2018年12月30日日曜日

2018年12月30日(日) 説教「交わりを新たにするメシア」 稲山聖修牧師 

2018年12月30日
「交わりを新たにするメシア」
マタイによる福音書2章1節~12節
説教:稲山聖修牧師


東方の三人の博士の物語の闇。物語の書き手は、キリストの誕生を歓迎しない者からも決して目を逸らさない。「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」。遠くの地から三博士は、幾重もの地境や国境線を越えてエルサレムを訪れた。三人の博士の問いは、期せずしてヘロデ王の本性を暴露する。ヘロデはユダヤ人の王には見えなかったのだ。ヘロデ王はこの問いに堪えられない。「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々もみな、同様であった」。イエス・キリストの誕生は、ヘロデ王とエルサレムの人々には暮しや考え方の土台を覆す出来事に映る。追いつめられたヘロデは権力を脅かす乳飲み子の居場所を明らかにすべく全力を尽くす。それはキリストの誕生を始めから無かったことにしようとする謀だ。その手先となるのが民の祭司長や律法学者だ。律法学者は預言者の書物を引用する。「ユダの地・ベツレヘムよ。お前はユダの指導者たちの中で、決して一番小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者であるからである」。『マタイによる福音書』で引用されるのは旧約聖書の『ミカ書』5章1節。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出世は古く、永遠の昔にさかのぼる」。おや、と読み手は考え込む。ヘブライ語のテキストとは異なる修正・加筆が福音書の引用には目につくからだ。『マタイによる福音書』では「決して一番小さいものではない」。これは実に不可思議な一文だ。ベツレヘムで起きるのは、決して喜ばしい出来事ばかりではないからだ。


ヘロデは憑かれたかのように救い主の生まれる場所を調べあげ、占星術の学者たちを非公式に呼び寄せる。そして博士の証言をもとに、その時を特定しようとする。そしてさらには「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。詳しく調べて報告せよ。これは三人の博士を間者・工作員として抱き込もうとする画策だ。三人の博士の報告が入り次第、ただちに兵士を派遣して御子イエス・キリストをないものにしようとする魂胆。「わたしも行って拝もう」とは偽りなのだ。
しかし三人の博士は、共犯関係に陥る危機を辛うじて免れる。それは「ヘロデのところへ帰るな」とのメッセージを夢の中で受けたからだ、と物語は記す。異邦人である博士に天使の言葉が臨み、三人は新しい道を拓いて帰途についた。その後に起きた惨劇とは。「さてヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。三人の博士を欺いたのはヘロデであるのだが、その怒りは全く的外れである。そしていわゆるベツレヘムの嬰児虐殺。しかしわたしたちは知っている。すでに『出エジプト記』では、モーセの誕生物語の前触れとして、ファラオのヘブライ人の嬰児虐殺命令があることを。忘却の穴に投げ込まれるはずの事件が、救い主の誕生の光の中で描かれる。だからこそ人々は救い主を待ち望んでいたのだ。


三人の博士、そしてヨセフとマリアはヘロデとは真逆の道を歩んだ。救い主のいのちのために全てを投げ打って歩むという生き方。これは人の弱さを深く感じる繊細さの中で苦しむことも多い道。けれどもそのような者の夢に、天使の声は響く。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。教会を迫害したローマ皇帝ユリアヌスは、そのように呟いた。皇帝ユリアヌスには、不思議とヘロデ王の姿が重なる。そして、殺害されたベツレヘムのこどもたちは、神の国の実現、神の支配の訪れととも全てが新しくされたときに、キリストと深くつながって復活するのである。クリスマス物語には、すでに終末論的な救済の調べが静かに響く。メシアはこのように、わたしたちの交わりを恐怖から解放し、いのちの光で包み、新たにしてくださる。ベツレヘムはキリストによる救いの始まりの場として「決して小さな者ではない」。破れに満ちた世の交わりを新たにするメシアはこうして生まれたのだった。

2018年12月23日日曜日

2018年12月23日(日) 説教「開かれた神の恵みのとびら」 稲山聖修牧師

2018年12月23日礼拝説教
「開かれた神の恵みのとびら」

ルカによる福音書2章8節~17節
説教:稲山聖修牧師



 祖国を失い、旅人としての暮しを余儀なくされている人々。交わりから弾き出され、途方に暮れるほかない人々。その中で、生涯をかけて培った賜物を精一杯用いてメシアの誕生を祝いに訪れた人々がいた。英雄讃美とは一線を画する物語がクリスマス物語の中には縦横に織り込まれる。『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』の物語を通して、最も早く飼葉桶の主イエスのもとに到着したと思われるのが羊飼いだった。旧約聖書では羊飼いはひときわ尊い職業であるかのように記されるが、実はローマ帝国に支配されたユダヤの地では、その仕事への従事者は、時代の最底辺の層をなしていたとされる。羊たちを連れて導くその土地は神から授かった嗣業の土地ではなく、いつのまにか大地主の所有となっていた。住民登録の通知さえ羊飼いには届かない。


 羊飼いが誰からも顧みられなかった様子は、マリアと直接関わりのないこの人々に主の天使が臨むというところからも伝わる。羊飼いは自由意志を抱けず、経済構造の中に絡め取られた奴隷のあり方を強いられていた。しかし、主の天使が臨んだときにに、羊飼いは主のしもべとしての居場所を授かる。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。その様子は実に劇的だ。
続く言葉は「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。「民全体」とは、ローマ帝国の住民登録の対象となった人々よりも一層の広がりがある。それはこの羊飼いたちであり、後に主イエスの宣教の中で出会った人々であり、異邦人やユダヤ人を問わずイエス・キリストに対して十字架への道をこしらえた人々をも含む。そしてクリスマス物語に戻れば、異邦の地から訪れた三博士にも及ぶ。「今日ダビデの町で、あなたがたは、布にくるまって飼葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。この宣言の後、羊飼いたちに主イエスの誕生を告げた天使は、実は天の大軍の導き手でもあったことが記される。天の大軍による神讃美がこだまする。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。神の栄光がたたられる場所では、必ず平和が備えられるとの宣言だ。戦争の間にある脆い平和ではなく、主の平安であるシャロームが臨む。羊飼いは、目に見える状況そのものは何ら変わらないのにも拘わらず、そして「夜通し羊の番をする」という過酷な仕事の中で恐らくは疲れきっていたのにも拘わらず、実に活動的なあり方へと変容させられる。この変容をもたらすのは、イエス・キリストとの絆以外の何ものでもない。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主がお知られくださったその出来事を見ようではないか」。土地に束縛された羊飼い。その軛から解放されて赴く先には、マリアとヨセフ、そして乳飲み子がいた。三人の博士たちでさえ、ともすればヘロデ王という世俗の権力に問い尋ねなくてはならなかった険しい道を、誰にも問わず見事に踏破する羊飼い。

御子イエス・キリストの誕生によって励まされ、力を授かることが、これほどまでに自分のあり方を諦めていた人々を奮い立たせるとは、その時代の誰が想像したことだろうか。これもまた処女降誕の出来事と並び、人の目にはあり得ない出来事に違いない。けれども人には不可能なことが、神にはおできになるのだ。


そしてついに羊飼いは、マリアとヨセフ、そして飼葉桶に寝かせてある乳飲み子について天使が知らせてくれたことを人々に伝える。決して雄弁ではない羊飼いが、人々に御子イエス・キリストの誕生を告げ知らせるという出来事もまた、奇跡として記憶されるべき出来事だ。名もない人々である羊飼いは、もはや地上の何者をも恐れる必要はない。なぜなら彼らもまた、天の大軍に護られている御子イエス・キリストとの深い関わりに置かれているからだ。神の恵みのとびらは、こうして開かれる。御子イエス・キリストの降誕を心からお祝いしよう。メリークリスマス!

2018年12月16日日曜日

2018年12月16日(日) 説教「神にできないことは何ひとつない」 稲山聖修牧師

2018年12月16日
「神にできないことは何ひとつない」

ルカによる福音書1章26節~38節
説教:稲山聖修牧師

 福音書が語ろうとした主イエスの母マリアは、ルネサンス期の欧州の絵画に見られるような王妃のような姿であったかどうかは分からない。それでも今朝の箇所で驚かされるのは、マリアがどのような姿であったにせよ、天使ガブリエルとの出会いについては、平然として物怖じしないところである。マリアの戸惑いはむしろガブリエルのメッセージに向けられていた。「『おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる』。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。その言葉はあまりにも唐突で、前代未聞の出来事に読者をも巻き込む。続くメッセージは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」というものだ。「恐れることはない」と語るメッセージの中身が、実はローマ帝国の支配をも超える、この世の政治的な面だけでなく絶対的な支配にまで及ぶ。平常心でおれるはずのないメッセージ。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えるのが精一杯。とは言え『ルカによる福音書』は、受胎告知を喜びの出来事として見事に描く。それにしても、いわゆる処女降誕という出来事は何を示しているのだろうか。


 第一には、「人にはできないことを神は必ず成し遂げる」という、神の秘義とメシアの秘密について語るところ。あり得ないはず出来事の前に、人はただ無力であるばかりか、その出来事によってのみ、わたしたちはいのちのかけがえのなさを、限られた人生に見出すことができる。身体の特性やこの世の英達を問わず、誰もが喜びに包まれる出来事は、イエス・キリストなしには起こりえない。その出来事は救い主を宿したマリア自らも新たにする。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。マリアの人生は、マリア自身の手から離れている。近代社会が追及した「わたし」を中心にしたあり方が、ここに見事に打ち砕かれる。マリアは一人の女性として、主の僕であると告白するが、実はこの言葉には主なる神への深い信頼が隠されている。


 第二には、そのような神のわざは始まったばかりだということだ。天使ガブリエルの祝福をただちに証明するのは、マリア自身には不可能だ。しかし、月が満ちて嬰児が飼葉桶に生まれたときに、全ての恐れは喜びに変わる。人々が全ての恐れから解き放たれるという、世にあっては不可能な出来事でも神には可能だということがあらわにされる。「啓示」とはこのことだ。ヨセフの不安は勇気に、マリアの不安は喜びに変わる。

 そして今朝語るべき肝心な事柄としては、人々の解放とは、果たしてどのようなものだったかという問いへの応えだ。『ヨハネによる福音書』では、神の子となる資格として「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」と記す。処女懐胎である以上、それはイエス・キリストを中心にした交わりが、人々を縛る血縁に基づく支配原理、現代でいえば血統、性別、人種という神話から解放するということ、そして、世のさまざまな常識や倣いというものは、これまでのようにいのちを奪う力にはなり得ないということ、欲望もまた然りだということ、さらには束縛の言葉を、もはや恐れることはないということが明らかにされる。人々を縛りつける枷を打ち砕きながら、人々が連帯する交わりへと切り結ぶ出来事がここに起きるのだと言える。

 古代社会で力を振るっていたさまざまな支配原理は、優生思想、DNA神話、固定化される経済格差の神話というように、かたちを変えて今なおわたしたちを脅かす。近代社会のもたらした迷信をも、御子を宿したマリアの喜びは打ち砕き、人々を解放する。マリアの不安と喜びは、期せずして『ヨハネによる福音書』16章33節にあるキリストの言葉を証しする。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。わたしたちも、この言葉を証ししていく者となることを究極の喜びとしたい。クリスマスは間近に迫っている。

2018年12月9日日曜日

2018年12月9日(日) 説教「聖書の言葉の実現」 稲山聖修牧師

2018年12月9日
「聖書の言葉の実現」
ルカによる福音書4章16節~21節
説教:稲山聖修牧師


 故郷ナザレでの主イエス・キリストの物語は何ともほろ苦い。『ルカによる福音書』の場合では、主イエスが一人ナザレに身を寄せ、普段通り安息日に会堂に入り聖書を朗読しようとしてお立ちになる。手渡されたのは『イザヤ書』の巻物。『イザヤ書』は預言者イザヤのわざをめぐる物語だ。
 主イエスが目を留めた『イザヤ書』の箇所は、61章2~3節と言われる。今朝の箇所でイエス・キリストが目を留めた箇所と、テキスト本来の箇所との決定的な違いは、主イエスの言葉には「報復」という言葉がないところ。これは実に決定的だ。なぜなら、「書き記された神の言葉」としての聖書の言葉が実現した以上、同害復讐法に根ざすところの考え方から全ての民は解放されることになるからだ。当初人々は主イエスをほめ讃える。その声の中で主イエスの出自が述べられる。「この人はヨセフの子ではないか」。マルコやマタイの場合では「マリアの息子」・「母親はマリア」とされるが、『ルカによる福音書』の場合は手が加えられる。つまり家族としてはとりたてて課題のない家族の出身であるとして描かれる。


 ところで、語り手の話が自分に迫らなければ、人は距離を置いて誉め讃えることができる。 他方、聖書の言葉の実現が、人や世のあり方に変化をもたらしたり、社会に大きな変革を求める場合、自ずと雑多なわだかまりや敵意が出てくる。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれと言うに違いない」と始まる主イエスの言葉に、会堂に集う人々の表情は次第に険しくなる。そして「預言者は、自分の故郷では歓迎されない」との言葉に続く旧約聖書の預言者エリヤとエリシャの物語に基づくところの、救いは、律法に定められたイスラエルの民からではなく、イスラエルの民の外部、すなわち異邦人から及ぶものなのだとの話にいたると、人々は皆憤慨し、イエスを町の外に追い出して山の崖まで連れて行き、突き落とそうとしたとさえ、『ルカによる福音書』には記される。


 それにしても「聖書の言葉の実現」が、会堂に集まった人々に喜びや慰めではなくて、憤慨や怒りや殺意さえもたらしてしまうのは皮肉だ。なぜこんなことが起きたのか。それは聖書の言葉の実現としての御子の受肉、すなわちイエス・キリストの誕生と生涯が、多くの人々の目からは隠されているという意味で、秘義であったからではなかろうか。この秘義が露わにされ、啓示されるという出来事を指し示す使命が、クリスマスの物語には託されてはいなかったかと思うのである。


もっとも初期に記された福音書である『マルコによる福音書』にはクリスマス物語は記されない。おそらくそれはまだイエス・キリストの「人の子」としての働きが、まだ人々の心に深く、熱を帯びて刻まれていたからではなかったか。そして、後の世に記された福音書では、なぜクリスマスの物語が記されていった事情としては、教会のわざの中で、イエス・キリストの教えとわざが、教会の交わりの現実から隠されてしまうこともあったからだ、と受けとめることもできるだろう。成立が最もわたしたちの時代に近いとされる『ヨハネによる福音書』において、「聖書の言葉の実現」とは次のように記される。それは「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。物語としての特性がそぎ落とされた、スリムな言葉だとも言えよう。けれどもこの言葉に示される出来事がどれだけ多くの、名も無き人々に喜びをもたらしたのかといえば、わたしたちはさらに深く、繰り返し聖書の言葉を味わう必要がある。聖書の言葉の実現を喜び、その実現への喜びを通して、世の様々な変化や激動の時代に向き合いたい。この待降節、救い主イエス・キリストの誕生を待ち望みながら。

2018年12月2日日曜日

2018年12月2日(日)  説教「主はわたしたちの救い」 稲山聖修牧師

2018年12月2日
「主はわたしたちの救い」
エレミヤ書33章14節~16節
説教:稲山聖修牧師

 預言者エレミヤの活動した時代は、イスラエルの民が平和に暮らせる世ではなかった。繁栄を極めたソロモン王の治世のその実は、今でいう所得の格差が身分によって固定される問題を伴っていた。ソロモン王の没後、国は分裂する。北部はサマリアと都とするイスラエル王国、南はエルサレムを都と定めたユダ王国。経済的に繁栄を極めたイスラエル王国では、その後アッシリア帝国という覇権国家に呑み込まれ、移住したイスラエル12部族のうち10部族は姿を消す。残るは南のユダ王国だけだ。ユダ族とベニヤミン族のみが生き残った。


 問題はアッシリアの牙だけではない。ユダ王国の隣にはエジプト王国。北からはアッシリア帝国の勢力圏から、新たにバビロニア王国という新興国が現れる。かつてソロモン王が妃を迎えていたエジプト王国を、ユダ王国の歴代の王は頼るようになるが、人の力や軍事力に頼って国土を守ろうとする人々を諫める預言者が現れる。エレミヤがその人だった。「エジプトに頼るな」と説くエレミヤは語る。「それゆえ、万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる、と主は言われる。そこは人の驚くところ、嘲るところ、とこしえの廃墟となる。わたしは、そこから喜びの声、祝いの声、花婿の声、花嫁の声、挽き臼の音、ともし火の光を絶えさせる。この地は全く廃墟となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に70年の間仕える」(エレミヤ書25章8~11節)。バビロニアに降伏して、マイナスから始めなくてはならないと説くエレミヤ。その言葉は決して受け入れられはしなかった。王から遠ざけられ、民からは裏切り者呼ばわりされ、言葉礫や石礫を浴びせられ、いのちすら狙われ、身柄を拘束される。むしろ国の未来の安全神話を説く偽預言者が歓迎される始末だ。


 けれどもエレミヤは同時に語るのは、バビロンに捕虜として連行され、長らくそこに奴隷として暮らす屈辱が人々に何をもたらすのかという話。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」。バビロン捕囚の苦難の先にはいったい何が待ち受けているのか。預言者エレミヤは、メシアの到来を語る。バビロン捕囚の後、幾度もイスラエルの残りの民には困難が待ち受けていた。ペルシアに解放されエルサレムに帰還した後も、そこには荒れ果てた廃墟を遺すのみ。新たに神殿を再建した後も、異邦人の支配の下で、更に神殿は無残にも破壊される。果てにはローマ帝国の支配に置かれ、政治的に利用されるばかりの神殿となる。けれども、それこそローマ皇帝の命令の中で右往左往するほかない、マリアの身体に宿された救い主を遙かに仰ぎ見るかのように、エレミヤは「主は正義の若枝を生え出でさせる」との希望を語る。樹が倒されても、そこから若枝が芽吹くように、深く根を下ろしたイスラエルの民の歴史を基にして、民の垣根を越えていく新たな交わりが、神の国の訪れの中で生まれるに違いないとの確信をエレミヤは語った。この祈りの中で、御子イエス・キリストが救い主として世に遣わされるのだとのメッセージをわたしたちは聴く。


 わたしたちは常に聖書を開く度に、必ずしも「ありのままでよい」と耳障りよく響くばかりではない声を聞く。「主なる神に立ち返れ!」と聖書は常に語りかける。同時にわたしたちは、その言葉に根を下ろしていれば、万事休するという事態に遭っても、必ず逃れの道が備えられると知っている。いのちを授かった女性の旅は、今でもその危うさから憚られるというものだ。けれどもその道筋はあらゆる禍いから護られ、全うされていったのだと聖書はわたしたちに知らせる。「わたしは道であり、真理であり、いのちである。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と『ヨハネによる福音書』にはある。バビロン捕囚への道は、いつの日か救い主イエス・キリストにいたる道へと変容する。クリスマスの出来事へのあゆみは、今、始まったばかりだ。