2019年9月29日日曜日

2019年9月29日(日) 説教 

「地図にない道に踏み出す勇気」
『ルカによる福音書』15章11~24節
説教:稲山聖修牧師


今朝の聖書箇所のテーマを考える上で欠かせない「兄弟」という言葉を主題とする『詩編』133編は、次のように始まる。「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」。この詩は「兄弟がともに座っている」姿は決して当り前ではないとの前提で編まれている。
その葛藤は今朝の譬え話にも見出される。よく知られる「放蕩息子」の譬えの物語は家族間のトラブルから始まる。仲のよい兄弟は登場しない。登場人物は父親、二人の息子、放浪中の下の息子が身を寄せる農場主、父親の僕たち。次男は父親に対して唐突に遺産の生前贈与を求める。そして何日も経たないうちにこの財産を現金に換え、遠い国に旅立つ。その国がどこにあるのかも分からないような旅。旅の最中、実家に連絡する術はない。次男は放蕩の限りを尽くす。そして旅の成果は皆無。散財した次男を試練が襲う。「ひどい飢饉」。飢饉は人心を荒ませ、旅の最中にいるその人にも容赦しない。その手元にはタラントン銀貨一枚も、銅貨二枚もない。旅人は難民同然の姿に身を落とす。次男はもはや、滞在先の国での立場にいるのか分からず、身元も証明する術もない。

 幸いにもそのような次男坊が死なずに済んだのは身を寄せる農場があったからだとの声もあろう。しかしこの農場主は決して心ある人には思えない。次男坊は農場で奴隷に等しい労働を強いられ、あろうことかユダヤ教の倣いでは屈辱としか思えない豚の世話をするにいたる。勿論、農場主には豚のほうが大切なのは言うまでもない。豚は繁殖力の強い「商品」だ。農場主は飢饉が酷いほど儲けは多くなる。次男坊は豚の餌を盗み食いしながらようやく父親を思い出す。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。わたしたちの日常からすれば、次男坊の苦しみは因果応報・自業自得。同情の余地はなし。それは彼も自覚するところ。勘当も覚悟しながら、次男坊は無給労働を強いる農場主とは異なる態度で労働者に向き合っているはずの父親のもとに帰りたいと願う。飢饉とは無縁ではない中、父親もまた農場の経営に必死であったろう。その父を身近で支えていたのは長男。農業は決して楽な仕事ではない。家族としての役目を放棄して物乞い同然の姿で帰郷した弟に長男は冷たい。けれども父親は次男の帰郷をことのほか喜び、抱きしめてほおずりをし、口づけする。そして「雇い人の一人にしてください」という言葉を遮り、考えられる最高のもてなしをして、祝宴を設ける。兄にはこれが受け入れられない。

この譬え話が色褪せないのは、因果応報・自業自得・自己責任という言葉の示す壁が崩され「失敗」が赦されているところにある。この特徴は当時や現代の常識とは真逆な、神の愛を顕わしている。そうなると次男坊の「放蕩」という言葉も単に遊興三昧に耽ったというありがちな解釈では充分ではなくなる。次男坊の「放蕩」とは即ち学問や藝術、また異なる文化との出会いという、農場にいては決して知ることがなかった世界を求めての旅だったかもしれない。親の七光りが通じない世界に次男は果敢に挑み、そして敗北して帰郷した弟。兄はその弟を非難する。その非難は父親の祝宴にも向けられるが、そんな兄に父親が言うには「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。詰め寄る長男に、父親は相続に関する確約を交わす。兄は決して報いのない働きを続けてきたのではないが、わだかまりを抱えたままだ。譬え話は父親の一方的な宣言で終わる。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当り前だ」。気になるのはその後の展開だが、それは想像の域を出ない。けれども誰よりも父親が苦しみぬいたのは確かだ。次男の身の上を案じ続ける父の姿。落ち延びてきた身を抱きしめる姿には、因果応報・自業自得・自己責任との言葉は力を持たない。しかも次男の出迎えには、父を支えてきたという点で、兄もまた貢献している。実は弟だけでなく兄も、地図のない道を歩み続けてきたのだ。
異なる人生行路を歩んだ兄弟は、父親の苦難を通して交わりを回復したのではないか。父なる神の痛みは、十字架でのキリストの苦しみを通してのみ知るところだ。今の時代、誰もが家庭に困難や課題を抱えている。その地図のない道に歩む勇気をキリストの拓いた道に重ね、人生の旅路を感謝したい。その旅は希望に満ちている。

2019年9月22日日曜日

2019年9月22日(日) 説教

『ルカによる福音書』14章25~33節
「キリストに委ね、腰を据える」
説教:稲山聖修牧師

 本日の箇所ではイエス・キリストが係累との断絶を勧めているかのように響く。誤解される箇所の一つだ。
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、こども、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではあり得ない』」。もしも係累との絶縁を中心にして理解するのであれば、御言葉に聴き従う歩みは困難になるどころか、結局は教会のあり方にも歪みがもたらされる。聖書に記されなくても今の世には家族をめぐる深い絶望がある。親が子を殺め、子が親を殺めるという、旧約聖書に記された眉をひそめるような物語が、現実の出来事としていたるところで起きている。聖書には放蕩息子という言葉がある。他方で身近なところでは、わが子に心身にわたって依存するところの毒親という言葉さえ生まれている。そのようなところでは、単に係累を絶つという話ではキリストの証人にはなれない。そう思い込んでいる集団があれば、もはやカルトだと言ってよい。

先ほどのイエスの言葉は、続く物語から極めて深い思慮に根ざしていることが分かる。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに充分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない」。
イエスは塔の建築と戦争の講和を弟子の資格の条件に譬えて語る。建築の譬え話では建築に関わるコストの話が中心となる。戦争を譬え話に出す場合、勝利が見込めない戦をいかに講和に導くかという話をする。犠牲を出さずに平和を実現するためには私怨に走ってはならない。どちらの場合にも求められるのは私利私欲や私的な存念に基づく短慮ではない。あくまでも公共性を伴う長期的な展望が必要だ。神の公共性を世に現わすのであれば何を第一にするべきなのかを腰を据えて祈り、考えなさいとキリストは語っているのではないだろうか。

 こと公共の問題になれば、わたしたちは一旦、家族の事柄を神様に委ねてテーマに集中しなくてはならない。勿論、私的な満足感や充実感を犠牲にしてであっても、担うべき課題に向き合い、ことの優先順位をつけなくてはならない。この公共性という考えは、わたしたちには共有するのが実に困難である。儒教道徳の影響の強い国々では、どうしても家族親族のためにという気持ちが公共性に先んじてしまうという歴史があるが、それはわたしたちも例外ではない。本来ならば公共性を伴う事柄を家族親族、またはごく親しい間柄の「お友だち」で独占しようとする。その結果、その狭い枠から外れていくところの人々への関心が希薄になる。「教会は敷居が高い」という言葉は「お上品に振る舞っている人ばかり」という意味というよりは、むしろキリスト教の衣装を纏っていても、その内実は家族親族や「お友だち」の交わりであったり、内輪しか顧みないという、世界のどこにでもあり得る出来事が、聖書との関わりで一段と際立たされているからではないだろうか。
そのような壁や限界を突き崩し、新しい風を吹かせるために必要なのは、眼差しをイエス・キリストに集中するという態度だ。それがわたしたちにはまことに決定的な問いとなる。わたしたちのありようは、十字架のイエス・キリストの眼に適うものなのか。この不断の問いかけと確認があればこそ、わたしたちは分断された家族関係の中で嘆くほか無い人の悲しみや、家族が崩壊してなおも懸命に生きようとする若者の勇気に、向き合うことができるのはないだろうか。地縁血縁を問わず広がっていく神の家族のあり方は、老若を問わず孤独に苛む人々の希望となる。時の経過の中でわたしたちの身体だけでなく家族の関わりも変容するが、わたしたちは恐れてはならない。キリストに委ね、腰を据える中で、必ず道は拓ける。

2019年9月15日日曜日

2019年9月15日(日) 長寿感謝の日礼拝 説教

『ルカによる福音書』18章1~8節
「祈りは必ず聴かれる」
説教:稲山聖修牧師

今朝の「やもめと裁判官の譬え」には、義しい人の姿はどこにも描かれない。むしろ職務本来のあり方からはかけ離れた、「神を畏れず、人を人とも思わない裁判官」が軸になる。この裁判官は18章5節では「不正な裁判官」とさえ言われる。実はこの「不正」という言葉が聖書もの用いられ方を考えると本日の聖書箇所は実に興味深い展開を秘めていることが分かる。
もとより「不正」という言葉が裁判や裁きにあたって用いられる場合、それは裁判に寄せられる信頼そのものを台無しにするわざとなる。『サムエル記』で先見者サムエルは老いて後、自らの務めを二人の息子に託する。しかし二人の息子は「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」ある。『サムエル記』の「不正」は批判されるべき、糾されるべき「不正」であり、堤に空いた穴のような扱いとなる。これが民の不信を招き、イスラエルの民は神との契約よりも王を絶対視するあり方を選ぶ。滅びへの序局となるのがサムエルの息子の不正だ。

しかしイエス・キリストの譬え話における裁判官の「不正」の場合、その意味は変わってくる。不正な裁判官と向き合うのは一人のやもめ。伴侶を失った寡婦は貧しい身の上であり、正しさが世にあってはそのものとしては通じないことを、自らの傷みを通して知り抜いている。その女性が訴えるには「わたしを守ってください」。不正な裁判官は、正しい裁判をこのやもめから求められた。裁判官はその粘り強さに次第に押されていきます。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」。不正な裁判官は自らの不正のゆえに己を砕かれて、いつしかやもめを虐げる諸々の問題と向き合うこととなる。きっかけがどうであれ、次第にやもめを支える重要な役割を担っていくことになる裁判官。今や彼は神の正しさを表わす器として用いられていく。イエス・キリストはやもめの切実な訴えを「祈り」に重ねているのは明らかだ。教条主義的に人を裁くばかりの人々の見通しすら、神の愛の働きは超えていく。
「この不正な裁判官の言いぐさを聴きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。神とのまじわりの中で、生きづらさや傷みを抱えたところのやもめの訴えに耳を傾けた不正な裁判官は、その不正さのために神に用いられるという逆転が起きる。イエス・キリストのリアリズムがこの箇所には描かれる。
思えば毀誉褒貶、世の中の様々な評判は絶えず移ろう。その評判に基づいて善悪が振りかざされたとき、人間は時として邪悪な姿を露わにする。不正ではなく「邪悪」である。なぜならその判断基準は時として思い込み、即ち予断や偏見に基づく場合が殆どだからだ。神の愛を証しした人々の多くは、必ずしもその時代からはよい評判に包まれていたわけではない。名声が目的ではないからだ。「神の正しさ」は、世にあっては指差されることからは決して逃れることはできない。公民権運動で知られるキング牧師や、メキシコシティーオリンピック銀メダリストのピーター・ノーマン、また杉原千畝の生涯というものは、世の人の目からすれば、ただちに幸せだったと言えるだろうか。

本日は長寿感謝の日礼拝を迎えた。齢を重ねた方々には混沌とした人の世のさまを見極められ、だからこそ、授けられた知恵には侮れないところがある。いのちの本質を見極める視点は、頑迷固陋さにではなく、イエス・キリストに根を下ろすことによって拓かれる。長きにわたる人生の歩みは、絶えず移ろう世にあって、自らの身体の変容も受けとめながら、イエス・キリストとの関わりを確かめてこられた歩みでもある。これは若者の輝きに劣らぬ、かけがえのない宝である。不条理や困難や嘆きの中で献げられる祈りは必ず聴かれる。自己実現の願いや単に夢が適ったりすることとは異なる次元が拓かれるからだ。やもめの献げる叫びと訴えにも似た祈りと出会いの中で、不正な裁判官は、悩み苦しむ者の声を聴く神から、彼にしかできない役目を託され、そのわざに邁進したことだろう。神の愛が備える出会いと交わりの中で重ねられた齢を、一同でお祝いし、神に感謝しよう。

2019年9月8日日曜日

2019年9月8日(日) 説教

ルカによる福音書 13章31~35節
説教:「親鳥が雛をつつむように」
説教:稲山聖修牧師



人間は実に身勝手なもので、前向きな展望を抱けなくなると、次は異なる文化や言語を用いる人々を蔑んで、本来の課題から目を遠ざけようとする。本日登場するファリサイ派の人々は、その時代のユダヤ教のグループの中でも『律法』や『預言者』といったその時代のユダヤ教の聖書を解き明かし、一般には尊敬を集めていた人々だ。イエス・キリストに論戦を挑む一方で、今朝の箇所ではいささか立ち振る舞いの趣が異なる。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。クリスマス物語に登場するヘロデ大王の息子、領主ヘロデ。洗礼者ヨハネの首を刎ねたあの男だ。元来ヘロデの一族は、イスラエルの民の歴史に連なる正当な王朝を乗っとり権力を手にした家系に属する。だからファリサイ派の本流には本来は不倶戴天の間柄。だからイエス・キリストの身の危険を察知したファリサイ派の一部の者たちは、尋常ならざることだとキリストのもとに駆け込んでくる。
しかしイエス・キリストは、迫る身の危険を伝えにきたファリサイ派を、メッセンジャーとして用いる。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にはすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい」。「狐」とは狡猾な領主ヘロデのあだ名。キリストの語った言葉は、その清廉潔白さを伝えるだけではなく、かつて首を刎ねた洗礼者ヨハネのわざを、イエス・キリストが継承しているとの事実を突きつける。これは領主ヘロデを恐怖のどん底に陥れたに違いない。「三日目には全てを終える」との言葉は「三日目には全てが完成する」との解き明かしも可能だ。即ち、人の子イエスが救い主として託されたわざは、復活によって完成するのであり、ヘロデがいくら首を刎ねたところでそれは恐るるに足らずという挑戦的な言葉としても響く。

けれどもその身を慮って訪れたファリサイ派の人々に向けたキリストの言葉は「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからだ」。神に備えられた道を歩むイエス・キリストの「決断」である。イエス・キリストが赴くところは権謀術策の渦巻くところ、そしてキリスト自らを冒涜する人々さえ待ち受けているところの都エルサレムだ。裏通りに入れば物乞いや病人がたむろするその一方で、力を手にした人々がきらびやか、かつ、わが物顔にふるまうという、旧約聖書に記された姿からはほど遠い街となったエルサレム。一体そこで何が起きたというのか。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとはしなかった」。イエス・キリストは決してエルサレムを否定することはなかった。人の子イエスの時代には、エルサレムはローマ帝国の支配下にあり、神殿の存続も最終的にはローマの政治的判断に依っており、大帝国の支配を受け入れた有力者の場でありその象徴にすらなっていたのにも拘らず。神の前に立つならば、重篤な病に罹ったこの都を、キリストは決して見捨てない。イエス・キリストは文字通りその身を神の言葉として、その過ちに満ちた態度を改めさせようと呼ばわってきた。けれどもその言葉は尽く拒絶されてきたのである。もはやエルサレムは詩編で歌われるような聖なる都ではない。考えようによっては『創世記』のソドムの街よりも深い病に罹っていた。イエス・キリストは、そんなエルサレムになおも分け入ろうとする。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を調えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。これは葬儀の式文にも用いられる『ヨハネの黙示録』の言葉だ。イエス・キリストはわたしたちの暮しの中に分け入る。そして神の愛の力であるところの聖霊の働きは、汚れてしまったわたしたちのありようを全て明らかにしながらも、わたしたちの破れを包んでくださる。聖書の言葉でしか癒されない夜もあるだろう。日本に在るキリスト者としての証しのわざ、在日キリスト者としての働きが、各々の場で試される時代を迎えようとしている。エルサレムならぬ、この地において。

2019年9月1日日曜日

2019年9月1日(日) 説教

ルカによる福音書13章10~17節
「お水を飲ませてください」
説教:稲山聖修牧師


業務引継の際、後継者が円滑に働けるようマニュアルを備えるという倣いがある。アルバイトでもマニュアルがあればこその軽費の効率化がある。けれども過度なマニュアル依存は、人間の主体的な思考力と判断力を奪う。思考力や判断力が失われる代わりに登場するのが「立場」。「立場」による発言が「立場」にある者の、人としての主体性に先んじていく。立場が高くなるほど人の声が聞こえなくなっていくという病。それは人間から責任感や良心をも奪っていく。「マニュアル依存症」のもたらす症状があちこちにある。
 複数の範例を想定しないルールの理解。文脈を踏まえない言葉の受けとめ方。そのような「マニュアル依存症」に、イエス・キリストにあれこれと難癖をつける律法学者は陥っていたのかも知れない。それは今日の箇所に描かれる会堂長も重なる。会堂長は祭司や律法学者のような聖職者ではない。しかしシナゴーグ(会堂)の営繕をはかり、礼拝のプログラムを組み立てる役目があった。イエスは安息日にとあるシナゴーグで、『律法』や『預言者』という聖書の書物を解き明かしていた。そこには一八年の間、病の霊に取憑かれていた女性がいた。生活共同体からは疎外され、女性として扱われなかった人だ。イエス・キリストは女性の身体に障りのないよう声をかけ、「婦人よ、病気は治った」と語りかけ、身体に手を置いた。病の苦しみから解放された女性は、活き活きと神をほめ讃えた。これこそ本来はシナゴーグを満たすにふさわしい声。けれども会堂長の態度は異なった。
会堂長はイエスのわざに腹を立て、群衆に「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」。会堂長には聖書の言葉が誰と関わっているのか、安息日が誰と関係しているのかが見えていない。この「マニュアル依存症」は、想定外の事態に堪えられない脆さをも示している。


返すキリストの言葉は厳しい。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日には牛やろばを飼葉桶から解いて、水を飲ませに引いていくではないか。この女性はアブラハムの娘、すなわちわたしたちの同胞であるのに、一八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。イエス・キリストの言葉には、実は劇薬が含まれている。それは、女性の癒しを非難した会堂長をはじめとした人々であっても、安息日には牛やろばを飼葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くだろう、という箇所。聖書を神が人に備えた祝福の約束としてではなく、暮しの手引き書としか受けとめられないのであれば、たとえ安息日に飼葉桶から解いて、水を飲ませにいったところで、牛やろばは決して水を飲むことはないだろうという意を暗に含むからだ。家畜に向かうように上から目線で、かつマニュアル依存症に罹っているのであれば、どのような善意から出た働きであれ、生ける者は決して水を飲むことはないのである。わたしたちのありかたにも向けられているイエス・キリストの指摘である。切なる「お水を飲ませてください」との思いがなければ、あらゆる労力も空回りになってしまう。そしてわだかまりをもたらす。そしていつしか一人またひとりと人が離れていく。

そうかと言ってこのような依存症に取りつかれた人を排除するのも問題だ。キリストの鋭い指摘を受けて「反対者は皆恥じ入った」。反対者はキリストの言葉に激しく憤り、殺害を企てたわけでは決してない。イエス・キリストが聖書の解き明かしを行ったシナゴーグでは、一八年という長患いの病を癒された女性を通して、これまで通りの倣いに即すほかなかった人々のあり方に風穴が空くのである。神の愛の力であるところの聖霊は、慣わしやマニュアルに縛られて反対する他なかった人々をも、様々な関わりの中でキリストとの交わりをもたらした。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」と使徒パウロは語った。キリストの振る舞いに反対した人々も、いつしか新たにされていったに違いない。わたしたちの暮しの身近なところには、常に「いのちのお水を飲ませてください」という声が響いている。その声のありかは決してマニュアルには記されず、またナビゲーションシステムにも探知されない。祈りはその声に耳を傾けることでもある。教会の課題はその祈りを尊ぶことにもある。そう考えれば、わたしたちに授けられた役目は決して終わることがないのである。神に感謝しよう。