ぎない。けれどもそのような生き方が、COVID-19でも奪えないいのちの希望を灯しているように思えてならない。「這ってでも礼拝に」という囚われから解放され、まことの平安を今・ここで味わうことのできる喜びに感謝したい。みなさま自身がキリストの豊かな実りとなるためにも、くれぐれもご体調を優先されて礼拝に出席されますよう。