ヨハネによる福音書』1章29~34節
説教:稲山聖修牧師
道徳教育で用いられる「偉人伝」というジャンル。主人公となる著名人が苦労して地位や名声を勝ち得、人々のために尽くしたかを平易に描く。筋書きは明快。しかしながら物語には決定的に欠けている点がある。それは偶然や失敗の結果、重大な事柄を発見するという、個人の努力の域を超えてしまう出来事が描きづらいのだ。
福音書がイエス・キリストの伝記だと思うならば、それは誤解である。キリストが家畜の餌桶に生まれたというクリスマスの話、聖霊の働きによってマリアが身籠ったという物語は理解しがたく、更には救い主が十字架刑に処せられるという話にしても消化不良の結論となる。ナザレのイエスという人となった救い主が、キリストとして歩んだ道を問い尋ねる物語である。復活は偉人伝の域を超えている。
今朝の箇所は洗礼者ヨハネとイエス・キリストとの出会いから物語が始まる。洗礼者ヨハネもイエス・キリストもその人としてはキリスト者ではない。洗礼者ヨハネは救い主の訪れを告げる最後の預言者。そしてイエス・キリストもまたユダヤ人として世を生きたところの、全ての民に開かれた救い主。洗礼者ヨハネは近づいてくるイエス・キリストと出会う。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』」。不思議に思うのは次の箇所だ。それは31節と33節で繰り返される「わたしはこの方を知らなかった」という言葉。救い主の訪れを知らせる洗礼者ヨハネ。洗礼者ヨハネは、確かに救い主の訪れを告げ知らせ、神の愛の支配の完成を説き、人々が生き方を神へと転換するわざ、すなわち悔い改めを呼びかけた。このヨハネでさえ、「わたしはこの方を知らなかった」と語る。洗礼者ヨハネは、ナザレのイエスがキリストであること、メシアであることを知らない。
それでは洗礼者ヨハネは、どのようにしてイエス・キリストを知るにいたったのだろうか。端的に言えばそれはイエス・キリスト御自身との出会いである。出会いの中でイエス・キリストがその姿を明らかにする。同時に、この出会いの中、洗礼者ヨハネは自らの働きの限界をも悟る。神の愛の力は、徹頭徹尾イスラエルの民の歴史を通して、そして諸国の民へと広がっていく。聖霊の働きによってキリストと出会う全ての人々の働きを、洗礼者ヨハネはキリストご自身との出会いを通して悟り、そして少しずつ福音書の表舞台から姿を消していく。その生涯が領主ヘロデによるところの斬首刑によって断ち切られたとしても、洗礼者ヨハネには何ら恐れとはならない。なぜならヨハネは、神の愛が示したイエス・キリストと出会い、新しい時代の始まりを見たからだ。
“This is the end, for me the beginning of life”.1945年、ドイツのフロッセンビュルク強制収容所でヒトラーの命令で殺害されたドイツ人の牧師、ディートリヒ・ボンヘッファーの遺した言葉。ボンヘッファーはその時代のキリスト教の重い扉を開く働きを期待されながら、戦争に協力しなかった罪によってベルリンの軍刑務所で身柄を拘束され、さらに1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件の賛同者として名を連ねていたことが判明し、秘密警察の地下牢に幽閉され、その果てに生涯の終焉を迎えた。ボンヘッファーはナチス・ドイツが人々に向けて定めたプログラムに沿って行ったキリスト教的愛国教育に徹底的に反対し、そして旧約聖書に記されたイスラエルの民の歴史の掛け替えのなさを強調した。牧師でありながら暗殺計画に名を連ねたことへの理由として「通りを人々が歩いている中、気が変になった男の運転するトラックが今にも突っ込もうとしている。牧師がなすべきは人々の葬儀だけであろうか。そうではない。暴走するトラックに乗り込み、男からハンドルを奪ってブレーキを踏むことだ」と記す。それではもしこの計画が成功していたのならば何が起きていたのだろうか。ヒトラー政権が止めを刺されたとは考えづらい。むしろ想像を絶する報復が武装親衛隊によって行われ、内戦が起き、いくつもの都市が戦略的合理性さえもなしに壊滅させられ、大虐殺が次々と起きただろう。その上でドイツが敗戦を迎えたとするならば、欧州大陸からドイツ人は憎しみの中で全て葬られていたかもしれない。たとえわが身の限界を知ろうとも、次の世代への責任を担う。それが成人するということだ。今日は成人祝福式礼拝。その時代には名も知られず、生命を賭して抵抗した「無数のボンヘッファー」がいたことだろう。混沌とした時代の中で、イエス・キリストを示す一本の指として用いられたい。