2018年1月21日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「愛のわざにはキリストが伴い給う」
『ローマの信徒への手紙』5章18~21節
『創世記』24章22節~32節
稲山聖修牧師
ヘブライ人の共通理解は全ての罪がアダムとエバに由来するとの考え。この考えは人が一人で生きてはいないとの事実のみか、人は各々破れを抱えながら歩まなければならない苦しみと痛みを分かりやすく言葉にする点から、教会にも継承された。パウロもこの考えに立ち、イエス・キリストに示された神の恵みに基づく救いを伝えようとする。「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くが正しいとされる」。この言葉をいかに受けとめるべきか。
そのような問いを胸にイサクの許嫁探しの物語を辿る。許嫁を探すアブラハムの忠実かつ無名の老いた僕は、十頭のらくだに水を飲ませてくれた娘の素性を問う。らくだが水を飲み終わると、僕は重さ一ペカの重さの金の鼻輪と十シェケルの金の腕輪を取り出す。いずれも主人アブラハムから託された許嫁へのしるし。娘の、旅人を懸命にもてなそうとするその姿勢に導かれ、アブラハムの僕は問いかける。「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父様の家にはわたしどもがとめていただける場所があるでしょうか」。この僕はらくだばかりか従者まで連れている。僕とその一行を前に娘は堂々と出自を名乗りつつ告げる。「わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊りになる場所もございます」。相手は突然の来客しかも初対面である。リベカは「わらも餌もたくさんあります」と言う。らくだが十頭いたところで、僕と従者たちが移動に用いた家畜が何頭いたところで気にするな、心配するなと労う。それだけではなく「お泊りになる場所もございます」と、自分が家の当主であるかのように振舞い、旅人の労苦をもてなそうと答える。アブラハムの僕は娘の振る舞いに圧倒されながら神の采配を見てとる。「彼は跪いて主を伏し拝み、『主人アブラハムの神、主は讃えられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました』と祈った」。
続く箇所ではリベカと入れ替わりに舞台には別の人物が現れる。「リベカにはラバンという兄がいた」。「ラバンはすぐに町の外れの泉の傍らにいるその人のところへ走った」。兄は動揺を隠しきれない。彼には金の鼻輪と指輪は、想像を絶する対価を示すからである。ラバンは妹の威風堂々たる振る舞いに押され井戸の傍へと急ぐ。「わたしが、お泊りになる部屋もらくだの休む場所も整えました」。アダムの末であるにも拘わらず、その振る舞いはベツレヘムの人々とは大きく異なる。
「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでありました」。パウロの世界と族長物語の世界で決定的に異なるのは、律法のありやなしやという点にもある。ホレブの山で戒めを授かったイスラエルの民はどのような振る舞いに及んだか。確かに神の約束を今日でいえば可視化、「見える化」して神の御旨を辿ることができるようになった。けれどもその代わり、その戒めにそぐわない振る舞い、即ち罪人としての振る舞いもまた否応なく可視化される。613の戒めを教条的に守るべきだとパウロは語らない。パウロが説くのは、自らを卑賎であると思うほど、神が備えたもう出会いによって支えられ、神自らによって支えられている思いもまた一層深くせざるを得ないとの事実である。隠された恵みを人々に開いたのは誰かなのか。イエス・キリストその人であり、私たちは、キリストに導かれた愛のわざに立つ。それは歪みがもたらす悲しみを包みつつ、神の似姿に相応しいその人本来の姿へと立ち返らせる。神の愛の恵みに応える中で、弱い私たちも神の力をそそがれ、愛のわざに相応しく整えられる。かのリベカのように。主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。