聖書箇所:使徒言行録13章13~25節
ピシディアのアンティオキアの会堂で、パウロが語るイスラエルの民の歴史は、出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記へといたる。これは神に選ばれたはずのイスラエルが本筋から外れていく影をも併せ持つ。特に王の時代を記すサムエル記に納められた「キシュの子サウル」の物語。サウル王は出身部族と改名以前のパウロの名に重なる「もう一人のサウロ」でもある。
サウル王の働きは目覚ましく、数多の勝利を手に入れる。次第に勝利に酔いしれていくサウル。戦の前の礼拝はサムエルの役目であるにも拘わらず、彼は勝手に犠牲を捧げる。王の職能が神からの預かり物であることを忘れたサウル。その結果人心が離れ孤独の中で病にいたる。神なき自己信頼と裏返しに、王の職能の重圧に押し潰されていく者の狂気と悲しみが露わとなる。魂の行き場を失ったサウルは口寄せを訪ね、世を去ったサムエルを呼び出しては「なすべき事を教えていただきたい」とすがる。答えは「主はあなたを離れ去り、敵となられた」。その後の合戦でサウルは自刃する。
このサウル王の生涯を間違いだと、神なき時代の誰が断じ得るというのか。安寧を貪ろうと王を求める民の歪みを背負うために油注がれたサウル王は、懸命にその役目を果たそうとして自滅したのだ。サウル王の過ちから学ぶことがあるとするならば、堂々と采配を振るうべき者が主への信頼を忘れ、その代わりに亡きサムエルを都合よく担ぎ出すくだり。この点を乗り越えていくのがパウロである。
初代教会には世を歩まれたイエスと出会い、十字架を前に立ち尽す他なかった群れと、聖霊の働きを通じ使徒として召された群れに分かれる。パウロは後者。教会への迫害を通し主イエスに生き方を転換させられた者。サウル王と同じくパウロも一度は死んだ身である。しかし紙一重の違いは救い主の訪れの確信に立つところ。パウロの説教ではキリストの贖いにサウル王も包まれる。
今朝も私たちはこの礼拝に招かれた。この礼拝こそもう一つのふるさとである「神の国」へと開かれた扉である。この扉から吹くいのちの息吹に充たされ、私たちは安らかに眠り、新たな旅を始められる。もう一つのアンティオキア、もう一人のサウロは、もう一つのふるさとへの道を示している。サウル王の悲劇と苦しみをも主イエスは担ってくださった。