2018年1月7日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「全世代をつつむ生命の光キリスト」
『ルカによる福音書』2章22~40節
稲山聖修牧師
聖家族のエルサレムの神殿訪問の物語では、齢を重ねた人が二名描かれる。一人はシメオン。「この人は正しい人で信仰が篤く」とあり、「イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」。クリスマス物語では「聖霊」との言葉は実に重要だ。なぜならば『マタイによる福音書』でマリアが身籠ったのは聖霊によると言われている通り、神と深く関わりながらも、人間には前代未聞の、推し量りがたい出来事を示すからだ。処女懐胎と同じ神の隠された力がシメオンには留まっていた。さらに「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とある。シメオンの生涯は、本日の箇所で登場する女性を視野に入れると類推できる。その女性とは女預言者アンナである。彼女は「非常に歳をとっていて、若いときに嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、84歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」。この数字を字義通りに受けとめるならば、少なくともシメオンは齢90歳を越えている。その目に映ったイスラエルの民とはいかなるさまであったのか。
バビロン捕囚期の後、ペルシアの支配の下ヘブライ人は故郷のパレスチナへの帰還を赦されました。しかし次にはペルシアがギリシアに撃たれ、カナンの地域はギリシアの影響を強く受けた国々に支配された。この支配は、バビロン帰還後に再建された神殿を再び破壊し、オリンポスの神々を建てて礼拝を強要した。その中で民は一斉に蜂起、奇跡的に独立を勝ちとりはしたものの、この戦におよび支援をしたローマが新たな支配者となる。この混乱と敗北をシメオンは幼い頃に知っている。「主よ、いつまでですか」との民の呟きの中、シメオンは育った。時と共に大勢の仲間が、シメオンに先立って召されていった。それだけに「イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」。シメオンの抱く、神の支配への待望は実に重い。
シメオンとアンナ。二人に共通するのは高齢であるからこそ、幼子イエス・キリストが何者であるかを見抜き、待ち望む人々に幼子を指し示したということだ。これは『ルカによる福音書』のみに記される、高齢者の特権でもある。シメオンは幼子キリストと出会い、自分の生涯の完成を予感する。それは直截に表現すれば天に召されることだが、シメオンにはそれは、神から託された役目を果たし仰せたとの思いに満たされている。アンナの場合、彼女自らがあたかも使徒になったかのように救い主の訪れを老若問わず語る。二人のわざの中心に立つのは、若い夫婦マリアとヨセフ、そして幼子キリストである。
教会は多彩な年齢層がイエス・キリストを中心にしながら混在する。そして互いの可能性を引き出し、課題を担い合う交わりの場でもある。足腰を傷めるのは高齢者だけではない。生まれながらに健常者の生活に適さない特性をもつ人々は福音書の世界には大勢描かれる。それではその人たちは不幸であったのか。キリストとの出会いの中で、なおも不幸であったのか。決してそうではない。この出会いには常に、主の平安「シャーローム」があった。その物語を踏まえながら、新しい年の教会の絵を少しずつ、着実に描いていきたい。