2025年7月26日土曜日

2025年 7月27日(日) 礼拝 説教

     ―聖霊降臨節第8主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「あなたがたの土台はどこにあるのか」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章21~29 節
(新約12頁)

讃美=21-514(449),21-458(270),Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 国政選挙が終りました。わたしたちの暮らしにまことに大きく影響する結果だとのことで、さまざまな意見が渦巻いています。しかしわたしたちはその渦巻きから引き出されてこの礼拝に集い得たことを主なる神に心より感謝します。それは決して世の現実から逃れるのでも目をつむるのでもなく、わたしたちの立つところが『聖書』に記されるところの御言葉にあるとの確信に基づいています。いつの世にもあたかも時代の寵児であるかのような人物が現れて人々の心をつかむ「キャッチーな言葉」で扇動しますが、わたしはそのような時に『イザヤ書』30章15節を思い出します。それは「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある』と」。『イザヤ書』の構成は三部から四部に及ぶと言われます。この平安の中での信頼こそが神の愛の力をもたらすのであり、だから恐れるなとの静かに語る声を聞くのです。世にある言葉は風のようにすべて過ぎ去ります。その風に吹き飛ばされないようにわたしたちは主なる神からともにあるための軛をすでに授かっています。

 ところで本日の箇所では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。「かの日」とは『新約聖書』の表現では神の愛による統治が全うされる世の終りを指しております。とりわけ福音書の書き手は、その「終末」を強く意識して救い主のあゆみと教えを書き記しています。それでは救い主イエスが世にあって信頼する父なる神に祈りを献げるときに端的にどうすればよいのかが記されています。それは(『ルカによる福音書』18章9節にある)ファリサイ派と徴税人の祈りの対比です。「ファリサイ派は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしたちはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。反対に徴税人は神殿から遠くに立ち天を仰ごうともせず胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言った、とあります。過ぎていった一週間を思い出して、わたしたちは主なる神の御前で、あたかも業績を誇るかのような高揚感に包まれるでしょうか。それとも涙に暮れる夜もあったと思い出し、か細い声で「信仰のない者を憐れんでください」と胸の奥をさらけ出すのでしょうか。

 「主よ、主よ、わたしたちは」で始まる言葉は、明らかに自らの業績を無理矢理神に認めさせようとする醜悪さが潜んでいます。先ほどのファリサイ派の祈りと表裏一体をなしています。預言も悪霊の追い出しのわざも奇跡も、そこではまったく本来の役割を果たしてはおりません。それが驕り昂ぶりに繋がるならば、預言や癒しのわざや奇跡すらも一切の意味を失うという畏怖すべき教えが記されていると気づかずにはおれません。「あなたたちのことは全く知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ!」とのイエスの声が響きます。
その後にあるのが岩の上に家の土台を建てた者と砂上に建てた者との対比です。キリストに根を降ろすとは、要はこのようなあり方を示します。雨降り川あふれ暴風が襲うなかで立つ家。どれほど小さな家だとしても、基礎を岩盤に下ろしてさえいえば家そのものの造りよりもその岩が家屋を逃さずつなぎ止めます。これこそがわたしたちの養いとするべき『聖書』の言葉であり、祈りです。世の移ろいに棹さし立つ家は、見かけは立派であったとしても先が知れています。今現在の暮らしに不安を覚えるあまり、誰もが飛びつく「甘い言葉」にすがったところで、それは渇きのあまり海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど渇きが増すにいたります。

 『イザヤ書』2章に戻るならば、わたしたちは次の言葉を見出します。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」。わたしたちが根を降ろし、土台とするべきはイエス・キリストです。わたしたちの想像をはるかに超える困難を幾つも超えて、教会の交わりは育まれ今に至っています。
心身にわたる困難がわたしたちを襲うほどに、業績という名の傲慢さが川の水に流されるほどに、わたしたちの立つ土台が問われます。だからこそ、パウロの語るとおり、弱さ、侮辱、窮乏、生きづらさ、行き詰まりの状態にあっても、わたしたちは弱いときにこそ強いと臆せず、居直りでもなく、主なる神との深い関わりに平安を授かる日々を過ごせます。主の前に立つため、少しだけ、勇気を出しましょう。イエスは世に勝っています。

2025年7月18日金曜日

2025年 7月20日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

 
説教=「求めは分かちあいにより満たされる」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』7 章 7~12 節
(新約11頁)

讃美=217,21-459(354),Ⅱ-171. 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 2025年『信徒の友』8月号が出版されました。この冊子には「日毎の糧」という欄があり、日本基督教団に連なる諸教会の名前と各々の祈りの課題、そして『聖書』の箇所が掲載されます。8月号では南海地区の教会がとりあげられ「生きづらさをかかえる方々の祈りを主なる神がお聞き届けになり、イエス・キリストの豊かな祝福と深い癒しが臨みますようお祈りください」との文章を寄せました。今の時代の痛みを抱える教会内外の関係者を覚えていただきたいとの考えから文章を送信しました。期せずしてタイミングは80年目の広島原爆忌。但し、わたしは当日の担当者の聖書講解の言葉には考え込みました。「イエスさまは、わたしたちが神さまに従うには、犠牲をはらう必要があることを教えられました」。浮かんだのは、自らに従うには犠牲が必要だという条件を本当にイエス・キリストは語ったのか、という問いなのです。

 本日の『聖書』箇所では「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門を叩きなさい、そうすれば、開かれる」とあります。何を探すのか、何のために門を叩くのかと言えば、「神の国と神の義」を求めて、です。そうすれば「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って思い煩うことはないとの、名も無い人々へ向けたメッセージが鮮やかになります。その内容はすでに空腹であり、すでに渇いており、すでに身なりすら衛生的に整えられなかった人々へ向けた喜びであり「身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」との聖句の断片的な解釈とはわけが違ってまいります。人の子イエスのもとにやってきたのは、すでに犠牲に献げるものすら持てないと失望と悲しみに暮れるほかなかった人々であり、求められるとするならば、自らのすべてを献げるほか道がなかった人々です。だからこそ本日の『聖書』箇所は次のように続きます。「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分のこどもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」。パンも魚も福音書では、その日を暮らす必要最低限の食事として描かれます。思えば『出エジプト記』で記される奴隷でさえ、魚の干物を食事として無料で支給されていたと記載されます。人の子イエスの教えの聴き手の置かれた暮らしが推し量られるというものです。

 おそらくこの場で人の子イエスが群衆、そして群衆と深い間柄にあった弟子のすべてが、その時代には律法学者を始めとしたごく一部のユダヤ教の指導者層とは異なり、文字の読み書きに際しては、恐らくは不可能か日常生活での最低限の識字能力しか持たなかった人々が大半だったことでしょう。しかしそれでも人の子イエスは「十戒」を始めとする『旧約聖書』の誡めが全うされると伝えます。それが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」との言葉です。『律法』と『預言者』とはその時代の『聖書』、すなわち、わたしたちのいう『旧約聖書』に該当する書名です。その誡めが日々の暮らしの中で実現するのは「わたしに従いなさい」と呼びかける救い主の声にたどたどしくも応える瞬間です。

 本日は国政選挙の投票日です。気がかりなのは小学生の給食メニューを案じる声よりも、多様性を否定し誰かを圧し除けて心を満たそうとする声が強まっているという現状です。わたしたちはそのような憎しみをぶつけられ苦悶している仲間に何らかの犠牲を払えなどと人の子イエスが伝えたとは考えられません。そうではなくて、あの五千人の人々が五つのパンと二匹の魚を祝福して分かちあうイエス・キリストの姿を見て、自らも手ずから持っていた粗末な食事を分かちあう群れが生まれた出来事を思い起こしたいのです。何の飾りもない、その素朴なわざには「神の国と神の義」が先取りされていたと言わずにはおれません。また略奪者に襲われ虫の息の旅人を支えたのは、同族の祭司やレビ人ではなく、時には憎しみの対象にすらなっていたサマリア人の旅人だったと思い起こしたいのです。かのサマリア人は虫の息の旅人に必要なその時代の緊急措置を施し宿屋に連れて介抱するだけでなく、2デナリオンを主人に渡してその後の治療を依頼しました。さてサマリア人は費やした時間や費用や薬品(油とぶどう酒)を犠牲だと思ったのでしょうか。そんなわけがないのです。略奪者に襲われた旅人がまた歩けるようになれば、やはりそれはサマリア人にも実に喜ばしい知らせです。イエス・キリストに従う道筋をその人の人生一代のみで全うするのは困難だとしても、必ず誰かの道備えとして用いられ、分かちあわれてまいります。神の国はそうした小さな、しかし決して消されない神の愛の交わりから始まると確信し、主は自らを犠牲とされた事実を胸に刻んでまいりましょう。

2025年7月11日金曜日

2025年 7月13日(日) 礼拝 説教

    ―聖霊降臨節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「心、神の愛の力にあふれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章24~34 節
(新約10頁)

讃美=21-342(183),461,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 汗水流して働く代りに、様々な投資信託のコマーシャルが次から次へと起きては消えてまいります。50歳を超えて気づいたのは「老後」という言葉が巷にいかに多いかというところです。コマーシャルでは年金を投資に回した結果不労所得が増えたという話ばかり。若者も額に汗する仕事ではなく投資で儲ける暮らしがスマートであると言わんばかりです。確かにお金は大切です。労働対価としても費用対効果としても見逃すわけはまいりません。それは社会を血液のようにめぐっていき、ある人の消費を喚起します。そしてそれはある人の所得となります。『新約聖書』の舞台もまた貨幣経済が主流をなす時代。そのような中で人の子イエスは「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と語り、その後には表向き実に牧歌的な「野の花・空の鳥」の教えを語ります。単純化しますと「世にあるすべての富を捨てて自然に帰ろう」という意味として受けとめがちではあります。しかしこの教えはわたしたちが考えるほどそれほど安直ではありません(近代文学の白樺派はその典型かもしれません)。6章24節にある「富」とは富や財産が偶像化された神「マモーン」を意味します。『旧約聖書』では「金の子牛」や「バアルの神」といった仕方で人々の目を眩ませてきたその神と、『旧約聖書』以来いのちを愛してやまなかった主なる神を人の子イエスは対置するのです。

 ただ悲しいかな、人は貧しくなるほど、いや、時にはどれほど富裕層に属していようともこの「マモーン」に心を奪われてしまいます。決して世の全てが富を尺度であるわけではないにも拘わらず、あたかもその数字が全てであるかのような錯覚に陥ってしまうのです。マモーンに憑依されたあまり、目に見えぬいのちの豊かさに気をとられ、そのときその瞬間でしか味わえない神の恵みに無頓着になってしまいます。

 ボンヘッファーという牧師がいました。この人は世がこぞってマモーンに惑わされ、弱い者が蝋燭の光になびく虫のように権力にすり寄るその時代に、富を「究極以前のもの」と見定めました。それは人間にとって実に大切ではありますが、それによって人命が損なわれたり戦争を始める口実になったりしてはいけないというのです。富が富本来の価値を授かるのは、究極的なお方である神に仕えてこそだ、とはっきり断言します。それによって富はマモーンとしての力を失う代わりに、富のもつ本来の役割を再発見されるというのです。その証しとして人の子イエスは実に麗しい「野の花・空の鳥」の物語を語ります。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。わたしたちは目の前に金貨を積まれたところで、その金貨がただちに食べ物になるなどとは考えられません。また食糧難の世には「たけのこ生活」といって上等な着物を農村で食べ物に換えてもらうという事態すら生まれました。「栄華を誇ったソロモンでさえ、この花の一輪ほどにも着かざってはいなかった」とあります。ダビデの息子のソロモン王は確かに統一王国を繁栄に導きましたが、それでも美しさは野の花一輪にも及ばないと語ります。日照りの中、暴風雨の中、散ってしまいそうな花びらが、やがて陽の光とともに、滴にきらめく様子をわたしたちは知っています。そこには底知れぬ感動があります。

 今わたしたちの周りでは参議院選に向けて街宣車が走り回っています。あるマイクでは給付金、あるマイクでは減税を叫ぶ声が聞こえます。しかしその背後には、生活保護や医療費をめぐる外国人差別があたかも当たり前であるかのように叫ばれ、暮らしの不安を抱える人々は石を投げつけるかのような言葉をまき散らしています。

 わたしたちはこのような実に危うそうに見える社会にあって、そのような憎しみに駆られそうな人々がイエス・キリストに示された神の恵みに注がれるよう、身も心も神の愛に満ちあふれてまいりたいと願います。イエス・キリストは「人々の噂に惑わされないようにしなさい」と世の終わりに何が起こるか気が気でない弟子たちを冷静に諫めました。「あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか」と人の子イエスが語るのは、いのちの序列を論じているのではなくて、女性であれ男性であれ、様々な多様性をもつ人々であれ、民であれ、こどもであれおとなであれ、特性をもつ人であれすべての人は老若を問わず神の似姿として創造されており、だからこそ主の御前に生きとし生けるものへの連帯責任を無条件に授かるがゆえに尊いとの証しです。マモーンへの囚われは他者への比較と見下し、またはその逆転現象としての妬みや不平しかもたらしませんが、主なる神へと眼差しを向けたとき、人の作った社会の中に暮らしながらも、その社会の枠組みを大きく超えるいのちの広がりに気づかされるのです。わたしたちはイエス・キリストに根を下ろしています。豊かな花と実りを授かりましょう。

2025年7月4日金曜日

2025年 7月6日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自らの民と結んだ誓いとは何か。今朝の『聖書』では『レビ記』19章12節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。互いに欺いてはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と「昔の人の言い伝え」として伝えられる中で文言が変えられていったであろう「聖句」があります。しかしこの「誓い」を考える上で示唆に富む物語が『旧約聖書』『士師記』にあります。『士師』とは「裁き司」とも呼ばれますが「士」「師」と漢字を分け、その文字のつく職業を考えますと合点のいくところです。いずれも目に見えない特別な信頼関係を前提にしなくては成立たない、いのちに関わる職種であり、『旧約聖書』の物語ではイスラエルの民がまた国の体をなさなかったころ、パレスチナの土地の豊かさの虜となり神を見失い、異民族からの干渉を受けますと民の中から召し出されるのが士師と呼ばれる人々がいます。士師の采配によって民衆は神の約束を思い出し、群れには秩序が回復するが、またその秩序が乱れると新たな士師が現れるといった次第です。

 その中にエフタという人物がいます。エフタは遊び女のこどもでしたから、家督を継げず、その時代のならず者、イスラエルの民の部外者(アウトサイダー)とともに日々を過ごしていました。この部外者集団のもとにイスラエルの民の長老がやってきて、武力で干渉してきた異邦の民と戦って欲しいと願います。エフタは「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出してではありませんか」と抗議しますが、終には長老の願いを聞き入れ、異民族の中でも力のあるアンモン人と戦うと決意します。しかし相手は容易に屈しません。そこでエフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口から迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽くす献げ者といたします」。果たしてアンモン人はエフタの軍門に降り、勝利の喜びに満ちた凱旋を祝いエフタの家から出て来たのは、父の勝利を祝う実の一人娘でした。エフタは衣を引き裂きながら「取り返しがつかない」と嘆きます。しかし娘はその誓いを受け入れ、友とともに二ヶ月のあいだ山々をさまよい、父の命じるままにされたとのことです。

 アブラハムが息子イサクを神に献げる物語と根本から違うのは、アブラハムの場合、主なる神の命令に従ったに過ぎず、いわゆる人身御供を望まなかったのに対して、エフタは自ら神に誓い、その悲劇を自ら招いてしまったところにあります。イスラエルの民には戦いへの勝利は喜びでしたが、エフタは人として最も尊くかつ基となる家族を勝手に担保にし、その結果に衣を引き裂き涙するばかりでした。人の子イエスがこの物語を知らないはずはありません。人の立てる誓いは完全ではなく、時に互いの都合のかけひきでもあり、その陰で涙する者が必ずいるはずだとの理解。

 だからイエス・キリストは語るのです。「『天にかけて誓うな、天は神の玉座』。『地にかけて誓うな、地は神の足台』。『エルサレムにかけて誓うな、そこは大王の都』。『頭にかけて誓うな。髪の毛一本すら白くも黒くも出来ないから』。あなたがたは『然り』には『然り』、『否』には『否』とだけ言いなさい」。

 しかしこの破れにまみれた誓いよりも、「然り」には「然り」、「否」には「否」と答えるほうが、よほど困難な時と場合があります。何らかの力関係があったときに、本来は「否」と言うべきところを「然り」と答えてしまう。また反対に「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまう。人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家でと連れていかれる夜、鶏が三度鳴く前に、ペトロはその関わりを問われましたが「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまうのです。思えば誓いに関しても、「否」か「然り」かどうかを答える場面にしても、わたしたちは十全に向きあうことなく、自分の身にその責任を負わずに、他人のせいや諸般の事情のせいにしてはいないでしょうか。ここにわたしたちが実際に身に帯びている罪そのものがあります。それは遺伝するものでもなく、因果応報でもありませんが、わたしたちが破れを抱えた人間であるその身の程を忘れると、それこそ取り返しのつかない過ちに繋がりかねません。

 しかし人の子イエスの声は、そのようなわたしたちに「もう一度やり直してご覧なさい」と静かに語りかけます。『マタイによる福音書』では、様々な過ちの結果自らを遠ざけていった弟子に向けて「ガリラヤへ行きなさい」と語りました。それこそ、救い主を前にして粉々に打ち砕かれた人々が、新たにイエス・キリストとの再会を果たす場所です。そしてその後には、キリストが自らを通して証しされた神の愛による希望がいつまでも消えずにわたしたちを照らしています。世にある責任をそれとして尊び担う中で、神の愛は時にはさわやかな風となって、わたしたちのいのちを潤してくださいます。神がお立てになった誓いはとこしえに立ちます。その誓いは決して揺るぐことはありません。