2019年7月21日日曜日

2019年7月21日(日) 説教

ルカによる福音書7章11~17節
「もう泣かなくても、よい」
説教:稲山聖修牧師

ローマ帝国の下級将校の部下を癒した後、キリストはナインという町を訪れた。サマリアとデカポリスとガリラヤの境目にあたる場所。イエス・キリストがこの町の門に近づいた折、ちょうどある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところであった。
ところでユダヤ教の誡めの大全である『律法(トーラー)』を構成する『申命記』には、若者の権利を守る誡めを見ることができる。その24章5節では「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない」とある。『申命記』では、当然のこととして、本人の意志や事情を問うことなくこの規定が適用される。兵役に服してはならず、公務も免除されなくてはならない。何よりもそれは伴侶たる女性が常に笑顔でいるために、である。実はそれほど、高齢者に限らず若者も、とりわけ子育て世代も『律法』では大切にされていた。
けれどもキリストが出会ったのは、そのような陽の当たる場にいる人々ではない。母親はやもめであり、町の人が大勢そばに付き添っていた、とある。母子家庭の中で懸命に育ててきたわが子が急逝した。全てを投げうって育ててきた母親には、あまりにもという出来事。
その現場を目の当たりにしてイエス・キリストは「憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた」。泣くどころか、母親は悲しみの余り涙さえ涸れ果てていたであろう。けれどもイエス・キリストは「もう泣かなくてもよい」と語りかける。「憐れに思う」とは、ただ同情するのではなく、この女性の痛みをともにすることであり、それは十字架でのイエス・キリストの苦しみに重なる。「町の人が大勢そばに付き添っていた」とあるように、誰もこの若者の逝去の責任を問わず、詮索もしない。ごく短い箇所でありながら、実に成熟した社会が描かれる。そしてイエス・キリストは棺に手を触れて担ぎ出されるその歩みを止め「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と語る。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。絶たれたと思われていたいのちが新たに輝き始めただけでなく、やもめの悲しみも癒されていく。しかしこの話を単なる「奇跡物語」を越えた証言として受けとめるためには、聖書の終末論的視点を忘れるわけにはいかない。神の愛の勝利がこの世の悲しみ全てに打ち勝つとき、不可能は不可能でなくなるという希望が備えられる。

イスラエルの民にとって最も悲しむべきは、身体の滅びではない。悲しむべきは記憶から忘れ去られていくこと、初めからなかったことのように扱われることだ。この若者の記憶は、キリストが棺に手を触れたことによって、人々の胸に深く刻みつけられた。そして同時にこの物語は『ルカによる福音書』が献げられたローマ帝国の支配階級に向けて、重大な問いを投げかけている。それは政治的にも軍事的にも支配下にある小さな町にあって、「死」に「いのち」が勝利するという希望が描かれるところにある。軍事力があれば何でも出来るのか。政治力があれば何でも出来るのか。経済力があれば何でも出来るのか。それではあなたがたは、死人を復活させることができるか、そしていのちが死によって終わりを告げるのではなくて、死もまたいのちの一部に過ぎないと確信できているのか。この問いかけが支配階級に剛速球のごとく投げつけられる。
福音書の描く世界は、決して自己責任や関係喪失の世界に、人をぽつねんと置き去りにはしない。現代を冷静に眺めると、物作りや日々の糧を授かるわざ、あるいは人々のコミュニケーションの可能性を広げるわざ、人を育むわざや癒すわざとは無関係に、お金が左から右へ、右から左へと動かしていく仕組みがより巧みになりつつある。けれどもその中に、神の愛の一滴がなければ、やもめの流した涙一滴に魂を揺り動かされる思いがなければ、何のために生きているのか分からなくなってしまう。「イエス・キリストはこの母親を見て憐れに思い、『もう泣かなくてもよい』と言われた。そして近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人は立ち止まった」。弔いへと急ぐ人を立ち止まらせたのは、イエス・キリストが自らの苦難と死の果てに顕わした復活の光であった。やもめの涙を拭う社会を作り出すわざもまた、わたしたちの重大な証しであり、神から委託された権利である。