2017年12月10日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「洗礼者ヨハネが示す救い主」
『ルカによる福音書』1章67~80節
稲山聖修牧師
イザヤ書40章1~5節までの言葉を語りつつ、「最後の預言者」と呼ばれる洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるための洗礼を宣べ伝えた。これは四つの福音書全てに記されているだけに、救い主の訪れを想う上で不可欠の記事だ。このヨハネの父ザカリヤは祭司であり、エリサベトを伴侶としたと、『ルカによる福音書』は記す。あるときザカリヤは神殿の聖所で主の天使から「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」。ザカリヤはこの言葉を受け入れない。「わたしも妻も老人である」のがその理由だ。天使が答えるには「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを告げるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことはできなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。祭司の口が封じられる。それは職能上の障りだけでなく、祭司の役割を定める律法を破ることでもある。ザカリヤは務めを果たせないどこか、心ならずも御使いの力によって律法に相応しく暮らすことができなくなる。ザカリヤは祭司としての一切の力を封じられてしまう恐怖を味わう。ザカリヤの舌が動くようになるのは、エリサベトが男の子を授かり、律法が定めた割礼の日に、父として名をつけるその時。ザカリヤはこの場で息子の名前を記す。「この子の名はヨハネ」。そのとき舌のほどけたザカリヤは神をほめ讃える。「イスラエルの神である主」「僕ダビデの家」「聖なる契約」「我らの父アブラハム」「いと高き方の預言者」「我らの歩みを平和の道に導く」という、旧約聖書の預言者が担った働きとともに、ヨハネが担う役目が記される。そして「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの民の前に現れるまで荒れ野にいた」と実に麗しく、クリスマス物語に相応しい展開でひとまず終わる。それではヨハネ自身は、生涯を一貫して雄々しく救い主の訪れを語り得たのか。
ヘロデに幽閉されたヨハネは、『ルカによる福音書』7章18節以降で、人生の終わりを前に、二人の弟子たちを遣いに出し、次のように主イエスに問いかける。「来るべき方はあなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネ自ら「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、ヨルダン川で清めの洗礼を授けたはずの主イエスについてこのように呟かざるを得ない。己の限界を知り、悶え苦しむ姿が赤裸々に描かれる。それは当然のことだ。ヨハネは救い主の前に立つ、一介の預言者に過ぎないからだ。思えば孤独の中で喘ぎ、苦しみ身悶えしながら旧約の預言者たちは神の言葉を証ししたのだった。主イエスはヨハネの弟子に語る。「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである」。これこそ、救い主にのみ備えられた権能である。神の国の訪れの前には、死はその力を失い、不正な世にあって苦難の極みにある人々に喜びが告げ知らされており、それは神のわざの中で時がくるまで隠されている。すなわち「わたしに躓かない人は幸いである」。多くの人が、イエスが救い主であることに気づかない中、「わたしに躓かない者は幸いである」との答えが堂々とヨハネに伝えられる。「来るべき方はあなたですか。それともほかの人を待たなければなりませんか」との問いこそが、ヨハネがまことの預言者であったことを証し、同時にイエス・キリストを指し示してもいる。飼い葉桶に生まれた救い主は、ヨハネにもそのような戸惑いを生ぜしめた。だからこそ、御子イエス・キリストは、まことの救い主だとの確信が与えられる。クリスマスの出来事は、わたしたちだけが覚える記念に留まらず、神が自らに刻んでおられる、癒しと慰めに満ちた救いの出来事なのだ。