2018年1月14日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「あなたの嘆きにうち勝つ主の恵み」:要旨
『ローマの信徒への手紙』5章12~17節
『創世記』24章15節~21節
稲山聖修牧師
今朝の聖書箇所でパウロは記す。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表わす者だったのです」。この箇所では「罪」との言葉が七度用いられる。その由来は「アダムの違反」にあるという。
実のところ『創世記』で「罪」という言葉が用いられるのは、アダムの二人の息子、カインとアベルの物語である。カインのではなく、アベルの献げものを喜ぶ神。カインの怒りはアベルに向けられる。神は語る。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。パウロはこの箇所ではなく、アダムを一人の男性と見た上で、主なる神との約束を破り、知恵の実を口にしたところに罪の源を看取する。主なる神は人に「死んではならないから、知恵の実を食べるな」と約束したのに、人はその実をとって食べた。その結果、人は神のように善悪を知った。しかし実は「神のように」とは「神ではない」ことの裏返しだ。各々が勝手に善悪を振りかざした結果、「死んではならない」という神の約束が反故にされ、その結果として死がもたらされる。これは神との関係喪失であり、隣人との関係喪失である。アダムはこの絶望を抱えてなおも神との関わりを否定できなかった。だからこそ来たるべき方としてのメシアを前もって表わす者とされる。
この前提に立ち、創世記が示すのは年老いたアブラハムへの忠誠を忘れなかった奴隷だ。祈りを献げた老いた奴隷の目に映ったのはリベカ。その働き実に頼もしく、無名の奴隷ばかりか10頭のらくだ全てに水を飲ませた。不意の申出に時を惜しげもなく献げる姿。奴隷は「主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」。この旅の目的がかなうとき、老いた奴隷はその働きを終える。それは人生の役割の完成である。この無名の奴隷が今後何らかの理由により死にいたる事態を迎えたとしても、それは決して罪の結果ではない。この奴隷には、死は罪に由来せず、アブラハムの神のもとへの召天として意味を持つ。
この物語をだれよりも知るパウロだから「恵みの賜物は罪とは比較になりません」と記す。この無名の奴隷にも絶えず主がともにいた。神との失われた関係がイエス・キリストに示された恵みによって贖われ、新たに紡がれる。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」。「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人」とは誰か。それはこの礼拝に集まった私たち一人ひとり。そして何らかの事情で、それは体調不良であったり、今この時に遣わされているところでのわざがあったりと、何らかの仕方でとりなしの祈りを必要としている方々。たとえ嘆くことがあったとしても、パウロの記した一線さえ忘れなければ、私たちは関係喪失という社会を蝕む病理から引揚げられ、誰もが現状を変えることができる。嘆きは必ずキリストを通してアブラハムの神に聞かれる。時は必ず来る。