聖書箇所:使徒言行録27章27~38節
聖書で船が活躍する物語といえばノアの箱舟物語。何度読み返してもあの安定感はただものではない。反面新約聖書で描かれる船は箱舟に較べれば余りにも不安定。本日の聖書箇所では暴風の吹きすさぶ中船は沈むかどうかの瀬戸際に立つ。海難事故の場合生き残る人は極端に少ない。二週間もの漂流の間、飲み水さえ雨水以外には頼りにならない。しかし船員は冷静だ。「真夜中ごろ船員達は、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、20オルギアであることが分った」。船が航行するに充分な深さ。船尾から錨を四つ投げ込み、夜明けを待ちわびた。しかし夜明けの後船員の意図が露見する。「ところが、船員達は船から逃げ出そうとし、選手から錨を降ろすふりをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」。百人隊長と兵士達は「綱を経ちきって、小舟を流れるにまかせた」。百人隊長は、今度はパウロを信頼し敢えて退路を断った。
極限の消耗の中、朝の光とともにパウロは一同に食事を勧める。食を分かち合う愛餐といのちに関わる聖餐が見事に融合する。船とは古代教会では教会を象徴するシンボル。船員全てがキリスト者かは分らない。しかしパウロの言葉を受けとめる決断のもと、いのちが神からの授かりものであると受けとめパンを分かち合う。コリントの信徒への手紙Ⅰ.11章27節以降では「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を呑んだりする者は、主の身体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきであります。主の身体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのために、あなたがたの間に弱いものや病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」とある。
日本基督教団でのオープン聖餐・クローズド聖餐の議論。しかし神の恵みはその枠には収まらない。日本基督教団が重視している式文を尊重するならば結論は明らかとなろう。教会の秩序を守りながら教会のあり方を閉ざさない聖餐式。絶望にあった船員達は、逃げだそうとした船員達は、一同元気づいて食事をした。主イエスの血肉を分かち合い、聖霊の注ぎを授かる。暴風は神の力となり、パウロも含む乗組員や混乱から救う。慎重に教会の足もとを固め、大胆に扉を開けたく願う。