『ヨハネによる福音書』8章21~26節
説教:稲山聖修牧師
『ヨハネによる福音書』の今朝の箇所は『ルカによる福音書』の当該箇所を踏まえているようにも思える。物語の舞台はルカと同じく神殿の境内。イエス・キリストの語る相手はファリサイ派、すなわち律法学者。ただそこには少年イエスの面影というよりも、緊張の中で律法学者と向き合う救い主の姿がある。「そこで、イエスはまた言われた『わたしは去っていく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だがあなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行くところに、あなたたちは来ることはできない』」。ファリサイ派の学者を含めたところのユダヤの民は呟く。「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることはできない』と言っているが、自殺でもするつもりだろうか」。ファリサイ派が語る神の救いとはエルサレムの神殿に集う人々に向けられている。律法学者は過越の祭で記念されるエジプト脱出の出来事と、ローマ帝国のくびきからの解放を重ねているのであり、諸民族やユダヤの民にあって、なおも生活共同体からの排除に苦しみ続ける人々は視界に入らない。ユダヤの民の呟きにイエスは答える。「あなたたちは世に属しているが、わたしは世には属してはいない。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。あなたがたは世に埋もれていく道筋の中で、神との相応しい関わりを見失ったまま生涯を全うするほかないと、キリストは語る。イエス・キリストが過越の祭の中で「わたしはある」と語ったという記述は、キリストが何者なのかをはっきり示す。なぜなら旧約聖書の『出エジプト記』の中で、民の指導者モーセが神の名を問うた際、神自ら返した言葉が「わたしはある、わたしはあるという者だ」とあるからだ。本日の聖書箇所の後に記される28節では「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と記される。人々はイエス・キリストを十字架で処刑したそのときに、イエスがキリストであること、世の民全てに姿を現わした「十字架につけられた神」なのだと得心するにいたる。そのように『ヨハネによる福音書』の書き手は記す。
『ヨハネによる福音書』の福音書の書き手は、わたしたちが旧約聖書を味わう場合でも、また日々の暮しでも決定的な事柄を記す。『出エジプト記』で「わたしはある、わたしはあるという者だ」と語るところの奴隷解放の神は、今やイエス・キリスト自らを神自らの言葉、すなわち神の言葉とする。そうなれば「わたしの行くところに、あなたたちは来ることはできない」という言葉さえ、わたしたちには救いの言葉として響かないだろうか。なぜなら、この言葉は転じて「わたしたちが行くことができないところに、イエス・キリストは歩みを進まれる」との解き明かしも可能だからだ。わたしたちはイエス・キリストが進まれたその足跡をたどる中で、各々の限界を踏み越えていける。それは思慮のない歩み、熱に浮かされた歩みではない。世間の評価がどうであれ、わたしたちはイエス・キリストにあって神の真理の跡をたどるのである。確かにわたしたちはキリストではない。しかしキリストの弟子を見れば、情に流されたり、しがらみに囚われたりという、あらゆる囲いこみのわざから解放されるだけでなく、わたしたちも誰かを縛らずにはおれないという、家族や人間関係にありがちな鎖から解き放たれるという、実に風通しのよい成熟したありかたを伴う祝福を受けるのではないか。「わたしは誰々につく」――聖書では「わたしはパウロに、わたしはアポロにつく」というような閉塞をもたらす殻を破り、教会の交わりそのものも新しい姿を授かるのである。
少年イエスと、息子を道中で見失ったマリアとヨセフは、そこに新しい家族のありかたを見出したのではなかろうか。やがて少年は「わたしはある」と自ら奴隷解放の神の名を戴くにいたる。キリストの愛につつまれるありかた。それは全ての関わりが、主にある愛のうちに祝福されたありかたを示す。神の吹く風であるところの聖霊がそよぐ、実に風通しのよいありかたが備えられる。代々の教会、また重ねた年齢を問わず、わたしたちは新たにされ続ける。