2024年6月19日水曜日

2024年 6月23日(日) 礼拝 説教

    聖霊降臨節第6主日礼拝― 

時間:10時30分~



説教=「こんなはずではなかったが」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨナ書』3章6~10節
(旧約聖書  1447頁).

讃美=  74,21-204(54),21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 イタリアのヴァチカン市国、システィーナ大聖堂には、ミケランジェロによる有名なフレスコ画があります。フレスコ画とは壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描くというもので、やり直しが利かない反面、乾けば水に浸けても滲まず、保存に適しているとの特徴があります。大聖堂の祭壇には「最後の審判」が描かれますが、ちょうどその上に当たる天井には、預言者ヨナの物語が描かれます。現代人からすれば物語の最中、鯨に呑まれたように思える預言者ヨナですが、大聖堂の絵画ではスズキのお化けのような魚から吐き出された人物として描かれます。しかし『新共同訳』では四頁に満たない、『旧約聖書』の章立てでも四章に過ぎない預言者ヨナの物語が、大聖堂で「最後の審判」と関連づけられるのは一体なぜでしょうか。

 みなさまにはぜひお読みいただきたいのですが、預言者ヨナはエリヤ、イザヤやエレミヤといった『旧約聖書』の典型となる預言者とはまったく生き方が異なります。エリヤもイザヤもエレミヤも、神の招きに従ってイスラエルの民の過ちや王の判断の間違いを弾劾する一方で虐げられた人々を励まし癒やします。しかしヨナの場合は「大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」との神の呼びかけから逃れようと悪戦苦闘するところから物語が始まります。ニネベの街はイスラエルの歴史の中ではバビロン捕囚という『旧約聖書』執筆のきっかけとなる大事件に先んじて、忘れられない出来事を思い起こさせます。それはアッシリアという大帝国に国土の大部分が飲み込まれ、人々は大殺戮と狼藉を受けた結果、後に「サマリア人」と呼ばれ、ユダヤの民から差別される人々にも繋がる傷となった出来事です。ニネベはこの忌まわしい国の首都でした。言い方を変えれば『創世記』で神に逆らい滅ぼされた都市ソドムよりも罪深いとまで見なされて当然の都であり、そこに暮らす人々のもとに派遣されるなど「あり得ない!」。これがヨナの本心であったことでしょう。

 しかしそのようなヨナの本心に反して、神はヨナの乗った船を嵐に遭わせ、うろたえる船員へヨナ自らに「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい」と言わせた結果、ヨナは荒れ狂う海へと投げ込まれてしまいます。船員は「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」とヨナの犠牲を通していつの間にか主なる神の計らいに導かれていきます。「無実の者」との言葉は『新約聖書』では人の子イエスの生涯を思い起こさせます。

 海に投げ込まれたヨナは先ほど申しあげたように巨大な魚に飲み込まれ、三日三晩自らの意志による行動を中断しなくてはなりません。その後ヨナは陸地に吐き出され、「忌まわしい都」ニネベに神の審判を告げ知らせることとなります。都を一回りするのにも三日かかりました。身分の格差を問わず王侯貴族庶民全てにヨナの呼び声は響き渡り、人々は悔い改め、都は滅亡を免れます。しかしこれがヨナには気に入らないのです。「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみに富み給う神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よ、どうか今、わたしの命をとってください。生きているよりも死ぬ方がましです」と、希死念慮むきだしで怒り狂います。神に向かって「死ぬ方がまし」「死にたいくらいだ」と三度も叫ぶ預言者は分厚い『聖書』の中でもヨナくらいしかいません。しかし主なる神はそのようなヨナを宥めて物語は終ります。ヨナには「こんなはずではなかった」の連続が物語に集約されていると申せます。

 「こんなはずではなかった」とつぶやきつつ、我知らず神の救いの担い手となり、気がついたらかつて敵対していた相手でさえ主なる神にひれ伏すにいたった物語。実はこの物語には個々の恩讐の壁を越えて働く神の愛が主題となっています。人の子イエスによる「敵を愛しなさい」との教えとしても響きます。何も気負う必要はなく、気づけば神の救いを讃美する喜びが誰かのもとに届いていた。もしわたしたちがイエス・キリストを見つめ続けるならば、わたしたちもまたヨナのように「こんなはずではなかった」と思いつつも、出会いの中で誰かの行く道を遮りながら神の恵みへと向けているかもしれません。そこでは神へのつぶやきすら祝福されています。

 本日は沖縄の地上戦で組織的戦闘が終わったとされる日でもあります。現地の方々の生の声によりますと、その後の戦いの方が酷かったと申します。沖縄には内地とは異なる熱心な教会が数多あり、沖縄教区は日本基督教団の「神の櫓での見張り」の役目を担っています。「こんなはずではなかった」とのつぶやきに、神の恵みが隠されています。『ヨナ書』に関心が寄せられるのも、そのメッセージを放ち続けているからに他なりません。