ー降誕節第6主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「主イエスはあなたの逃れの場」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』 5章1~14節
(新約聖書 171頁).
讃美= 122,21-508,21-29.
自分や家族が重篤な疾病に罹患いたしますと、多額の金銭を集めてでも高額治療さえ受けたいとわたしたちは願います。それはわたしたちのいのちが自分だけのものではないと知っているからです。一般的な医療に基づく治療では困難な場合でも、漢方やその他の民間療法があれば家族のために生きる執念を燃やすというあり方もわたしたちにはあります。自らの病でなくても、わが子や家族の場合であればなおさら世界のどこへ行っても治療に専念させてあげたいと思うのが自然でありましょう。 しかし本日描かれる箇所で登場する足の萎えた人には、そのように「何とかしたい」と願う人はいなかった模様です。まことに辛いことではありますが、この人は身体に障碍を負っているだけでなく、孤独の身でもありました。「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが大勢横たわっていた」。38年もの間、この不自由な人を顧みる人はいなかったと、この人自らの言葉が示しています。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」。この人は、単に身体が動かないだけなく、人々から忘れ去られた人でもありました。障碍を抱えているだけでなく、孤独の身でありました。ただ幸いであったのは、「良くなりたいのか」という人の子イエスの問いかけを無視しはしなかったところです。完全に諦めていたのであれば、このような問いに耳を閉ざし、心さえも閉ざしてしまうものです。ですがこの名もない男性は、イエス・キリストからの問いかけに、間接的な仕方であるせよ、意志表示をしたのです。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした、とあります。実際に歩きだしたという事柄以上に、38年間の沈黙が破られ、この足萎えの人を深く顧みる人として、人の子イエスがそのそばにおられたことが何よりも嬉しかったのです。しかしその喜びは、瞬く間に周囲の人々に打ち消されます。この人が歩き出した様の喜びをともにするどころか、咎め立てをするのです。その咎め立てをする人々はこう言います。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法では赦されていない」。癒された人は憤りとともにこう語ります。「わたしを癒してくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」。咎め立てる人々は口々に「それは誰だ」「それは誰だ」と問い詰めるのです。
しばらく時が経ち、幸いにも再会した折に人の子イエスは次のように語ります。あえて感謝の言葉など求めません。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。この箇所で人の子イエスが指摘した「罪」とはいったい何なのでしょうか。障碍の原因を本人の罪か、または両親の罪かと弟子が問い尋ねる場面は確かに描かれましたが、イエス・キリストはそのような特性が「神のわざがその人に現われるため」であると、当時としては実に画期的な解釈を行なっています。ですからこの人の病が罪であったとは見なしていないはずです。何が罪かと言われるならば、それは癒しを受けたこの人が、安息日に癒しを受けた事実を喜ばない人々に対して論争を続けたところにあるのではないでしょうか。喜びをともにしてくれる人であればいざ知らず、咎め立てをする人々に半ば憎しみをもって論じ合うなどイエス・キリストに癒された喜びを最も損なうものです。このような交わりから離れるようにと伝えているようです。あのエデンで生きる幸せの秘密を、神では無い者にうっかりうち明けた人間のような真似はよせ、と伝えているのです。
残念なことにこの癒された人は後に、その恐怖からか身体を癒したのはイエスだと伝え、それにより迫害を受けるにいたりました。しかしこのようなことも人の子イエスには織り込み済みであったはずです。なぜなら「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とあるからです。イエス・キリストは、ただ神の愛をよりどころとして、どのような人もモデルとせずに黙々と癒しのわざを続けておられた様子が窺えるのが本日の箇所です。今朝の説教のタイトルは「主イエスはあなたの逃れの場」としました。それはイエス・キリストはこのような仕方でわたしたち一人ひとりを孤独にせず、過ちを問わず痛みを問いかけ、癒してくださるからです。孤独になったとき、追い詰められたとき、わたしたちはイエス・キリストの問いに答え、その懐に飛びこみましょう。この誰からも無視されていた人のように訴えを聞くキリストがそばにいる喜びがあります。