『ヨハネによる福音書』2章13~22節
説教:稲山聖修牧師
イエス・キリストがエルサレムの神殿の境内の両替商や商人を追い払う場面。そして「この神殿を壊してみよ」と迫る箇所。他の福音書ではこの二つの場面の間に祭司長や律法学者、民の指導者の殺意や民衆の騒ぎが描かれるが、『ヨハネによる福音書』ではこの叙述はひとつに圧縮されるだけでなく、福音書のはじめに配置されている。祭司長や律法学者たちや「ユダヤ人」と一括りにされ、キリストに対する殺意よりもむしろ戸惑いが記される。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。この配置をもとにすると、次のような書き手の態度が考えられるというものだ。則ち、書き手はキリストに対する人々の反応には関心を寄せず、むしろイエス・キリストの振る舞いそのものを凝視するという並々ならぬ集中だ。
まず今朝の箇所の前半で描かれるキリストの言動は、そのものとしてはわたしたちには理解しがたい。そこではイエス・キリストは「牛や羊や鳩を売っている者たち」、「座って両替をしている者たち」が直接に無礼を働いているわけでもないのに「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒した」とあるからだ。「わたしたちはごく当たり前の生業として仕事をしているだけの話。キリストよ、あなたはわたしたちの暮らしを否定するのか」。大騒ぎの境内でそのような声が響いたとしても不思議ではなく、わたしたちもいつの間にかその戸惑いを共有しているのだ。けれどもこの箇所には、どの福音書でも刻まずにはおれないイエス・キリストに啓示された神の愛の激しい一面が表れている。
例えば、神殿の境内で牛や羊や鳩を「売っている者たち」。これはモーセ五書、則ち『律法(トーラー)』に記されている、神への献げものを販売している屋台や市場のような場所が示されている。神に特別の誓いや贖い、または願いを申し出る者は清い生き物として牛や羊、または山鳩を献げることとなっている。ただし『律法』の誡めには「買って献げなさい」とは記されてはいない。もちろん当時を考えれば牛や羊を連れてエルサレムへ長旅をしたり山鳩をぶら下げて歩いたりなどということは非現実的。だから人々は屋台や市場を利用するのだが、問題は使用される貨幣。ローマ帝国の通貨には皇帝の肖像が刻まれ「偶像」とされることから神殿では別の貨幣に両替しなくてはならない。その際には法外な手数料が要る。山鳩の献げものは本来は貧しい人のために開かれた神と人との関わりを確かめるしるしであるのに、神への祈りを心から献げたいと願う人が煩雑な手続きと手数料によって排除されてしまう。
この背景としては福音書に描かれる神殿の成り立ちが考えられる。「この神殿は立てるのに四六年もかかったのに」という一文。新約聖書に描かれるエルサレムの神殿を建設したのは、あのヘロデ王であった。彼はローマ帝国を後ろ盾にして民衆の税金と労働力を用い、自らの威光を示そうとしたのだ。その結果、本来はエジプトでの奴隷の家からの解放を祝う「過越しの祭」でさえ、ローマ帝国の支配を正当化しその抑圧のガス抜きとなる。イエス・キリストにしか見抜けなかったねじれと真実が隠されている。だから「わたしの家を商売の家にするな」との叫びが響くのだ。
続いて「この神殿を壊してみよ」との言葉が記される。キリストが問うのは、神殿が誰のために建てられたのかという問題。ヘロデ王とその支援者には応えられない問いかけでもある。「イエスの言われる神殿とはご自身の体のことだった」という文言を汲むならば、なおさらキリストの復活は誰のためだったのかと問わずにはおれない。
イエス・キリストが問うた「神殿」とは、『律法』に収められた「ノアの洪水物語」を読むと明らかになるかもしれない。ノアが建て、洪水から逃れるために乗り込んだ「箱舟」をヘブライ語では「テーバー」と記す。これは「神殿」をも同時に示す。混乱の中から逃れようと人々が神に助けを求める場所が神殿本来の役目でもある。復活したキリストを求める人々も同様である。悲しくもエルサレムの神殿はこの働きを喪失していたと『ヨハネによる福音書』の書き手は記す。生き延びたノアは箱舟から出て祭壇を築き、感謝の献げものを神に献げる。それはノアが買い求めたのではない。祭壇には神に助けを求めたノアがたどり着いた平安が表現されている。キリストを通して授けられる平安がそこに重なる。キリスト者が今の時代に示す信仰の証しは、神に向けて「助けて!」と祈ることだ。助けを呼ばわることすらできずに息絶えていく人々の中で、助けを求められる場所を示す使命が、わたしたちには託されている。