2016年8月28日日曜日

2016年8月28日「光は混乱に打ち勝つ」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録23章12~22節

 「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しを立てなければならない」。聖霊はパウロの勇気をそそぎ、目の前に立ちはだかる壁を突破する力を備える。その壁とはパウロを暗殺するという謀をもつ集団である。それは「陰謀を企み、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」とあるように、万策を尽してパウロを陥れ、命を奪うという練りに練られた計画性をもつ。表舞台でパウロを排除できなかった人々が、祭司長や長老らという権力者達と、今度は闇の中で破壊的な事柄を綿密に計画する。
私たちは、ここでパウロが主イエスと出会う前に師と仰いだ律法の教師ガマリエルを思い出すべきだ。ガマリエルは語る。「あの者達から手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たのであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」。
 神に逆らう者のたくらみがあるならば、主なる神は必ず逃れの道を備える。旧約聖書では御使いが現れ、主のみ旨に従おうとする者に道を備えてきた。本日の箇所でも御使いのような働きを担う若者が描かれる。その素性は「パウロの姉妹の子」という匿名で記されるだけだ。この若者の働きを通して、パウロは謀を知り先手を打つ。その道筋で、百人隊長と千人隊長がパウロの命を守る。千人隊長にもパウロ暗殺の知らせは心外であったろう。自らの謀を成就させるために、ローマ帝国の千人隊長を手段として利用する動きがあったからだ。
しかし、いのちを殺めたり害したりする事柄にのみ執念を燃やす人々の怨念は決して目的を果たすことはできない。逆にいえばイエス・キリストのゆえに困難に遭う者には、必ず逃れの道が備えられるとの使徒言行録の書き手の確信が記されているともいえる。逃れの道とて安易な道ではない。それゆえに逃れの道が祝福され、新しい信仰の道となると聖書は語る。族長物語も出エジプト記も逃れの物語。イエス・キリストに示された救いの光は、必ずや人の混乱に打ち勝つ。だから私たちは自分を追い詰める必要はない。必ず神は道を備えてくださる。それは争いに満ちた今の世界にも広がる道である。

2016年8月14日日曜日

2016年8月14日 「神から授かる知略と勇気」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録23章1~11節

 使徒言行録の世界で古代ユダヤ教を代表する群れ。エルサレムの神殿に根を降ろす祭司階級サドカイ派の聖書の読み方は、自らの財産を守るため戒めを破らずに済む道筋を探す。復活はサドカイ派には邪魔である。他方ファリサイ派は復活も天使も神の力である霊も認める。彼らは民衆に可能な限り寄り添い、会堂で聖書のメッセージを伝えようと励んだ。この違いが囚われのパウロの活路となる。
 パウロの身柄を預かる千人隊長はその鎖を外し祭司長と最高法院の招集を命じる。人の目からすればたった一人のパウロの姿勢が千人隊長を動かし、対話のときを備えた。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って生きてきました」。使徒言行録では、神と切り離された良心はない。パウロは戒めを破らずキリストの道に従ったと赤裸々に告白する。これによって最高法院に亀裂が生まれる。モーセの戒めを破らずに既得権益を守るべく汲々とする人々へのファリサイ派の葛藤をパウロは突く。その結果ファリサイ派の人々はパウロの味方につく。更には今までパウロの身柄を拘束したローマ帝国の力が、パウロを保護する逆転が生じる。敵対者が味方となりパウロの楯となる。
 この実に劇的な箇所で思い起こされるのは主イエスが語った「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」との言葉。その教えは関わる相手によって態度を変えなさい、とか、教会の内と外で立ち振る舞う行動原理を変えなさいという浅薄なものではない。蛇はエジプトからギリシアにいたるまで知恵を象徴する動物。そして鳩が示すのは平和を目指す聖霊の力。素直な心、繊細な心、痛む心が鋭い洞察力となり、世に各々遣わされた場で主にある兄弟姉妹を守るとの確信が記されている。「主を畏れることは知恵の初め」との旧約聖書の言葉を主イエスは大胆に解き明かした。そしてこの知恵を用いてパウロは危機を脱した。本日はポツダム宣言受諾の前日。大阪・京橋での空襲では大人もこどもも大勢が殺された。地方都市にいたるまで丸焼けにされた挙げ句の果てに本土での戦は沖縄を除いて避けられた。精神論を振りかざせば戦に勝てるなど愚の骨頂。同じ轍を踏まないよう、主を畏れる知恵を祈りつつ各々授かり、道を開拓したい。

2016年8月7日日曜日

2016年8月7日「神の言葉はつながれていない」稲山聖修牧師

聖書箇所:マタイによる福音書28章11~20節

 イエス・キリストの復活の書き手は、同時に抹殺を試みた人々に生じた慄きと混乱を記す。さらに復活を疑う弟子たちもいたと述べる。その描写が却って主の復活を強烈に印象づける。御使いが主イエスの復活を告げるとともに、急いでガリラヤへ行けと命ぜられた女性は、懸命の思いで託された務めを果たす。その最中、手練手管を用いた祭司長たちは番兵からの報告に愕然とする。祭司長と長老は兵士に口止め料を握らせるが、このわざ自体が祭司長や長老には真実が宿っていないことを証しする。さらには夜中にイエスの亡骸が盗まれたと吹聴するが、実のところ弟子は概して小心者であり、そのような振る舞いに及ぶはずもない。
 世の権力の破れを明らかにしつつ、物語の書き手は、その眼差しをガリラヤに赴いた弟子に向ける。興味深いことに復活を疑う弟子たちも、イエスがお示しになった山へと登っているのが愛らしい。そして物語は疑いによって耕され深められる主イエスとの絆を描く。世の権力は主イエスの前には取るに足らない。だからこそ、「すべての民をわたしの弟子にせよ」との、あらゆる不正な力に対する勝利者キリストの言葉が記される。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
ところで本日の聖書とともに、テモテへの手紙2章9節「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」との言葉を受けて、バルメン宣言の最後のテーゼは語る。「教会の自由の基礎でもある教会への委託は、キリストが天に昇られた後に、キリストの代理として、キリストご自身の御言葉とみわざに説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、全ての人に伝えるということである。教会が、人間的な自立性において、主の御言葉とみわざを、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめるというような誤った教えを、我々は退ける」。
 戦後71年の平和聖日。かの時代の闇は決して私たちの日常からは消え去ってはいない。だからこそ私たちは世の光としての輝きを一層増していく。何者にもつながれない神の言葉は、次世代への最大遺物として主の平和を備える。どのような惨い仕方で眠りについた人も終末には目覚め私たちと食卓をともにする。これが私たちの希望だ。