2019年7月7日日曜日

2019年7月7日(日) 説教

ルカによる福音書15章8~10節
「探しものは何ですか」
説教:稲山聖修牧師

ローマ帝国の支配下、古代ユダヤ教で相応の役割を担った人々から本来の使命感が失われる中で、放置されていたのは「徴税人や罪人」と呼ばれる人々だ。旧約聖書に記された預言者の言葉や律法は、そのような立場の人々には、本来は慰めと癒し、そして励ましの言葉として響くはずだった。預言者や律法に忠実な者が激しく迫るのは、目先の権力や繁栄に溺れて、貧しい人々を虐げても良心の呵責を感じない者であり、決して疎外されたままの人々や、職業身分としての賤業に従事する者に対してではない。しかし福音書に描かれるファリサイ派や律法学者らの非難は、時としてその時代の弱者へと向けられていく。それでもなお、どのような眼差しでさえも顧みずに徴税人や罪人がイエス・キリストのもとに集まってきたのには、地位や身分ある人々には推し量ることのできない重荷を抱えていたからだろう。

イエス・キリストは罪人や賤業にある人々と実に深い関わりをもっていた。その上でイエス・キリストは次の譬えを語る。まずはよく知られている一匹の羊を探す羊飼いの譬え。そして次の譬えだ。「ドラクメ銀貨を十枚持っている女性がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女性を呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うだろう」。罪人の悔い改めの喜びを、無くしたドラクメ銀貨に重ねるなど言語道断だとファリサイ派や律法学者は思ったことだろう。ドラクメ銀貨は異邦であるギリシアの通貨であるだけでなく、譬え話そのものも、極めて世俗的な物語だからだ。けれどもイエス・キリストはこの譬えを語って憚らない。
 思うに、この一連の罪人の悔い改めをめぐる譬え話は、本来はキリストと食卓をともにした、徴税人や罪人に向けられていると考えれば納得がいく。徴税人の生業は、ローマ帝国への納税金を徴収するというわざであり、貨幣とは不可分であるからだ。
 そうだとするとイエス・キリストは、新共同訳聖書の小見出しを用いるならば「見失った羊」の譬えと「失くした銀貨」の譬えを両方用いて、罪人の悔い改めを心から喜ぶ神の天使たちの喜び、そして神自らの喜びについて、誰も排除せずに語り得たこととなる。特に「失くした銀貨」の譬えについては、銀貨を失くしたのは誰かという、この女性自らの過失もまた同時に問われる。さらにはドラクメ銀貨一枚の値打ちが分からなければ、女性の狼狽ぶりについては想像しがたい。実のところ、その金額の価値は、1デナリオンと同じく、一日の日当分にあたるからだ。徴税人や罪人の暮しに歩み寄った譬え話は、この「失くした銀貨」の譬えではなかったか。

 この二つの譬え話に共通するのは、数として計上するならば、たとえ羊を見つけたところで本来の頭数に戻るだけであり、ドラクメ銀貨の場合でも金額が増えるわけでもないところ。つまり、見つけた者が具体的に何か得をするという譬え話ではないのである。しかし、そんな「お得な話」よりももっと重要な事柄があるとイエス・キリストは語る。それは、見失った羊を見つけた喜びであり、そして家捜しして失くしたはずの1ドラクメ銀貨を見つけた喜びである。この譬えを呼び水にして、神の備えた道から外れていた人々が、再び神のもとに立ち返る姿を喜ぶ天使の姿を、キリストは語る。
 わたしたちは教会の頭であるイエス・キリストに根を降ろしながら、各々遣わされたところでの働きを担っている。綺麗事では決して片づけられない各々の現場では、時として自ら担うべき責任を他人に転嫁したり、他人に八つ当たりする態度のとばっちりを受けるばかりでなく、納得できないまま命じられた仕事に従事せざるを得ない場合もある。呟きや嘆きが口にのぼったとき、暴力的な態度によって自分を見失ったとき、わたしたちはイエス・キリストに示された主の平安を見失い、心ない言葉ばかりに気を取られてしまう。しかし、実はそのときに、失くしたはずの銀貨や見失った羊は、実は「ないないない」と狼狽えたり、家捜ししているわたしたちの視界や手の中に、しっかりと捉えられているのではないだろうか。刀の錆びにもならぬ、1ドラクメの値打ちもない言葉に臆してはならない。なぜならわたしたちは、イエス・キリストに探し出され、見出された者なのだから。