2018年4月29日日曜日

2018年4月29日(日) 説教「神の忍耐はわたしたちの希望」稲山聖修牧師

2018年4月29日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「神の忍耐はわたしたちの希望」
『ローマの信徒への手紙』8章18~25節
『ヨハネによる福音書』15章 1~10節
稲山聖修牧師


 『ヨハネによる福音書』の成立までにはパウロの手紙から30年以上が経過している。その中で教会に集う人々は、キリストが再臨し、神の支配が完成するという終末が遅延するという問題に向き合った。終末がこの世の秩序の終焉として理解した人々は、教会だけでなく、この世の暮しそのものからも離れていこうとする。世を創造した神は悪い神であり、十字架でわが身を滅ぼすことによって汚らわしい世から遠ざかる姿勢が必要だと考える人々が増える。グノーシスという異端。この集団と同じように、世からの「解脱」を欲する傾向は今なお一部のカルト宗教に見られる。
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。『ヨハネによる福音書』で、書き手はイエス・キリストを「ぶどうの木」になぞらえようとする。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。剪定をも含めた残酷に響く表現。書き手はこの時代のぶどう農場のごく当り前の働き方を重ねる。ぶどう栽培は土地が適度に乾燥していないと、葉ばかりが大きくなり実りが小さくなる。乾燥した土地ほど、ぶどうの木は水分を求めて根を深く大地に降ろす。実際にぶどうの手入れをする農夫は、ローマ帝国の時代では奴隷の仕事であったとすら言われる。イエス・キリストを大地に根を下ろすぶどうの木に譬え、そして父なる神をぶどう農場の奴隷に重ねている。このような発想は世の中から隠遁したり、世にある暮しや生き方を否定したりするところからは生まれない。


 さらに、ぶどうの実りはそのまま口に含まれるだけではなく、ぶどう酒を造るためにも用いられる。聖書の時代のぶどう酒はアルコール度数が少ないのにも拘らず傷を消毒したり飲み水を清めるために多く用いられた。「わたしの話した言葉」によって、あなたがたはすでに清くなっている」。イエス・キリストは語る。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」。『ヨハネによる福音書』の記された時代の世の中でとりわけ知識を好む人々の間では、この世のあり方を否定するような考え方の影響力が強かった。だからこそ主イエスは「わたしにつながっていなさい!」と強く語りかけ、その理由を「わたしもあなたがたにつながっているからだ」という。『ヨハネによる福音書』では、促成栽培の実りに重ねられるような「待てない人々の求める成功哲学」を決して語らない。けれどもキリストの言葉が私たちの交わりにあり、心に根を下ろしているならば何でも願うべきだと語る。
 『ローマの信徒への手紙』には「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とある。苦しみにあるのはわたしたちだけではない。全てのいのちが、わたしたちと関わりながら苦しんでいる。しかしそれは被造物にいのちあればこそであって、決して希望のない苦しみではない。イエス・キリストの十字架という滅びの苦しみは、復活という新しいいのちの希望に包まれた道を備えた。その道にあって、神はわたしたちの世にある暮らしを受けとめてくださっている。神の忍耐はわたしたちの希望であり、この希望がわたしたちを神ご自身の平安の中に招き入れる。

2018年4月22日日曜日

2018年4月22日(日) 説教「いのちのガイドライン、それは神の愛」稲山聖修牧師

2018年4月22日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「いのちのガイドライン、それは神の愛」
『ローマの信徒への手紙』8章12~17節
『ヨハネによる福音書』13章31節~35節
稲山聖修牧師

 社会の役に立つか立たないか。これでいのちの価値を値踏みする。聖書はこの残酷な考えの根拠として「貪り」を示す。貪りとは神を見失った者が他者を顧みず、人を道具と見なし、こき使い、その場しのぎの豊かさを求めるありようだ。創世記の失楽園の事件は、知恵の実が「いかにもおいしそう」だったからこそ起きた。兄エサウと弟ヤコブの兄弟間の争いの物語も、エサウが長子の特権を弟の調理したレンズ豆の煮物とパンと交換したのが発端。貪りがエサウから長子の権利を奪った。民数記11章では、エジプト人の奴隷の身から解放されたのにも拘らず、約束の地への旅の途中、その旅そのものを罵り、激しく不満を訴える。「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚や肉をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない』」。神から与えられる食であるマナを授かっていても、イスラエルの民は文句しか言わないのだ。聖書の世界に、夢や理想や型にはまった模範ばかりを求める人がいるならば、きっと挫折するに違いないだろう。余りにも見るに堪えない人間の醜悪な姿をなぜ聖書は、これでもか、これでもかと描くのだろうか。
きっとそれは世の側からは神を見失っているにも拘らず、神が決して人との関わりを絶ちはしないところに、書き手が目を向けているからではないだろうか。律法学者であったパウロに限らず、『ヨハネによる福音書』の書き手も旧約聖書を深く味わったうえで、イエス・キリストの歩みを記す。『ヨハネによる福音書』には、旧約聖書の物語には見られない逆転現象を見る。それは貪りの中で滅びにいたる他ない人の世だからこそ、救い主が訪れた!とのメッセージだ。主イエスは語る。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることはできない』とユダヤ人たちたちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」。『ヨハネによる福音書』では主イエスとは決して友好的には描かれないユダヤ人。この人々と主イエスの弟子たちが同列に置かれているのは、旧約聖書の中でイスラエルの民と雑多な他国人とが等しい扱いを受けている点に重なる。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。互いに愛し合いなさいとの言葉には「神自らの愛」を示す「アガペー」が用いられる。互いを大切にし、尊重し合い、泥を被ることも厭わず、痛みをともにするという深い意味がある。貪りの念極まりない限界状況の下でも、神を信頼して食を分かち合い、手を差し伸べるという神の愛と勇気とに満たされた奇跡が起きる。それこそが貪りの構造に根を下ろしているはずの暮らしを根底から変えてしまう、イエス・キリストの出来事である。イエス・キリストの出来事とは、いのちにいたる道、いのちへのガイドラインを鮮やかにわたしたちに示していく。その道をなぞっていくわざこそが「新しい掟」を祈り求めるわざにつながる。
パウロは『ローマの信徒への手紙』の中で、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。「キリストとともに苦しむならば、共にその栄光をも受けるからです」と記す。律法学者でもあったパウロならではの「新しい掟」をめぐる理解がある。社会に役立つ人になろうとして憔悴するのではなく、他人と較べて要領の悪さや不器用さを呪うのでもなく、「愛する、かけがえのないこの人」を活かす交わりを、イエス・キリストにあって問い尋ね、育んでいきたいと願う。なぜならそのわざには、たった一人のいのちをも軽んじることのない、神の国の姿が隠されているからだ。

2018年4月15日日曜日

2018年4月15日 「不信仰は信仰の始まり」稲山聖修牧師

2018年4月15日
泉北ニュータウン教会礼拝

説教「不信仰は信仰の始まり」
『ローマの信徒への手紙』8章5~10節
『マルコによる福音書』16章9節~18節

稲山聖修牧師
 

最古の写本にはない『マルコによる福音書』16章9〜11節では、復活したキリストの姿を仰いだマグダラのマリアが、「イエスと一緒にいた人々にいた人々が泣き悲しんでいるところ」へ出かけ、このことを知らせた、とある。けれども人々はその証言を否定する。続く12節には「その後、彼らの内の二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた」とある。エルサレム郊外よりもガリラヤへの道は都落ちの弟子の姿があった。主イエスは甦ったご自身を現したが、この二人の証言も「残りの者」によって却下される。そして14節。「その後、11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」。その後の物語の展開は、『ヨハネによる福音書』でトマスに現れる復活の主イエスの物語と似ているものの、他の福音書の物語にない特徴がある。それは「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」。「おとがめになった」という、かたくなな弟子たちにたまりかねての復活の姿である。

『マルコによる福音書』12章18節以降には「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎを設けねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを遺さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを遺さないで死に、三男も同様でした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」とある。サドカイ派が重んじた文書は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記に絞り込まれる。この「モーセ五書」では登場人物の葬りは描かれても復活はそれとしては記されない。この点に限ればサドカイ派は近代合理主義的な考えに立つ現代人によく似ているが、果たして人はそれほど強いのだろうか。わたしたちは「死んだらお終いだ」という考えに甘んじられるのだろうか。

死後の世界への幻想や妄想の誘惑は、聖書では「口寄せ」の姿に映される。そのもとに走った人が旧約聖書ではサウル王だった。サウルは口寄せを訪ね、すでに世を去った預言者サムエルの霊を呼び出す。「なぜわたしに尋ねるのか。主があなたを離れ去り、敵となられたのだ。主は、わたしを通して告げられたことを実行される。あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人、ダビデにお与えになる」とのサムエルの答え。神から託された重大な役目の放棄が描かれる。『マルコによる福音書』では、キリストの復活をこの世の出来事として受け入れられない弟子のかたくなさだけでなく、その態度を戒めるために姿を現したイエス・キリストを描く。その姿は檄を飛ばす鬼コーチのようだ。内面に閉じこもる弟子たちの生き方の、滅びにいたる扉をこじ開けに現れた主イエス・キリストの姿。パウロは「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属してはいません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています」と語る。神の霊がわたしたちに宿っているかどうか、はわたしたちの裁量の及ぶところではない。その高みから定めらているわたしたちとキリストとの関わりこそが、信仰なのだ。この関わりの中で、不信仰の扉をも復活の主イエス・キリストはこじ開ける。不信仰は信仰の始まりである。

2018年4月8日日曜日

2018年4月8日 「あなたがたに平和があるように」稲山聖修牧師

2018年4月8日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「あなたがたに平和があるように」
『ローマの信徒への手紙』8章1~3節
『ヨハネによる福音書』20章24節~29節
稲山聖修牧師

弟子のトマスは、復活のキリストとの出会いの場に居合わせなかった。本日の聖書に先立つ箇所で、イエスは二度繰り返して「あなたがたに平和があるように」と語る。ヨハネ福音書では、復活の姿を現したその場で主イエスは派遣の言葉を語る。その場にトマスは居合わせてはいなかった。トマスはキリストとの出会いをめぐって他の弟子たちよりも遅れ、取り残された。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。


「遅れた」トマスの言葉は、現代を生きるわたしたちにも通じるところがある。それはトマスが問答で「わたし」を連発するところだ。「わたし」は、他の弟子たちの「わたしたちは主を見た」の「わたしたち」と対比される。「決して信じない」という言葉は他の弟子たちとは異なる強い響き。断固として否定している「わたし」がそこにいる。つまり、二度目のキリストの復活に出遅れたことによって、トマスの考え方と、現代に生き「わたしの気持ち」「わたしの夢」「わたしの責任」にこだわり続けるわたしたちの物事の捉え方や思い煩いというものが、不思議に接近してくるのだ。現代のわたしと、トマスがこだわる「わたし」とが重なって目の前に浮かびあがるのは、トマスが遅れのお陰かもしれない。

遅れによって、却って気が急くことになってしまったトマスは他の弟子たちとの関わりばかりか、イエス・キリストとの関わりにも目が向かなくなる。急いてばかりいれば自分の都合しか考えなくなるのが人間だ。キリストとの縦糸が危うくなるならば、仲間とも言える他の弟子達との横糸も具合が悪くなる。このようなトマスは八日をかけて復活のイエス・キリストと再会する。八日とは、ユダヤ教の世界では生まれた赤ん坊が、神の愛の中を生きる契約としての割礼を刻むまでの日数にあたる。トマスもまた「わたし」という自意識の牢獄に囚われている間、一人になる時間をトマスは期せずして備えられる。そして三度目に主イエスが現れたとき、「あなたがたに平和があるように」「安かれ」と語りかけ、トマスと実に濃厚な関わりを持つ。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。復活のキリストは、執拗なトマスの「わたし」という問いを否定しないまま、自らの傷跡にトマスの手を触らせる。八日目にトマスはイエス・キリストにこう答える。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスの拘り続けた自意識はこのときに砕かれ、トマスの考えの主体は「わたし」から「イエス・キリスト」を通じて「神」へと移行する。復活の物語では、トマスがイエス・キリストを探求したのではなくて、復活したイエス・キリストがトマスに先んじて語りかけるのだ。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである」。今朝の『ローマの信徒への手紙』には「肉の弱さのために律法がなし得なかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。今朝は、まさにトマスの弱さを取り除くために、またわたしたちの弱さを取り除くために、イエス・キリストが甦られたのだとパウロの言葉を読み取りたい。繁栄を急いだ国は、滅ぶのもまた早い。トマスは時間をかけてキリストの仲立ちのもと、他者へと開かれたあり方へ変貌していった。神の愛を力の源とする教会は、神の定められた時の流れに立つ。多様さと豊かさを尊ぶ、神の公共性という世界がそこには広がるのではないだろうか。


2018年4月1日日曜日

2018年4月1日 「絶望を突破するいのちの主キリスト」稲山聖修牧師

2018年4月1日
泉北ニュータウン教会礼拝
説教「絶望を突破するいのちの主キリスト」
『ローマの信徒への手紙』7章24~25節
『マルコによる福音書』16章1節~8節
稲山聖修牧師

   テーブルにリンゴがないという絵は描けない。わたしたちには「テーブルがある」という絵しか描けない、と語る人がいた。リンゴがないことを示そうとするならば言葉が必要になる。マルコによる福音書は、救い主・イエスキリストに愛された、本来ならば名もない人々が、十字架の上で息絶えていく救い主をただ見守る他はない中で味わう強烈な苦しみと悲しみともに、復活の出来事を特異な文体を用いながら鮮やかに描く。
救い主はついに十字架で処刑された。刑死した者の亡骸はさらし者にされる。十字架刑の行われた場所は「されこうべの場所」と呼ばれていた。しかし主イエスの亡骸は野ざらしとはならなかった。アリマタヤのヨセフは、死刑囚の亡骸をひきとりに、勇気を出してピラトを訪ねる。死刑囚の亡骸をひきとるわざは、処刑された者との深い関わりを示すだけでなく、連座するものとして取り調べを受け、社会的地位を失う危機を伴っていた。だからこそ「勇気を出して」との言葉が連なる。

翌日の夜、今度は女性たちの闘いが始まる。傷だらけの遺骸を清めようとする女性たちには、鬼気迫る思いがある。しかし女性には蓋の石を取りのけるのは困難であった。「ところが、目を上げてみると、石は既にわきに転がされてあった。石は非常に重かったのである」。この一文は日本語としては分かりづらい。「石はそのままであった。石は非常に重たかったのである」であれば明晰である。けれども書き手は「石は既にわきに転がされてあった」と書き記す。文体の乱れが、キリストの復活の尋常ならざる事態を示している。書き手は、おそるおそる墓の中に入っていく女性と眼差しをともにする。「白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えた」。「婦人たちは酷く驚いた」。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。墓にはいないという目に見える現実が、イエスがキリストであり、復活されたという、まだ見ぬ出来事を示す。更に青年は「行って、弟子たちとペトロに告げよ」と使命を託す。それはガリラヤで会うことができるとの宣言であり、「かねて言われていた」事柄とは、生前に主イエス三度弟子たちに告知した自らの逮捕と十字架と復活の出来事だ。これが実現したと青年は語る。つまり空の墓は、単に空ではなくキリストが墓から出て行かれたことを示している。葬りの場所がいのちの終焉ではなく、いのちの通過点となる次元が開かれた。ただし「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

勿論、女性たちが恐怖の虜であったなら、主の復活の出来事はわたしたちの知るところにはならない。少なくともこの物語の最も古い資料では、ナタで叩き落とすかのように筆を置く。この特異な文体はわたしたちに問いを発する。則ち、あなたに見えるのは空になった墓でしかないのか。それとも、すでにガリラヤに行かれた、復活したイエス・キリストに従うのかという問いだ。この問いあればこそ、わたしたちは自分たちがどこに立つのかを確かめられる。「わたしたちは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの身体から、だれがわたしたちを救ってくださるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とパウロは語る。死に定められていたわたしたちは、イエス・キリストの復活を通して、新たないのちへと繋がる。そして諸々の絶望を突破する神の国を先取りする、神の公共性を目指す。主の復活に感謝する者として。