ローマの信徒への手紙9章4~5節
マルコによる福音書 6章14節~29節
「人の正義の虚しさ、神の義の喜び」
稲山聖修牧師
クリスマス物語で描かれるヘロデ王の息子にあたる、ヘロデ・アンティパス。権力者として登り詰めるほど、猜疑心の虜になっていく人。そのような猜疑心に包まれていたのがヘロデの一族だった。対するは洗礼者ヨハネ。この両者の緊張関係は「戦い」という図で理解すべきではない。ヘロデと洗礼者ヨハネが何を表わすのかという問いが必要になる。洗礼者ヨハネは救い主の訪れを告げ、イエス・キリストは名もない人々に神の国の訪れを伝え、証しを立てた。
アンティパスに洗礼者ヨハネの名を思い起させたのはイエス・キリストの名であった。その名が響く度毎に、ヘロデ王は恐れおののかざるを得なかった。「わたしが首を刎ねたあのヨハネが、生き返ったのだ」。17節からは『マルコによる福音書』の書き手によるところの、ヘロデ・アンティパスを虜にした恐怖のわけが記される。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」。富と繁栄を追い求めて崩壊していく家族の姿がこの箇所には記される。
洗礼者ヨハネは預言者として実直に王に語りかけた。「自分の兄弟の妻と結婚することは律法では赦されていない」。この誡めを語るヨハネの目にはアンティパスの抱えた破れがくっきりと映っていた。「そこでへロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。洗礼者ヨハネとへロディアの間で揺れるアンティパス。この揺れ動く振り子はどこにたどり着いたのか。宴会の中、へロディアの娘が踊る。その娘に「欲しいものがあれば何でも願い出なさい。お前にやろう」。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と立てた誓い。伴侶のへロディアは娘にこう言わせる。「洗礼者ヨハネの首を」。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また、客の手前、少女の願いを退けたくはなかった」。これが洗礼者ヨハネの首を刎ねる理由だ。あまりにも萎縮し、惨めな理由。
それではわたしたちはアンティパスを笑えるというのか。人の姿しか目に映らないならば、わたしたちはアンティパスと似たもの同士に違いない。他方で洗礼者ヨハネは、牢獄にありながら、なおも希望の中で生涯を全うした。その目には、まごうことなく救い主の姿があったのだ。洗礼ヨハネは、アンティパスと対立など一切してはいなかった。両者は各々全く異なる別の土俵に立っている。ヨハネが立つのはイエス・キリストが照らし出した、神の愛という光に照らし出された舞台である。「彼らはイスラエルの民。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの。先祖たちも彼らのもの、肉によればキリストも彼らから出た。キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」。パウロはそのように語る。アーメンという言葉は、ヘブライ語のエメット(真理)に由来する言葉だ。アブラハムの神の真理を受けとめるには、神に謙るところから始まる。そしてそれは隣人に謙ることをも意味する。イエス・キリストがおられるから、わたしたちは己を誇ることなく、隣人を受容するというアンティパスとは別の扉が開かれる。先の見えないこの時代、わたしたちには聖書の御言葉が与えられている。それは、神の愛の力によって心ときめくときに神の言葉となる、大切なともしびなのだ。このともしびこそが、わたしたちの行く手を照らす光なのである。