2026年1月30日金曜日

2026年 2月1日(日) 説教

―降誕節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「種まきの条件」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』4章1~9節
(新約66頁)

讃美=  21-18(Ⅱ1).21-461(294).21-26.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 北陸地方や東北地方といった雪国の教会とこども園の一日は雪かきから始まります。手押しのトラクターのような機械やスコップ、石油缶を斜めに切り取手をつけた除雪道具で朝4時起、場合には3時半に目覚めて教会やこども園の前に道を作ります。保護者の方々に協力していただく場合もあります。見える教会に集うためには見えない汗がどうしても必要となります。そのような作業を続けるなかで教会や付帯施設が自分の家のように感じてくるようになるのだと染み入ります。
 
   見えない作業といえば、農地の手入れもまた同じです。農家の方々が常に気を配っているのは、農地の土の具合です。小学校のころ国語の科目で読んだ物語には、お百姓さんが農地の候補となる土地の様子をみるために、土を少しつまんで口の中に入れて味わうという、文字通り「地味を確かめる」という描写があります。おそらく土にある栄養分やPhを味覚や嗅覚で確かめていたのでしょう。
 
   そのような作業は『旧約聖書』の時代からも変わらなかったように思います。とりわけ人々の暮らしとなった大河のほとりには麦の耕作地が広がっていたことでしょう。大麦の収穫では一粒の種から76粒もの収穫ができた時代がアブラハム以前の時代の収穫率であり、これはローマ帝国時代の4倍、中世ヨーロッパの10倍以上の数値を示していたとのことです。災害で焼き締められた記録用の粘土板を解読するとこのような情報も分かります。『旧約聖書』の舞台は砂漠の世界と断言はできません。しかしなぜこのような豊穣な麦の実りが廃れていったかと申しますと、この地域に広まっていた農法そのものに問題があったとのこと。養分は十分ながらも乾燥した土地に川の水を流して灌漑を行なううちに、土地に含まれるミネラルまで吸い上げ、地表に塩を露わにする結果となりました。麦は塩分にまことに弱く、人類史での極みと言ってよいこの収穫量も次第に減っていきます。水を流して塩を除くという地味な作業を怠った結果、『旧約聖書』の舞台となった都市文明には滅亡していったところも少なくなかったとのことです。
 
   本日の箇所で人の子イエスが立つ場所は舟。そこは漁師の働きの場であるとともに農地に潤いをもたらす場。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出ていった。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根が無いために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。4章13節からは『マルコによる福音書』の書き手集団が附け加えたと思われる人の子イエスによる解き明かしが記されますが、あえてこの解き明かしを括弧に入れて、わたしたちがより素直に本日の譬えを味わってみましょう。道端や石だらけで土の無いところ、茨の中といったところは、申すまでもなく農地には不向きです。このような場所を農地に変えるには、あえて人の流れに制限を加えて道を畦道に変えるほかありません。また手足を傷だらけ・血を流して茨を取り除き、開墾しなくてはなりません。いずれにしても本気度と覚悟が試されますが、それは決して直には描かれません。見えない労が求められ、日々その耕しを忘れない態度が求められます。
 
   それではその態度とは何でしょうか。具体的にこのようにしなさいとは決して申しあげられません。なぜならばそれは人それぞれによって個性や特性が異なり、「種蒔く人の譬え」で申しあげれば土の特性が異なるからです。しかしこれだけは申しあげることができます。それは、いつ種蒔き人が来てもよいように、心と言葉の距離を近づける生き方を絶えず問い続けるわざです。

    わたしたちは言葉を語る者であるとともに、言葉に耳を澄ませるところに身を置いてもいます。自らの関心事に腹を据えて祈りを献げるとき、わたしたちは『聖書』の言葉が神の言葉になる瞬間を知っています。逆に、自分の言葉がガラスの破片のように人を傷つけていることにも後から気づき、深くふかく心を痛める者です。いずれにしても、祈りの言葉とは軽んじられるものではなく、わたしたちの日々の暮らしと切り離されてもいません。わが心に高慢さは無かりし哉。わが胸に独りよがりは無かりし哉。日々の暮らしでは慌ただしく、そのような時間はないとこの問いかけから身を遠ざけてまいりますと、たちまち茨が生えてまいります。だからこそ聖日の礼拝は暮らしの要です。神の言葉に心を開き、喜び涙を流すことで、わたしたちは次の一週間に相応しい心身の清らかさを身に帯びます。様々な誤解は生じます。しかし神の言葉への誠実さを、ともに忘れずに過ごしてまいりたいと願います。

2026年1月23日金曜日

2026年 1月25日(日) 説教

    ―降誕節第5主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「神の救いの兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章21~28 節
(新約62頁)

讃美=  21-530(316).21-463(494).21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 学生のころ、京都市営地下鉄今出川駅改札にいつも貼ってある一枚のチラシがありました。それは脳性麻痺の方で自立した暮らしを求めている方の支援を内容としていました。よく観ると介護のローテーションが記されており、内容も現在であれば高度なスキルを求められていたように思います。

 東日本大震災や新型コロナ禍の後の慢性的な経済不況の中で高度経済成長期やバブル期を懐かしむ雰囲気が包まれ「あのころは自由だった」「あのころは一億総中流だった」というような雰囲気と対になって「しかし今は経済格差の中で苦しむ人がいる」という主張がなされがちですが、実のところよく考えますと、高度経済成長期もまた今と変わらず、いや今以上に辛酸を舐めた人々がいた事実をわたしたちは忘れそうになります。「森永ヒ素ミルク事件」はその典型で、1955年6月頃、西日本一帯で乳児に発熱や嘔吐、肝臓の腫れなど原因不明の症状が相次ぎました。二ヶ月後に岡山大学医学部での調査の結果、原因がヒ素中毒だと判明、工場で製造された「森永ドライミルク」を使った乳児の被害者は12,131人、実に130人が犠牲になり、今も後遺症に悩まされている方々がいます。冒頭の支援を求めていた方もそうであり、報道番組で被害に遭われた方は「ぼくの68年は何だったのか」と言葉もキレギレに訴えます。必ずしも栄養事情がよくなかった時代せっかく授かったこどもに一流ブランドのミルクをあげたのに、結果として毒を盛ってしまったと自らを責め続ける90代の母親、他方で後遺症と格闘しながら訪問介護員の方と結ばれ子や孫に恵まれた方々もおられます。とくに被害者が高齢化した今では、瀬戸内海を臨む「被害者の家」に集い、同じ仲間と気持ちを分かちあうのが何よりの宝であると仰せでした。
本日の聖書箇所では、安息日に会堂に入って教え始められた人の子イエスの姿が描かれます。しかしこの会堂には不思議なことに「悪霊にとりつかれていた」とされる男性がおり、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。同じ福音書の5章でガリラヤ湖の対岸にある「墓場につながれた悪霊つきの男性」の物語と似てはおりますが、お話の特徴は場所が誰からも疎外された場所であると、はっきり分かる墓場であるのとは異なり、本日の箇所ではその場所が会堂であるというところです。言うまでなく会堂とは古代ユダヤ教の文化圏では暮らしの軸となります。ユダヤ教の世界で礼拝が執り行われるのはエルサレムの神殿ばかりではなく、このような会堂で律法学者が教えを広める以上、その場には地方共同体に属する様々な人々が集うところとなります。そのただなかで、この悪霊にとりつかれた人は「かまわないでくれ」と叫びます。本来はこのような発言をしなければ、ことさら人の子イエスはこの男性に注目はしません。その切なる願いが「かまわないでくれ」。無関心ではなく、目を逸らして欲しいという叫び。ここでイエス・キリストとこの男性との関わりが鮮やかになり、癒しの物語が『マルコによる福音書』で初めて記されます。いわばその共同体で隠そうとしていた弱さを通して、カファルナウムの小さな村に隠されたところの、苦しむだけではなく人々からまともに向きあわれることのなかったその人の尊厳が回復していく様子が描かれてまいります。神の救いの兆しと言わずして何と呼びましょうか。

 わたしたちは常に絶えずその時代の先入観に囚われているのだという事実を絶えず自覚しなくてはなりません。会堂にいるから集う人々はみな笑顔で健やかだ、いわば「健全だ」との思いは、わたしたちの願いに過ぎません。むしろ事実を冷静に見つめれば、様々な痛みをそこかしこに見つけます。ときにはその痛みの由来が自らのあり方に由来する場合もあるかもしれません。右肩上がりの経済成長期の中で公害があり、食品会社が起こした事件があり、その後遺症に苦しむ方々には今なおスポットライトがなかなか当たらないという現実があります。ともすればわたしたちは、どなたかを覚えて祈り、支えるわざには喜んで加わっても、祈られ、支えられるというその逆に立つ立場に感謝しているのかという問いも浮かびます。わたしたちが重んじるべきは、どのような場所にあっても、必ずその心に痛みや悲しみを負っている人がおられ、救いを授かる側に立って物事を想像する態度です。双方向の交わりが要です。

 イエス・キリストは自ら不条理な苦しみを受ける十字架にいたる道を歩まれました。それはイエス・キリストがただ単にわたしたちを一方的に救うという高みに立ってのわざではありません。わたしたちの苦しみをともに担う姿勢を最後まで貫かれたからこそ完成された救い主の癒しでした。イエス・キリストもまた「頭がおかしくなっている」今風にいえば「最強の悪霊を用いて、人々にとりついた悪霊を追い出している」との言いがかりをお受けになります。

 イエス・キリストへの服従を誓ったこの一月。神の言葉に刻まれた道をたどり、祈られる立場を喜びとしましょう。

2026年1月14日水曜日

2026年 1月18日(日) 説教

  ―降誕節第4主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「湖のほとりで」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章14~20節
(新約61頁)

讃美=  21-504(285).21-518(361).21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
   各地で相次ぐ地震。南海トラフ地震の兆しを見る人もいれば、大阪市内の上町断層に阪神・淡路の震災の深い傷を重ねる人もいます。自然災害はいのちを一瞬にして奪いますが、それに劣らぬ危機と格闘しながら生きる人々がいました。それは日々湖に網を投げて暮らす漁師。人の子イエス最初の弟子の生業はそこにありました。人の子イエスとの出会いの姿を描く物語として知られるのが『ルカによる福音書』。物語にはさまざまな伏線が張られており、その伏線をたどるとイエス・キリストの受難の折の弟子の態度が分かる仕組みになっています。本日の『聖書』箇所はそのような技巧よりも人の子イエスに従った人々の姿に注目が向けられるよう実にシンプルな筋立てとなっています。

 人の子イエスの呼びかけに応じた者、則ち最初期の弟子の名があげられます。「シモンとシモンの兄弟アンデレ」。このシモンは後にペトロとも呼ばれます。そして漁師を生業としておりました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そして続く道なりで「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」が招かれます。その四人はそれぞれ二人が兄弟でありかつ同じ湖を暮らしの場としてともにしています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは父を雇い人とともに残して人の子イエスに従っていきます。土地や家族の繋がりを人の子イエスは否定しません。しかし地域では重要であったその繋がりを一度は神に委ねて新たに歩むには人としての大きな決断が要ったことでしょう。

 しかしこの最初の弟子はイエスに従う中でまず何を見聞きし何を経験したというのでしょうか。それは自ら決断にいたった様々な思いがことごとく打ち砕かれるという痛みでした。そしてその痛みは湖に漕ぎ出す日常をはるかに凌ぐ痛みであったとともに、自らの浅はかさを突きつけられる日々ではなかったかと推し量ります。

 とは申せこの弟子たちはそのような痛みを覚えながら、叩かれながらもイエス・キリストとの関わりを否定できませんでした。ファリサイ派のような『聖書』の知識もなくこの弟子たちは、学者でも教師でもなく、日々の厳しい暮らしを営むほかなかった生活者でした。もし人の子イエスとの出会いがなければ、恐らくは今日まで語り継がれはしなかった人々でしょう。その意味ではもっともわたしたちが自らを重ねやすい人物ではあります。だからこそ、最初の弟子は救い主を前にして実に人間臭い姿を恥も外聞も無くさらけ出してまいります。

 その最たる人物がシモン。本日の『聖書』箇所よりもさらに早く文書を記し、しかも弟子と同時期に働いた使徒にパウロがおります。元来パウロは徹底した律法学者であり、その手紙でも教会を迫害していた事実を否定しない一面ももちます。この強烈な個性のぶつかり合いが『ガラテヤの信徒への手紙』に記されます。この手紙は『聖書』に納められる中でも数少なく、パウロ自らが記した文書とほぼ断定されます。この手紙でパウロはシモンを非難します。シモンがパウロとともに歩む教会を訪ね、当初はパウロの教会に集う人々、すなわち古代のユダヤ教徒も諸国の民もともに食卓を囲む集いに加わっていました。しかしエルサレムからその時代のユダヤ教への徹底さを教会に求める人々、すなわち諸国の民とは教会での食事の同席を禁じる人々が調査をしに来るやいなや、シモンは諸国の民との交わりを絶とうと尻込みをした結果、パウロと交わりを深め、ともに働いた使徒もまた巻きこまれてしまいます。その結果、パウロの導く教会は深手を負います。シモンの態度に怒り心頭のパウロは「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦の民のように暮らしているのに、どうしてこの人々にユダヤ人のような暮らしを強いるのか」と衆目を前にして叱りつけます。まことに神の愛の激しい炎とも呼ぶべきパウロの姿勢であり「イエスの焼き印を身に受けた」と語る使徒らしいと申せます。事実パウロの手紙によって目覚めた人々には有名無名を問わずイエス・キリストの福音を徹底させようとした人々の姿が瞼に浮かんでまいります。

 しかし他方でシモンは、この手紙のはるか後に記された『マタイによる福音書』16章では「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩にわたしの教会を建てる」と人の子イエスから呼ばれます。つまりこの一見すると実に不徹底に見えるペトロは決してイエス・キリストから否定されません。むしろ復活したキリストとの出会いを通して弱さを抱えた人々もまたイエス・キリストに導く橋として用いられます。使徒パウロの文書が大黒柱であるならば、ペトロはその大黒柱を軸として人々の憩う舞台を岩盤に幾層にも幾層にも重ねてまいります。仮に大地震がきたとします。揺れ動くいのちを支え、傷つき召された人々も憩う天から降り、地を貫く芯張り棒はイエス・キリスト。そこに「大丈夫だ、安心なさい」との声響き、弱さある故に集う多彩な人々。連綿と続く教会の歩みが始まります。 

2026年1月9日金曜日

2026年 1月11日(日) 説教

―降誕節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「天が裂けるとき」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』1 章9~11節
(新約61頁)

讃美=  21-529(333).461.21-24.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 飲み物の話と申しますと教会の礼拝には相応しくないかも知れませんが、『聖書』には果実としての「ぶどう」がふんだんに用いられます。そしてもちろんその実りを発酵させたぶどう酒、則ちワインをめぐる譬えも用いられます。有名なところでは「新しいぶどう酒の譬え」。最も初期に成立した『マルコによる福音書』にも次のように記されます。2章22節には「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ」との言葉です。これは人の子イエスが断食を続けるヨハネの弟子、そして一部のファリサイ派を批判しての言葉ですが、ぶどう酒へと発酵する過程で泡立つぶどう汁の話はさておき、この箇所で注目すべきは「新しいぶどう酒」が「古い革袋」を破るのは常識として当然だとする前提です。何につけても新しいものは保守的なあり方を突き詰めるにしても外部からこじ開けるにしても旧来の頑なさを破って広がっていくという理解が描かれています。

 それは『旧約聖書』『創世記』に描かれる「洪水物語」にも重なるところがあります。大洪水が引き起こされる際の描写は次のようになります。「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨は四十日四十夜地上に降り注いだ」(『創世記』7章11節)。この箇所では大規模な自然災害とは、犯した罪に無自覚な人々を滅ぼすためであるとの古代社会特有の意味づけがされております。しかし逆の見方をすれば、このように「ことごとく裂ける」という表現は、実はこの災害が罪人にあふれた世界を新たにし直し、箱舟にいるノアやセム、ハム、ヤフェトほかその家族、多くの生き物が神の恵みのもと、新たに生き直す世へと造り変えるという世界の途方もない変容をも示しています。人の目にはその場その場の局地的な状況しか目に入りません。ですからこれからどうなるかは見通しかねるところがありますが、神の備え給う時とは自然災害でさえもそのような遠大な計画のなか、地上への審判の物語から赦しへの物語へと話そのものの意味づけを転換させてしまいます。

 それでは本日の、イエスがバプテスマのヨハネから水による洗礼を授けられた場面はどのように描写されるのでしょうか。それは「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて『霊』が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。この箇所では別段「天が裂ける」という言葉を用いなくても人の子イエスの変容は分かるというものです。それではなぜ「天が裂ける」という言葉が付加されたのでしょうか。参考までに『マタイによる福音書』も『ルカによる福音書』にも「天が開く」とは記されても「裂ける」とは記されません。『マルコによる福音書』ほどの強烈なインパクトある出来事としては記されてはいないのです。

 人の子イエスがバプテスマのヨハネから水による清めの洗礼を授かるとの出来事は、とりもなおさず人の世がそのような清めを必要としている神の愛を忘れた世界であり、イエスもまたその神の愛を忘れた者とともに歩む救い主であるとの強い示しです。その驚くべき、本来であればあり得ないはずの圧倒的な神の愛の示しが何よりも「天が裂ける」との言葉には込められています。みどり子は母親の胎を破って生まれてまいりますが、今でもその時を正確に推し量ることはできません。大地にまかれた種もまた、種の殻を破って新たな芽が出てまいりますが、その時間を正確に推し量ることはできません。イエス・キリストを道としてこそ、神の愛の力であるその霊はわたしたちに豊かに注がれるのです。それはイエス・キリストが十字架で死を迎える際にエルサレムの神殿の幕が真二つに裂けるとの描写によってより鮮やかにいのちの満ちあふれが記されます。わたしたちには人の子イエスの死としか映り得ない出来事が、いのちの復活への舞台へと移る兆しです。キリストの苦難が、世の眼差しを復活の出来事へと堅く結びます。

 本日は二十歳の祝福式を礼拝で執り行います。祝福を授かるのは西村咲恵子さんです。常々この咲恵子さんのお名前にはため息が出るほどの感銘を覚えます。つぼみはその皮を裂いて、恵みの花は咲いてまいります。わたしたちはそのような出会いによって多くを学び、多くを胸に刻み、多くの謙虚さを授けられてきました。神の愛が天を裂き、鳩のように人の子イエスを包んだ出来事から始まる多くの問いかけを、わたしたちは祈りを重ねるごとに授かり続けました。『ルカによる福音書』では人の子イエスと洗礼者ヨハネとの出会いの物語の序章として、エルサレムの神殿で語られた少年イエスの言葉はマリアとヨセフには「分からなかった」とあります。神の愛の新しさとはわたしたちには直ちには理解できません。それは人の素朴な思いを引き裂きます。しかしこの「分からなさ」を尊びながら、わたしたちは神の前での自己吟味に導かれ、教会は交わりに連なる方を受け容れる「新しい革袋」となると確信します。