2018年4月1日
泉北ニュータウン教会礼拝
説教「絶望を突破するいのちの主キリスト」
『ローマの信徒への手紙』7章24~25節
『マルコによる福音書』16章1節~8節
稲山聖修牧師
テーブルにリンゴがないという絵は描けない。わたしたちには「テーブルがある」という絵しか描けない、と語る人がいた。リンゴがないことを示そうとするならば言葉が必要になる。マルコによる福音書は、救い主・イエスキリストに愛された、本来ならば名もない人々が、十字架の上で息絶えていく救い主をただ見守る他はない中で味わう強烈な苦しみと悲しみともに、復活の出来事を特異な文体を用いながら鮮やかに描く。
救い主はついに十字架で処刑された。刑死した者の亡骸はさらし者にされる。十字架刑の行われた場所は「されこうべの場所」と呼ばれていた。しかし主イエスの亡骸は野ざらしとはならなかった。アリマタヤのヨセフは、死刑囚の亡骸をひきとりに、勇気を出してピラトを訪ねる。死刑囚の亡骸をひきとるわざは、処刑された者との深い関わりを示すだけでなく、連座するものとして取り調べを受け、社会的地位を失う危機を伴っていた。だからこそ「勇気を出して」との言葉が連なる。
翌日の夜、今度は女性たちの闘いが始まる。傷だらけの遺骸を清めようとする女性たちには、鬼気迫る思いがある。しかし女性には蓋の石を取りのけるのは困難であった。「ところが、目を上げてみると、石は既にわきに転がされてあった。石は非常に重かったのである」。この一文は日本語としては分かりづらい。「石はそのままであった。石は非常に重たかったのである」であれば明晰である。けれども書き手は「石は既にわきに転がされてあった」と書き記す。文体の乱れが、キリストの復活の尋常ならざる事態を示している。書き手は、おそるおそる墓の中に入っていく女性と眼差しをともにする。「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」。「婦人たちは酷く驚いた」。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。墓にはいないという目に見える現実が、イエスがキリストであり、復活されたという、まだ見ぬ出来事を示す。更に青年は「行って、弟子たちとペトロに告げよ」と使命を託す。それはガリラヤで会うことができるとの宣言であり、「かねて言われていた」事柄とは、生前に主イエス三度弟子たちに告知した自らの逮捕と十字架と復活の出来事だ。これが実現したと青年は語る。つまり空の墓は、単に空ではなくキリストが墓から出て行かれたことを示している。葬りの場所がいのちの終焉ではなく、いのちの通過点となる次元が開かれた。ただし「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
勿論、女性たちが恐怖の虜であったなら、主の復活の出来事はわたしたちの知るところにはならない。少なくともこの物語の最も古い資料では、ナタで叩き落とすかのように筆を置く。この特異な文体はわたしたちに問いを発する。則ち、あなたに見えるのは空になった墓でしかないのか。それとも、すでにガリラヤに行かれた、復活したイエス・キリストに従うのかという問いだ。この問いあればこそ、わたしたちは自分たちがどこに立つのかを確かめられる。「わたしたちは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの身体から、だれがわたしたちを救ってくださるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とパウロは語る。死に定められていたわたしたちは、イエス・キリストの復活を通して、新たないのちへと繋がる。そして諸々の絶望を突破する神の国を先取りする、神の公共性を目指す。主の復活に感謝する者として。