―聖霊降臨節第8主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「あなたがたの土台はどこにあるのか」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』7 章21~29 節
(新約12頁)
聖書=『マタイによる福音書』7 章21~29 節
(新約12頁)
讃美=21-514(449),21-458(270),Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
国政選挙が終りました。わたしたちの暮らしにまことに大きく影響する結果だとのことで、さまざまな意見が渦巻いています。しかしわたしたちはその渦巻きから引き出されてこの礼拝に集い得たことを主なる神に心より感謝します。それは決して世の現実から逃れるのでも目をつむるのでもなく、わたしたちの立つところが『聖書』に記されるところの御言葉にあるとの確信に基づいています。いつの世にもあたかも時代の寵児であるかのような人物が現れて人々の心をつかむ「キャッチーな言葉」で扇動しますが、わたしはそのような時に『イザヤ書』30章15節を思い出します。それは「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち返って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある』と」。『イザヤ書』の構成は三部から四部に及ぶと言われます。この平安の中での信頼こそが神の愛の力をもたらすのであり、だから恐れるなとの静かに語る声を聞くのです。世にある言葉は風のようにすべて過ぎ去ります。その風に吹き飛ばされないようにわたしたちは主なる神からともにあるための軛をすでに授かっています。
ところで本日の箇所では「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう」。「かの日」とは『新約聖書』の表現では神の愛による統治が全うされる世の終りを指しております。とりわけ福音書の書き手は、その「終末」を強く意識して救い主のあゆみと教えを書き記しています。それでは救い主イエスが世にあって信頼する父なる神に祈りを献げるときに端的にどうすればよいのかが記されています。それは(『ルカによる福音書』18章9節にある)ファリサイ派と徴税人の祈りの対比です。「ファリサイ派は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしたちはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。反対に徴税人は神殿から遠くに立ち天を仰ごうともせず胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言った、とあります。過ぎていった一週間を思い出して、わたしたちは主なる神の御前で、あたかも業績を誇るかのような高揚感に包まれるでしょうか。それとも涙に暮れる夜もあったと思い出し、か細い声で「信仰のない者を憐れんでください」と胸の奥をさらけ出すのでしょうか。
「主よ、主よ、わたしたちは」で始まる言葉は、明らかに自らの業績を無理矢理神に認めさせようとする醜悪さが潜んでいます。先ほどのファリサイ派の祈りと表裏一体をなしています。預言も悪霊の追い出しのわざも奇跡も、そこではまったく本来の役割を果たしてはおりません。それが驕り昂ぶりに繋がるならば、預言や癒しのわざや奇跡すらも一切の意味を失うという畏怖すべき教えが記されていると気づかずにはおれません。「あなたたちのことは全く知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ!」とのイエスの声が響きます。
その後にあるのが岩の上に家の土台を建てた者と砂上に建てた者との対比です。キリストに根を降ろすとは、要はこのようなあり方を示します。雨降り川あふれ暴風が襲うなかで立つ家。どれほど小さな家だとしても、基礎を岩盤に下ろしてさえいえば家そのものの造りよりもその岩が家屋を逃さずつなぎ止めます。これこそがわたしたちの養いとするべき『聖書』の言葉であり、祈りです。世の移ろいに棹さし立つ家は、見かけは立派であったとしても先が知れています。今現在の暮らしに不安を覚えるあまり、誰もが飛びつく「甘い言葉」にすがったところで、それは渇きのあまり海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど渇きが増すにいたります。
その後にあるのが岩の上に家の土台を建てた者と砂上に建てた者との対比です。キリストに根を降ろすとは、要はこのようなあり方を示します。雨降り川あふれ暴風が襲うなかで立つ家。どれほど小さな家だとしても、基礎を岩盤に下ろしてさえいえば家そのものの造りよりもその岩が家屋を逃さずつなぎ止めます。これこそがわたしたちの養いとするべき『聖書』の言葉であり、祈りです。世の移ろいに棹さし立つ家は、見かけは立派であったとしても先が知れています。今現在の暮らしに不安を覚えるあまり、誰もが飛びつく「甘い言葉」にすがったところで、それは渇きのあまり海水を飲むようなものです。飲めば飲むほど渇きが増すにいたります。
『イザヤ書』2章に戻るならば、わたしたちは次の言葉を見出します。「人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」。わたしたちが根を降ろし、土台とするべきはイエス・キリストです。わたしたちの想像をはるかに超える困難を幾つも超えて、教会の交わりは育まれ今に至っています。
心身にわたる困難がわたしたちを襲うほどに、業績という名の傲慢さが川の水に流されるほどに、わたしたちの立つ土台が問われます。だからこそ、パウロの語るとおり、弱さ、侮辱、窮乏、生きづらさ、行き詰まりの状態にあっても、わたしたちは弱いときにこそ強いと臆せず、居直りでもなく、主なる神との深い関わりに平安を授かる日々を過ごせます。主の前に立つため、少しだけ、勇気を出しましょう。イエスは世に勝っています。
心身にわたる困難がわたしたちを襲うほどに、業績という名の傲慢さが川の水に流されるほどに、わたしたちの立つ土台が問われます。だからこそ、パウロの語るとおり、弱さ、侮辱、窮乏、生きづらさ、行き詰まりの状態にあっても、わたしたちは弱いときにこそ強いと臆せず、居直りでもなく、主なる神との深い関わりに平安を授かる日々を過ごせます。主の前に立つため、少しだけ、勇気を出しましょう。イエスは世に勝っています。