2018年1月28日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「ふりかえれば神さまの恵みがそこに」
『ローマの信徒への手紙』6章1~5節
『創世記』24章33節~36節
稲山聖修牧師
泉北ニュータウン教会礼拝説教「ふりかえれば神さまの恵みがそこに」
『ローマの信徒への手紙』6章1~5節
『創世記』24章33節~36節
稲山聖修牧師
パウロの理解に則するならば、洗礼とは神の支配の訪れに目標を定めたキリストへの服従を確かめるわざである。その点でパウロ書簡と福音書に矛盾はない。洗礼とはその人に注がれた聖霊の働きを、聖書に証しされた交わりの中で確かめるわざであって、決して個人に完結する問題ではない。これは決して当事者の生活文脈からは分断されない営みだ。種々の出来事と出会いの連なりが、時には我知らずして洗礼に結晶することもあり得る。
さらには、洗礼はキリストを中心にした交わりの中で育まれ、養われるその始まりを示すわざだ。決して教理の知的な承認や教理問答によって「定義」されはしない。むしろそれは逆で、祈りつつ聖書を味わいながら、それらの教理を信仰のガイドラインとするのである。例えば、直接には洗礼を授かる当事者の自覚なしに洗礼が執行される場合もある。幼児洗礼、病床洗礼では、洗礼はその人には一回限りながらも、様々な多様性の中で行われる。この場合「当事者の意志確認なしに洗礼を行ってよいのか」との批判も想定できるが、洗礼を授かる方々を支える交わりが、受洗者が神との関わりを全うできるよう祈り求めることにより、洗礼はキリストに従う喜びに満ちたわざとなる。東京神学大学名誉教授の熊澤義宣(よしのぶ)は「代理的洗礼」について言及する。例えば、教会の交わりに連なる方々には使徒信条や日本基督教団信仰告白の知的承認が、その人の特性として困難な場合がある。けれども熊澤氏によれば、そのような方々を支える教会の交わりがあるならば、正々堂々とその特性をもつ方を受洗者として迎え入れ、信仰の養育係としてお互いを尊重できる。注がれている神の恵みを、その人に分けていく、贈物として献げていくわざ、それが「代理的洗礼」と言い表されている事柄であろう。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきであろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちがみな、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって使者の中から復活させられたように、わたしたちも新しいいのちに生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」。受洗以降養われた視点から顧みれば、教会との関わりが直接にはなかった時にも、聖霊の働きがそこに潜んでいたのを、私たちは知る。
さて、アブラハムの年老いた無名の僕は、リベカの兄ラバンに迎え入れられ旅路の労いを受ける。「やがて食事が前に並べられたが、その人は言った。『用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません』」。つまり年老いた僕には、招かれた食卓に与る以上に大切な重要事項がある。この箇所から洗礼と聖餐に関するメッセージを聴きとるならば、洗礼という、仕事・家族から一歩を踏み出し、誰の目にも明らかな仕方でイエス・キリストとの交わりの中に立つわざと会堂にいる全ての人々を包み込む神の愛を示す聖餐のわざが深く関わりあることが分かる。聖餐は排他的ではなく包括的でありながら決して強要されはしない。神の国における一致を待ち望む包括的な聖餐式においては、会堂に集う全ての人々がキリストの肢体に連なることこそ切なる願い。祈りは思わぬ仕方で必ず聞かれる。イエス・キリストを見つめて歩む姿が証しとなり人は教会に連なる。