聖書箇所:使徒言行録27章39~44節
二週間漂流していたパウロを乗せた船は、いよいよ陸地を見つけ上陸する。目途がついた船員達は上陸する岸を思い巡らせる。「朝になって、どの陸地であるか分らなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった」。先ほどは乗り捨てて逃げようとした船との関わりを、船員らは絶ちきれずにいた。「そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ」。うまく行けば、砂浜に乗り上げ、船を修理することが可能だ。けれども実際は「深みには挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした」。船尾が壊れだしたということは船が完全に破壊されてしまう。
兵士らは囚人たちが泳いで逃げないように殺そうと計った、とある。兵士の囚人への対応としては実にマニュアル通り。けれども人の内面は誰にも推し量れない面がある。本人にさえ分らない秘義としての面がある。「百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた」。皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスは、パウロが「死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」ことを職責上知っていた。クレタ島から吹き下ろす暴風「エウラキロン」に襲われる前に、人に委ねない判断に基づいて出航を見合わせた方がよいとのパウロの進言はベテランの船長の経験則に勝る鋭さがあった。パウロはユリウスに船旅の間中使徒としての証しをした。その証しは、パウロとユリウスの間に類を見ない信頼に基づいた交わりを育むこととなる。護送されている囚人が逃げ出したとしても、パウロの身の上だけは何としても助けたい。そのためにユリウスは命令する。「泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板きれや船の乗組員につかまって泳いでいくように」。ユリウスは泳ぎの苦手な者にいたるまでの配慮を含み入れ命令を下す。このようにして全員が無事上陸したと27章は締めくくられる。「船」には箱舟物語以降、聖書では混沌とした世の波の中で人々が救いあげられる場としてのイメージが加えられる。それは新約聖書にあっては教会の役割に重なるが、これほどまでに徹底的に船が壊れる場面は稀。私たち各々が主にある交わりの中で日々新たにされていくように、教会もまた波風猛るこの世の中で絶えずリフォームされていく宗教改革のメッセージと本日の箇所は重なる。壊れることにより船はその使命を果たしたのである。
2016年10月30日日曜日
2016年10月23日日曜日
2016年10月23日「心に沁み入るキリストの味」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録27章27~38節
聖書で船が活躍する物語といえばノアの箱舟物語。何度読み返してもあの安定感はただものではない。反面新約聖書で描かれる船は箱舟に較べれば余りにも不安定。本日の聖書箇所では暴風の吹きすさぶ中船は沈むかどうかの瀬戸際に立つ。海難事故の場合生き残る人は極端に少ない。二週間もの漂流の間、飲み水さえ雨水以外には頼りにならない。しかし船員は冷静だ。「真夜中ごろ船員達は、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、20オルギアであることが分った」。船が航行するに充分な深さ。船尾から錨を四つ投げ込み、夜明けを待ちわびた。しかし夜明けの後船員の意図が露見する。「ところが、船員達は船から逃げ出そうとし、選手から錨を降ろすふりをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」。百人隊長と兵士達は「綱を経ちきって、小舟を流れるにまかせた」。百人隊長は、今度はパウロを信頼し敢えて退路を断った。
極限の消耗の中、朝の光とともにパウロは一同に食事を勧める。食を分かち合う愛餐といのちに関わる聖餐が見事に融合する。船とは古代教会では教会を象徴するシンボル。船員全てがキリスト者かは分らない。しかしパウロの言葉を受けとめる決断のもと、いのちが神からの授かりものであると受けとめパンを分かち合う。コリントの信徒への手紙Ⅰ.11章27節以降では「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を呑んだりする者は、主の身体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきであります。主の身体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのために、あなたがたの間に弱いものや病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」とある。
日本基督教団でのオープン聖餐・クローズド聖餐の議論。しかし神の恵みはその枠には収まらない。日本基督教団が重視している式文を尊重するならば結論は明らかとなろう。教会の秩序を守りながら教会のあり方を閉ざさない聖餐式。絶望にあった船員達は、逃げだそうとした船員達は、一同元気づいて食事をした。主イエスの血肉を分かち合い、聖霊の注ぎを授かる。暴風は神の力となり、パウロも含む乗組員や混乱から救う。慎重に教会の足もとを固め、大胆に扉を開けたく願う。
聖書で船が活躍する物語といえばノアの箱舟物語。何度読み返してもあの安定感はただものではない。反面新約聖書で描かれる船は箱舟に較べれば余りにも不安定。本日の聖書箇所では暴風の吹きすさぶ中船は沈むかどうかの瀬戸際に立つ。海難事故の場合生き残る人は極端に少ない。二週間もの漂流の間、飲み水さえ雨水以外には頼りにならない。しかし船員は冷静だ。「真夜中ごろ船員達は、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、20オルギアであることが分った」。船が航行するに充分な深さ。船尾から錨を四つ投げ込み、夜明けを待ちわびた。しかし夜明けの後船員の意図が露見する。「ところが、船員達は船から逃げ出そうとし、選手から錨を降ろすふりをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」。百人隊長と兵士達は「綱を経ちきって、小舟を流れるにまかせた」。百人隊長は、今度はパウロを信頼し敢えて退路を断った。
極限の消耗の中、朝の光とともにパウロは一同に食事を勧める。食を分かち合う愛餐といのちに関わる聖餐が見事に融合する。船とは古代教会では教会を象徴するシンボル。船員全てがキリスト者かは分らない。しかしパウロの言葉を受けとめる決断のもと、いのちが神からの授かりものであると受けとめパンを分かち合う。コリントの信徒への手紙Ⅰ.11章27節以降では「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を呑んだりする者は、主の身体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきであります。主の身体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのために、あなたがたの間に弱いものや病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」とある。
日本基督教団でのオープン聖餐・クローズド聖餐の議論。しかし神の恵みはその枠には収まらない。日本基督教団が重視している式文を尊重するならば結論は明らかとなろう。教会の秩序を守りながら教会のあり方を閉ざさない聖餐式。絶望にあった船員達は、逃げだそうとした船員達は、一同元気づいて食事をした。主イエスの血肉を分かち合い、聖霊の注ぎを授かる。暴風は神の力となり、パウロも含む乗組員や混乱から救う。慎重に教会の足もとを固め、大胆に扉を開けたく願う。
2016年10月16日日曜日
2016年10月16日「誰一人いのちを失わず」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録27章13~26節
時にパウロは自らの苦しみを正直に記す。コリントの信徒への手紙Ⅱには「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、街での難、荒野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫る厄介事、あらゆる教会についての心配事があります」とある。苦しみつつパウロはキリストの恵みの証しに全てを賭ける。
使徒言行録27章13~26節では、百人隊長がパウロの警告よりも船長や船主を信用した結果、クレタ島のフェニクス港に停泊し、三ヶ月に及ぶ越冬の備えをするところから始まる。船は錨を上げクレタ島の岸に沿って進む。ところがクレタ島から吹き下ろす暴風「エウラキロン」が襲う。風に逆らって進められなくなった船は流されるまま。錨を降ろしてやりすごすことに決めたのにも拘わらず暴風は止まない。人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には船具までも海に投げ捨ててしまう。
しかし手紙では長々と苦難を訴えたパウロは、使徒言行録では凜としている。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません」。しかしパウロは人々を責めない。今朝の箇所では「元気を出しなさい」と言う言葉が二度繰り返される。その根拠は何か。それは、人命を超えたパウロならではの展望にあったといえる。『あなたは皇帝の前に出頭しなければならない』。この展望あればこそパウロは誰一人いのちを失うことはないとパウロは語り得た。
パウロの苦しみを吐露のまとめにあたるコリントの信徒への手紙Ⅱ.11章29節には次のようにある。「誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。パウロの苦しみの吐露は聖霊の注ぎへと繋がる。世の流れ渦巻くときにこそ、私たちもキリストを仰ぎつつ展望と大志を主なる神から授かるのだ。
時にパウロは自らの苦しみを正直に記す。コリントの信徒への手紙Ⅱには「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、街での難、荒野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫る厄介事、あらゆる教会についての心配事があります」とある。苦しみつつパウロはキリストの恵みの証しに全てを賭ける。
使徒言行録27章13~26節では、百人隊長がパウロの警告よりも船長や船主を信用した結果、クレタ島のフェニクス港に停泊し、三ヶ月に及ぶ越冬の備えをするところから始まる。船は錨を上げクレタ島の岸に沿って進む。ところがクレタ島から吹き下ろす暴風「エウラキロン」が襲う。風に逆らって進められなくなった船は流されるまま。錨を降ろしてやりすごすことに決めたのにも拘わらず暴風は止まない。人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には船具までも海に投げ捨ててしまう。
しかし手紙では長々と苦難を訴えたパウロは、使徒言行録では凜としている。「皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたに違いありません」。しかしパウロは人々を責めない。今朝の箇所では「元気を出しなさい」と言う言葉が二度繰り返される。その根拠は何か。それは、人命を超えたパウロならではの展望にあったといえる。『あなたは皇帝の前に出頭しなければならない』。この展望あればこそパウロは誰一人いのちを失うことはないとパウロは語り得た。
パウロの苦しみを吐露のまとめにあたるコリントの信徒への手紙Ⅱ.11章29節には次のようにある。「誰かが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。パウロの苦しみの吐露は聖霊の注ぎへと繋がる。世の流れ渦巻くときにこそ、私たちもキリストを仰ぎつつ展望と大志を主なる神から授かるのだ。
2016年10月9日日曜日
2016年10月9日「子どもたちを私のところに来させなさい」牛田匡神学生
聖書箇所:マルコ10章13~16節
イエス様は行く先々でその地の人々に語りかけておられましたが、ある時子どもたちを祝福してもらおうと思って、連れて来た人々がいました。しかし、弟子たちはその人々を叱りました。恐らく彼らは当時の典型的なユダヤ人の感覚、価値観として、「イエス様は大忙しでお疲れだし、子どもなんかの相手をしているヒマはないよ」ということで、追い払おうとしたのでしょう。しかし、イエス様はそのような弟子たちに対して憤られました。そして言われました。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)。更にその「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福され」(10:16)ました。そこに、当時の社会の中では一人前として扱われず、舞台の真ん中には立たせてもらえなかった子どもたちを、掛け替えのない存在として、向き合われたイエス様の「愛のまなざし」を感じることができます。
ひるがえって、現代の私たちの周りの「子どもたち」とは、一体どこの誰のことでしょうか。もちろん各家庭や保育園の中にいる子どもたちもそうでしょうし、高齢であったり病気や障がいを抱えていたり、また失業中であったりして、周りから一人前の存在、価値のある存在として見なされていない人たちもそうでしょう。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」、この言葉は子どもたちを妨げた弟子たち、そして今「一人前の大人」として立っている私たちへの戒めの言葉であると同時に、弱く小さくされている「子どもたち」を御許へと招く力強い主イエスのお言葉でした。
そして私たちもまた、時には疲れ、つまずき、倒れます。私たちも「子どもたち」だと気付かされる時もあります。しかし、そのような「子どもたち」をこそ、主イエス・キリストは御許へと招き、抱き上げ祝福して下さるのです。
世界中の全てのものが、神様によって創られ、生かされています。「子どもたちを私のところに来させなさい」。今も尚生きておられる主イエス・キリストが今日も私たちを招き、導き、背中を押して下さっています。ですから私たちは安心して、神の子として創られて与えられている命を、イエス様の後に従う者として、生かされていくだけです。それがこの地上を「神の国」と変えていくことであり、「神の国に入る」ということなのです。
イエス様は行く先々でその地の人々に語りかけておられましたが、ある時子どもたちを祝福してもらおうと思って、連れて来た人々がいました。しかし、弟子たちはその人々を叱りました。恐らく彼らは当時の典型的なユダヤ人の感覚、価値観として、「イエス様は大忙しでお疲れだし、子どもなんかの相手をしているヒマはないよ」ということで、追い払おうとしたのでしょう。しかし、イエス様はそのような弟子たちに対して憤られました。そして言われました。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)。更にその「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福され」(10:16)ました。そこに、当時の社会の中では一人前として扱われず、舞台の真ん中には立たせてもらえなかった子どもたちを、掛け替えのない存在として、向き合われたイエス様の「愛のまなざし」を感じることができます。
ひるがえって、現代の私たちの周りの「子どもたち」とは、一体どこの誰のことでしょうか。もちろん各家庭や保育園の中にいる子どもたちもそうでしょうし、高齢であったり病気や障がいを抱えていたり、また失業中であったりして、周りから一人前の存在、価値のある存在として見なされていない人たちもそうでしょう。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」、この言葉は子どもたちを妨げた弟子たち、そして今「一人前の大人」として立っている私たちへの戒めの言葉であると同時に、弱く小さくされている「子どもたち」を御許へと招く力強い主イエスのお言葉でした。
そして私たちもまた、時には疲れ、つまずき、倒れます。私たちも「子どもたち」だと気付かされる時もあります。しかし、そのような「子どもたち」をこそ、主イエス・キリストは御許へと招き、抱き上げ祝福して下さるのです。
世界中の全てのものが、神様によって創られ、生かされています。「子どもたちを私のところに来させなさい」。今も尚生きておられる主イエス・キリストが今日も私たちを招き、導き、背中を押して下さっています。ですから私たちは安心して、神の子として創られて与えられている命を、イエス様の後に従う者として、生かされていくだけです。それがこの地上を「神の国」と変えていくことであり、「神の国に入る」ということなのです。
2016年10月2日日曜日
2016年10月2日「激しい逆風を用いて」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録27章1~12節
パウロを乗せた船は東地中海に面したパレスチナの港湾都市シドンから出たが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、現在のトルコの南の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いたと記される。このミラという都市は港から2・3キロ奥まったところだというからパウロを乗せた船はミラから数キロ離れた港に入ったと考えられる。不思議なことに囚人の護送という、厳重に管理されなければならないはずの動きが実に行き当たりばったりだ。6節では、「ここで百人隊長は、イタリア行きのアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた」とある。囚人の護送であっても、それが皇帝の名によるものであっても、大自然の力には勝てない。「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を通ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれるところに着いた、とある。人々の歩みは現代に比べて柔軟性に富み、なおかつ車のハンドルでいう遊びの部分を必ず残す。使徒言行録の人々は自然を前にしての人の弱さを心底知っているからかもしれない。
この遊びの部分について、近代を経た私たち日本に暮らす民は考え直す必要があるのではないか。かつてベオグラードに滞在したとき、家内が少年のスリに遭った。先方には無防備な外国人に映ったのかもしれない。振り返ると、少年を守るために大人たちが円陣を組んでいた。民族的にはロマと呼ばれる人々。だが不思議にも怒りは湧いてこなかった。今なお様々な差別を受け、貧困の中に暮らすロマの人々が外国人相手のスリを生業としたところで、誰が非難できるだろうか。むしろセルビアの苦難に満ちた歴史を思うと極貧にありながら、よくもまあ生きているものだと感心さえした。日本人が同じ環境に置かれたら果たして生きていけるだろうか。ときに観光地となる西ヨーロッパの教会に比べ、東方正教会・セルビア正教会では御国を来たらせ給えとの切実な祈りが献げられていた。
聖日礼拝への出席は、逆風の中で変更を余儀なくされる日常に秘められた主のみむねに信頼を寄せること。計画のごり押しは時に排除をもたらす。ナチはロマを虐殺した。今日は世界聖餐日。パウロも旅の中でパンを裂いて祈る。国のない人々とも、私たちは繋がっていることに感謝したい。
パウロを乗せた船は東地中海に面したパレスチナの港湾都市シドンから出たが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、現在のトルコの南の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いたと記される。このミラという都市は港から2・3キロ奥まったところだというからパウロを乗せた船はミラから数キロ離れた港に入ったと考えられる。不思議なことに囚人の護送という、厳重に管理されなければならないはずの動きが実に行き当たりばったりだ。6節では、「ここで百人隊長は、イタリア行きのアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた」とある。囚人の護送であっても、それが皇帝の名によるものであっても、大自然の力には勝てない。「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を通ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれるところに着いた、とある。人々の歩みは現代に比べて柔軟性に富み、なおかつ車のハンドルでいう遊びの部分を必ず残す。使徒言行録の人々は自然を前にしての人の弱さを心底知っているからかもしれない。
この遊びの部分について、近代を経た私たち日本に暮らす民は考え直す必要があるのではないか。かつてベオグラードに滞在したとき、家内が少年のスリに遭った。先方には無防備な外国人に映ったのかもしれない。振り返ると、少年を守るために大人たちが円陣を組んでいた。民族的にはロマと呼ばれる人々。だが不思議にも怒りは湧いてこなかった。今なお様々な差別を受け、貧困の中に暮らすロマの人々が外国人相手のスリを生業としたところで、誰が非難できるだろうか。むしろセルビアの苦難に満ちた歴史を思うと極貧にありながら、よくもまあ生きているものだと感心さえした。日本人が同じ環境に置かれたら果たして生きていけるだろうか。ときに観光地となる西ヨーロッパの教会に比べ、東方正教会・セルビア正教会では御国を来たらせ給えとの切実な祈りが献げられていた。
聖日礼拝への出席は、逆風の中で変更を余儀なくされる日常に秘められた主のみむねに信頼を寄せること。計画のごり押しは時に排除をもたらす。ナチはロマを虐殺した。今日は世界聖餐日。パウロも旅の中でパンを裂いて祈る。国のない人々とも、私たちは繋がっていることに感謝したい。
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