2017年12月03日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「失意を喜びに変える約束」
『エレミヤ書』31章31~36節
稲山聖修牧師
「聞け、イスラエルよ」と呼びかける預言者の姿。待降節第1主日を迎えてわたしたちが目を注ぐのは預言者エレミヤ。彼は超大国バビロニア王国の要求を全て呑み、主の計らいを前にしたイスラエルの残りの民の悔い改めを望んだ。しかしイスラエルの残りの民は、もはや神ではなく、人の力に頼ろうとする。エレミヤはイスラエルの民に自ら悔い改め、主に立ち返るというわざをもはや期待しない。むしろ、バビロニアの捕虜となることで、出エジプトの解放だけでは砕かれなかった民の頑なさを打ち破ろうとした。エレミヤは、侵略者であるはずのバビロニア王国の王を、「アブラハムの神の僕」とさえ称するのだ。
バビロン捕囚にいたるまでの道筋に希望を見出すならば、アブラハムの神がイスラエルの民のありようを徹底的に新たにする中で光を見出す他にはない。『エレミヤ書』31節以降では「見よ、わたしはイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心をそれに記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。その時、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。掟破りの常習犯と化したイスラエルの民に新たに授けられるとのしらせ。それはもはや石にではなく、人々の心に刻まれる誡めだ。重要なのは、アブラハムの神とイスラエルの民との関係が赦しの中で本来の姿を取り戻すだけでなく、すでに人は立場を問わず主を知っており、互いに「主を知れ」といって教えることはない、とのくだりだ。旧約聖書の中で、誡めに基づく神との関わりから、終末論的な律法の完成を視野に入れた民の救いが伝えられる。虜囚の民は救い主を待ち望むという神との関わりへの新たな転換を迎える。エルサレムの神殿は徹底的に破壊されたが、イスラエルの民は生き延びたのだ。イスラエルの残りの民は異邦人の権力に屈しつつ歩む。その苦難が深まるほど、民はメシアにいのちの希望を託した。
新約聖書では洗礼者ヨハネが「最後の預言者」として描かれる。『マルコによる福音書』の冒頭には「神の子イエス・キリストの福音の始め」と端的に記される。イスラエルの民がどれほど救い主を待ち望んでいたか。書き手はイザヤ書を引用する。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」。『マルコによる福音書』は、美しいクリスマス物語を省略してまで、ヨハネに語らせる。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちすらない」。
『マルコによる福音書』成立時には、主イエスの時代のエルサレムの神殿もまた廃墟と化していた。ローマ帝国の支配への絶望的な反抗の結果、神殿は完膚なきまでに叩き潰された。廃墟に先立つ混乱の中から預言者が待ち望んでいた救い主が世に現れる。その方こそイエス・キリスト。預言者エレミヤがはるかに仰ぎ見た、律法の成就である。パウロは「イエスの焼き印を身に帯びている」と語った。神の愛よりも世の権能と虚しい繁栄を追い求める民の深い失意と絶望は、イエス・キリストの誕生にあって大いなる喜びに変えられる。救い主の誕生を待ち望む希望を新たにしたい。