『ヨハネによる福音書』1章35~42節
説教:稲山聖修牧師
今朝の箇所で驚かされるのが、キリストの弟子アンデレとペトロの「転職」だ。マルコ、ルカ、マタイによる福音書ではガリラヤ湖の湖畔で漁業を営んでいたはずのシモン・ペトロの兄弟アンデレが、「洗礼者ヨハネの弟子」として描かれている。更には、シモン・ペトロでさえ「あなたはヨハネの子(弟子)シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」と言われた、とある。この「転職」の背景にあった事情とは何か。
考えられるのは、旧約聖書との関わりの中でメシアであるイエス・キリストを受容できない人々が次第に増えてきた点である。もちろん『ヨハネによる福音書』では「いまだかつて、神を見た者はいない」とある。だからといって、神がいないという主張を認めたり、イエス・キリストを旧約聖書との関わりを無視するわけにはいかない。
しかしながら初代教会の置かれた時代には、イエス・キリストがこの世の苦しみを、十字架にいたるまでの克己ないし修行によって乗りこえられたカリスマではあったにせよ、救い主としては受け入れない人々も実に多かったという。神に限りなく近いところの人間イエスは見えていたとしても、神の子イエス・キリストはそこにはいない。
世にある苦しみからの逃避は、ときには世の営みへの否定や憎悪にも繋がりかねない。教会は確かに逃れの場であるとの一面はあるが、神の御旨の中で癒され慰められ、励ましを受ける中で、わたしたちはいずれ世に遣わされ、神に活かされ用いられる者としての証しを立てていくという方向性は曲げられない。
アンデレやペトロが、あたかも転職したかのように物語の始めにあっては洗礼者ヨハネのもとにいたという設定も、その点を踏まえると書き手の祈りが聞こえようというものだ。洗礼者ヨハネは積極的に人混みに分け入ってその教えを宣べ伝えようとはしなかった。洗礼者ヨハネの弟子として設定し直されたアンデレとペトロがあらためてイエス・キリストに従うとの物語。そこには世に遣わされた救い主イエス・キリストに従う者として、人々の只中で神の愛の証しに励む教会のモデルが描かれている。自分の救いのために励むという自己救済のための努力に留まるのではなく、隣人のために世にあっていかなる屈辱をも耐え忍び、侮蔑の言葉には悲しみの涙と同時に微笑みをもって返すという、見方によっては洗礼者ヨハネの弟子よりも、さらに困難であり、勇気を要する道を選んだ人々の群れの姿が象徴されているように思う。自分の胸三寸、自分の個人的な存念だけに基づくところの自己本位な救済ではなくて、躓きながらも、頭をぶつけながらも、イエス・キリストという世の流れとは異なるメシアに根を降ろしつつ、世のために仕える教会のわざを、どうか誤解しないでほしいという熱いメッセージが響いているのではないだろうか。
1月も後半に入ろうとしている。実はこのシーズンは受験生だけでなく、実社会に暮らす大人もまた様々な暮らしの変化に向き合うときでもある。上司から何かしらの変化が知らされてどうすべきか頭を悩ませているご家庭もあるのではないか。その戸惑いに満ちた日常の中で、わたしたちもまた、イエス・キリストに「何を求めているのか」と問われている。家族に打ち明けても理解されないだろう、もともと人には愛するものでさえ、その気持ちは伝わらないだろうという投げやりな生活態度も避けられないわたしたち。そのようなわたしたちを振り返って、イエス・キリストは「何を求めているのか」と問いかけ、さらに「来なさい、そうすれば分かる」と招いておられるのではないか。わたしたちが自分の思いや決めつけから離れて、一歩足を踏み込んでみたときに初めて開かれる展望がある。立った一段階段を上っただけで見晴らしが全く異なる景色がある。キリストの道にあるステップを超えて開かれる展望。そこには洗礼者ヨハネが宣教の場とした人里離れたという意味での「荒野」に留まらず、人ごみの中に広がる砂漠を、どのように潤し、緑豊かな大地とするのかという問いかけが響く。変化を恐れることなくキリストを信頼してもう一歩だけ足を踏み込んでみよう。全く違う景色が、必ず日常の只中に広がっている。そこには神の愛の支配が隠されている。