2020年1月26日日曜日

2020年1月26日(日) 説教

「婚宴をつつむキリストの香り」
『ヨハネによる福音書』2章1~11節
説教:稲山聖修牧師

今朝の聖書の箇所に描かれる「イエスの母」は、決して親子の適切な距離がとれている母親とは言い難い。「マリア」と名前が直接には記されてはいない今朝の箇所。それは『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』のクリスマス物語で描かれるの「聖母」マリアでもない。息子とは必ずしも適切な距離がとれていない母の姿が鮮やかに描かれる。
イエスは救い主としての生涯をすでに始めている。その意味でイエスは母親の手からはとっくに離れている。さらにガリラヤのカナで行われた婚礼の席には、イエス・キリストの弟子も招かれている。手違いがあったのだろうか、あろうことか「イエスの母」はぶっきらぼうに「ぶどう酒がなくなった」と言う。イエス・キリストも次のように応じる。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。あくまでも公共の性格を帯びている場で「ちょっと困りますよ」という含みも込めて無遠慮な母親に応じるのは当然だろう。ただし「わたしの時はまだ来ていません」とキリストは応じるが、母は耳を貸さない。勝手に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と申し出てしまう。このように極めて一方的な申し出の中、始まるのが「水をぶどう酒に変える奇跡物語」。用いる器はぶどう酒の醸造用のではなく、身体や手足を清めるために用いる水を貯めておくための、石の水がめだ。つまりこの水は飲み水を貯めておくための水ではない。そのような重い石の水がめが六つ。その数は完全数の七に一つ足りない。何もかもが欠けている状況の中、イエス・キリストはどのように振舞われたのだろうか。
 イエス・キリストは母親の無理強いであれ、婚宴の失態をカバーするという唐突な出来事であれ、決して拒否されない。「清めのための水がめに水をいっぱい入れなさい」と仕える者に命じる。そしてそのかめから「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と申しつける。婚礼を統括しているはずの世話役には一連の出来事は知らされていない。だから世話役はこのハプニングを花婿による趣向だと勘違いしているようでもある。「だれでも始めに良いぶどう酒を出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と花婿をわざわざ呼び、安堵と喜びを分かち合う。計画通りにいかない、その都度の対応を余儀なくされる働きを、イエス・キリスト自ら隠れたところで担ってくださり、この婚宴の運営を実に的確な落としどころへと導いてくださっている。
水をぶどう酒に変えた話が強調されがちな箇所ではあるが、きっかけとしてはぶどう酒が不足するという失態と、母親の無理強いがそもそもの始まりだ。しかも婚礼の実質的な責任者であるところの世話役は一連の出来事の中、すべてが主イエス・キリストの祝福のわざによるものだと気づかず、花婿のサプライズだと思い込んでいる。その様子を眼前で見ていたのは誰か。それは「イエスの母」、「イエスの兄弟」、「弟子たち」、「水を汲んだ召使い」だけだ。
どんなに欠けに満ちた婚礼であれ、押しつけがましい言葉であれ、イエス・キリストは陰ながら全てを肯定して用いてくださる。理想的な環境とはかけ離れたバックヤードで召使いたちは冷や汗まみれになるより他はない。このような召使いたちとともに働かれるイエス・キリストが、危機的な場面を、驚くばかりの恵みの場へと変えて、かぐわしいぶどう酒の香りでつつみこむ。「召使い」とはギリシア語によれば「ディアコノス」。奉仕する共同体としての教会「ディアコニア」と重なる。当時の哲学者が修行の場に求めた、整備された環境は備えられていない。



このような舞台裏にあって、イエス・キリストは全てを肯定し、そして完成へと導くわざを全うされる。思えば花嫁・花婿を祝福する婚礼の場とは、新しい家族の歩みの始まるところだ。その歩みが必ずしも人の目に適うもの、理想的なものではないとしても、イエス・キリストは必ず祝福のもとで全てを肯定し、完成へと導いてくださる。わたしたちはキリストに肯定されて、家族の事情にほろ苦さや苦しみ、痛みを抱えていたとしても、さらに前へと進むことができる。崇敬の対象というよりも、出しゃばり気味の母として描かれたマリアに、親とはそういうものだったなあと、懐かしささえ感じるところだ。さて、お金さえあれば万事問題が解決できると思い込んでいる現代。家族とはレンタルできるものではなく、またその必要もない。イエス・キリストの祝福はレンタル制ではない。年度の節目を前にして、主なる神の慈しみと祝福に相応しく、各々の日々の暮しのありよう、交わりのありよう、そして教会のありようを見つめ直し、そこにこそ喜びを見出していきたいと願う。キリストがすべてをつつみこんでくださる。

2020年1月19日日曜日

2020年1月19日(日) 説教

「振り返る主イエス・キリスト」
『ヨハネによる福音書』1章35~42節
説教:稲山聖修牧師

今朝の箇所で驚かされるのが、キリストの弟子アンデレとペトロの「転職」だ。マルコ、ルカ、マタイによる福音書ではガリラヤ湖の湖畔で漁業を営んでいたはずのシモン・ペトロの兄弟アンデレが、「洗礼者ヨハネの弟子」として描かれている。更には、シモン・ペトロでさえ「あなたはヨハネの子(弟子)シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」と言われた、とある。この「転職」の背景にあった事情とは何か。
 考えられるのは、旧約聖書との関わりの中でメシアであるイエス・キリストを受容できない人々が次第に増えてきた点である。もちろん『ヨハネによる福音書』では「いまだかつて、神を見た者はいない」とある。だからといって、神がいないという主張を認めたり、イエス・キリストを旧約聖書との関わりを無視するわけにはいかない。
 しかしながら初代教会の置かれた時代には、イエス・キリストがこの世の苦しみを、十字架にいたるまでの克己ないし修行によって乗りこえられたカリスマではあったにせよ、救い主としては受け入れない人々も実に多かったという。神に限りなく近いところの人間イエスは見えていたとしても、神の子イエス・キリストはそこにはいない。
世にある苦しみからの逃避は、ときには世の営みへの否定や憎悪にも繋がりかねない。教会は確かに逃れの場であるとの一面はあるが、神の御旨の中で癒され慰められ、励ましを受ける中で、わたしたちはいずれ世に遣わされ、神に活かされ用いられる者としての証しを立てていくという方向性は曲げられない。


 アンデレやペトロが、あたかも転職したかのように物語の始めにあっては洗礼者ヨハネのもとにいたという設定も、その点を踏まえると書き手の祈りが聞こえようというものだ。洗礼者ヨハネは積極的に人混みに分け入ってその教えを宣べ伝えようとはしなかった。洗礼者ヨハネの弟子として設定し直されたアンデレとペトロがあらためてイエス・キリストに従うとの物語。そこには世に遣わされた救い主イエス・キリストに従う者として、人々の只中で神の愛の証しに励む教会のモデルが描かれている。自分の救いのために励むという自己救済のための努力に留まるのではなく、隣人のために世にあっていかなる屈辱をも耐え忍び、侮蔑の言葉には悲しみの涙と同時に微笑みをもって返すという、見方によっては洗礼者ヨハネの弟子よりも、さらに困難であり、勇気を要する道を選んだ人々の群れの姿が象徴されているように思う。自分の胸三寸、自分の個人的な存念だけに基づくところの自己本位な救済ではなくて、躓きながらも、頭をぶつけながらも、イエス・キリストという世の流れとは異なるメシアに根を降ろしつつ、世のために仕える教会のわざを、どうか誤解しないでほしいという熱いメッセージが響いているのではないだろうか。
 1月も後半に入ろうとしている。実はこのシーズンは受験生だけでなく、実社会に暮らす大人もまた様々な暮らしの変化に向き合うときでもある。上司から何かしらの変化が知らされてどうすべきか頭を悩ませているご家庭もあるのではないか。その戸惑いに満ちた日常の中で、わたしたちもまた、イエス・キリストに「何を求めているのか」と問われている。家族に打ち明けても理解されないだろう、もともと人には愛するものでさえ、その気持ちは伝わらないだろうという投げやりな生活態度も避けられないわたしたち。そのようなわたしたちを振り返って、イエス・キリストは「何を求めているのか」と問いかけ、さらに「来なさい、そうすれば分かる」と招いておられるのではないか。わたしたちが自分の思いや決めつけから離れて、一歩足を踏み込んでみたときに初めて開かれる展望がある。立った一段階段を上っただけで見晴らしが全く異なる景色がある。キリストの道にあるステップを超えて開かれる展望。そこには洗礼者ヨハネが宣教の場とした人里離れたという意味での「荒野」に留まらず、人ごみの中に広がる砂漠を、どのように潤し、緑豊かな大地とするのかという問いかけが響く。変化を恐れることなくキリストを信頼してもう一歩だけ足を踏み込んでみよう。全く違う景色が、必ず日常の只中に広がっている。そこには神の愛の支配が隠されている。

2020年1月12日日曜日

2020年1月12日(日) 説教

「神の愛が示すイエス・キリスト」
ヨハネによる福音書』1章29~34節
説教:稲山聖修牧師


道徳教育で用いられる「偉人伝」というジャンル。主人公となる著名人が苦労して地位や名声を勝ち得、人々のために尽くしたかを平易に描く。筋書きは明快。しかしながら物語には決定的に欠けている点がある。それは偶然や失敗の結果、重大な事柄を発見するという、個人の努力の域を超えてしまう出来事が描きづらいのだ。
 福音書がイエス・キリストの伝記だと思うならば、それは誤解である。キリストが家畜の餌桶に生まれたというクリスマスの話、聖霊の働きによってマリアが身籠ったという物語は理解しがたく、更には救い主が十字架刑に処せられるという話にしても消化不良の結論となる。ナザレのイエスという人となった救い主が、キリストとして歩んだ道を問い尋ねる物語である。復活は偉人伝の域を超えている。
今朝の箇所は洗礼者ヨハネとイエス・キリストとの出会いから物語が始まる。洗礼者ヨハネもイエス・キリストもその人としてはキリスト者ではない。洗礼者ヨハネは救い主の訪れを告げる最後の預言者。そしてイエス・キリストもまたユダヤ人として世を生きたところの、全ての民に開かれた救い主。洗礼者ヨハネは近づいてくるイエス・キリストと出会う。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』」。不思議に思うのは次の箇所だ。それは31節と33節で繰り返される「わたしはこの方を知らなかった」という言葉。救い主の訪れを知らせる洗礼者ヨハネ。洗礼者ヨハネは、確かに救い主の訪れを告げ知らせ、神の愛の支配の完成を説き、人々が生き方を神へと転換するわざ、すなわち悔い改めを呼びかけた。このヨハネでさえ、「わたしはこの方を知らなかった」と語る。洗礼者ヨハネは、ナザレのイエスがキリストであること、メシアであることを知らない。
それでは洗礼者ヨハネは、どのようにしてイエス・キリストを知るにいたったのだろうか。端的に言えばそれはイエス・キリスト御自身との出会いである。出会いの中でイエス・キリストがその姿を明らかにする。同時に、この出会いの中、洗礼者ヨハネは自らの働きの限界をも悟る。神の愛の力は、徹頭徹尾イスラエルの民の歴史を通して、そして諸国の民へと広がっていく。聖霊の働きによってキリストと出会う全ての人々の働きを、洗礼者ヨハネはキリストご自身との出会いを通して悟り、そして少しずつ福音書の表舞台から姿を消していく。その生涯が領主ヘロデによるところの斬首刑によって断ち切られたとしても、洗礼者ヨハネには何ら恐れとはならない。なぜならヨハネは、神の愛が示したイエス・キリストと出会い、新しい時代の始まりを見たからだ。
“This is the end, for me the beginning of life”.1945年、ドイツのフロッセンビュルク強制収容所でヒトラーの命令で殺害されたドイツ人の牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーの遺した言葉。ボンヘッファーはその時代のキリスト教の重い扉を開く働きを期待されながら、戦争に協力しなかった罪によってベルリンの軍刑務所で身柄を拘束され、さらに1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件の賛同者として名を連ねていたことが判明し、秘密警察の地下牢に幽閉され、その果てに生涯の終焉を迎えた。ボンヘッファーはナチス・ドイツが人々に向けて定めたプログラムに沿って行ったキリスト教的愛国教育に徹底的に反対し、そして旧約聖書に記されたイスラエルの民の歴史の掛け替えのなさを強調した。牧師でありながら暗殺計画に名を連ねたことへの理由として「通りを人々が歩いている中、気が変になった男の運転するトラックが今にも突っ込もうとしている。牧師がなすべきは人々の葬儀だけであろうか。そうではない。暴走するトラックに乗り込み、男からハンドルを奪ってブレーキを踏むことだ」と記す。それではもしこの計画が成功していたのならば何が起きていたのだろうか。ヒトラー政権が止めを刺されたとは考えづらい。むしろ想像を絶する報復が武装親衛隊によって行われ、内戦が起き、いくつもの都市が戦略的合理性さえもなしに壊滅させられ、大虐殺が次々と起きただろう。その上でドイツが敗戦を迎えたとするならば、欧州大陸からドイツ人は憎しみの中で全て葬られていたかもしれない。たとえわが身の限界を知ろうとも、次の世代への責任を担う。それが成人するということだ。今日は成人祝福式礼拝。その時代には名も知られず、生命を賭して抵抗した「無数のボンヘッファー」がいたことだろう。混沌とした時代の中で、イエス・キリストを示す一本の指として用いられたい。

2020年1月5日日曜日

2020年1月5日(日) 説教

「神の避難小屋から見た世界」
『ヨハネによる福音書』1章14~18節
説教:稲山聖修牧師

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。短いこの一節にある「宿る」という言葉。これは草原を縦横に行き来した遊牧民たちの用いた天幕、または旧約聖書の物語にある族長やモーセに率いられた民が野で世を明かす際に用いるような天幕を張る様子が示される。そこには時には人の暮らしを脅かしかねない自然の中で、人の交わりを育み、逃れの場とし、時に新しい出会いをもたらしさえする。勿論その営みは過酷な自然や夜の闇の否定でもない。むしろ厳しさを伴う創られた世界の中での暮らしを赦してもらうために、そのような幕屋の建設を赦していただく。神に対する慎みと畏れの中で、いのちをつなぐことへの感謝が生まれる。その理由は「わたしたちはその栄光を見た」と書き手が述べるところにある。人々は荒野を蔑まず、闇そのものを否定もしなかった。思うに荒野や闇もまた、神の御手が及ぶのであり、永遠に続きはしないからである。ここに光は尊くて闇は悪だというような浅薄な考えは止めを刺される。光やいのち、あたたかさとの関わりの中で、荒野や闇は、いのちの光を際立たせる意味合いをもつ。「わたしたちはその栄光を見た」。その栄光とは。「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げていった。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』と、わたしが言ったのは、この方のことである」。『ヨハネによる福音書』で、洗礼者ヨハネはこのように語る。ほんの少しの戸惑いが生まれる。それはこの箇所で洗礼者ヨハネが「わたしの後から来られる方は、わたしより先におられたからである」と主張しているからだ。これはわたしたちが時計を見て確認する時間とは異なる時が流れている。なぜ洗礼者ヨハネが、他の福音書のクリスマス物語にあるように、まずヨハネが生まれ、そしてイエスが生まれるというような順序を逆転して述べているのだろうか。それは『ヨハネによる福音書』では父なる神の御子としての、全ての時を超えた超越的な特質が「わたしたちの間に宿られた」という、人の目には起こり得ない事柄を物語ろうと懸命になっているからではないか。『マタイによる福音書』や『ルカによる福音書』では「処女降誕」という表現で語ろうとしている事柄を『ヨハネによる福音書』では「わたしより先におられた方が、わたしの後から来られる」「わたしたちの只中に宿られた」という言葉を用いて語ろうとしている。なぜそのような回り道をするような表現が用いられたのか。

『ヨハネによる福音書』の生まれた時代には、もはや歴史的に人の子イエスを物語るという段階から一歩踏み込んで、三つの福音書を踏まえ、旧約聖書を踏まえながらも、誰に語って聞かせるのかというところにエネルギーを割いていったからだろう。話の聴き手の殆どは、世の中が善と悪との対立の中で流転して動きながら、その中で人間の運命について思いを馳せていた。しかし書き手は懸命になって証しを試みる。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」。神が遣わされたいのちの光と関わることにより、闇そのものにも深い役割が備えられる。それは陰影を帯びることによって、この宇宙万物の中のいのちが、より立体的に迫ってくるのだ。11節で書き手は旧約聖書に言及する。「律法はモーセを通して与えられた」が、「恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられた」。モーセとキリストがこの箇所では並置される。イスラエルの民、ユダヤの民にはモーセを通して律法が備えられている。そのように、あなたがた異邦人には「恵みと真理がイエス・キリストを通して与えられているのだ」。「敢えて多くは語らない。この人を見なさい」との言葉が響く。混沌とした時代はいつまで続くのだろうか。そのような問題意識は『ヨハネによる福音書』の書き手とわたしたち共通の苦悩である。神などどこにいるという叫びの中で、書き手は告げる。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。イエス・キリストを見つめなさい、その招きに応えなさいとの声が、洗礼者ヨハネの口を通して響き渡っている。「いまだかつて、神を見た者はいない」。この言葉の中で、現代を生きるわたしたちもさまざまな試練を味わう。けれどもイエス・キリストという避難小屋が目の前には建っている。吹雪がこようと地図のルートを見失おうと、いのちの明かりが灯る避難小屋はすぐ近くにあるのだ。