ー受難節第1主日礼拝ー
時間:10時30分~
【説教要旨】
説教=「分かちあう生き方を授かったイエス」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』4 章 1 ~ 11 節
(新約聖書 4頁).
讃美= 519,21-306,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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受難節を迎えて、わたしたちが開く『聖書』は『マタイによる福音書』の「荒れ野での誘惑」での記事です。洗礼者ヨハネとともにいるなかで神の愛である聖霊を注がれたイエスは文字通りキリストとしてのあゆみを始めます。その最中、初めに出会うのは弟子でも苦しむ人々でもなく「サタナス」または「ディアボロス」と呼ばれる悪魔からの試みです。そして荒れ野であたかもイエスにつきまとう悪魔の言葉は、奇しくもわたしたちの日々の暮らしに深く根付いているところに背筋が冷たくなります。クリスマス物語に始まる福音書だけに書き記されているところからも、その時代の教会の一般的な課題として避けて通れなかった課題を見ることができるというものです。言葉によって誘惑するところからしても何ら超常的な存在では無いことが分かります。
悪魔がイエスに向けたのは、まず「食」に関わる誘惑。極限まで空腹を覚えたイエスに悪魔は「石をパンになるよう命じたらどうか」と勧めます。翻訳の妙か「石をパンに変えてみろ」とは言わない遠回しの言葉がイエスの首をじわじわと絞めていくように映ります。人の子イエスは自らの言葉ではなく、『旧約聖書』の言葉を用いて悪魔に向きあいます。則ち『申命記』8章3節を「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」です。まだつきまといを止めない悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて『詩編』91編11~12節を引用して「飛び降りたらどうだ」と勧めます。悪魔は『聖書』を用いて自説の正当化だけでなく、人の子イエスに神を試させようとします。『聖書』の言葉を用いた自説の正当化はカルト宗教や国家首脳の国民向けテレビ演説にもよく見られる危険な振る舞いです。しかしわたしたちはこの「試みる」という重大性を見逃しがちです。なぜ重大なのかと言えば、それは神を疑うことを勧めており、わたしたちの日々にも充分あり得るところだからです。人の子イエスはこの試みそのものを『申命記』6章16節の引用で打ち砕きます。度重なる『聖書』の言葉の引用合戦にイエスはまさしく首の皮一枚で勝利していきます。
そして遂に悪魔は「非常に高い山」に連れていき「世の全ての国々とその繁栄ぶり」を見せて「自分にひれ伏せ、そうすればお前はこの繁栄全てを思いのままに操り、自分の望み通りの人生を過ごすことができる」と語りかけます。『旧約聖書』ではサウル・ダビデ・ソロモンという名君をヘブライ人は王として立てたと書き記します。しかし王の晩年はいずれもこの誘惑から袂を分かつことはできませんでした。それでは人の子イエスはどのように向きあったというのでしょうか。『申命記』6章13節を引用して「ただ主に仕えよ」と語るのです。
ところで、わたしたちはこの箇所でイエスが悪魔の誘惑一つひとつに向きあう場面ばかりに気をとられがちになるのですが、物語全体を見渡しますと、悪魔が人の子イエスに向かって囁く言葉一つひとつには、実は全く「分かちあう」「「出会う」「交わる」といった、この物語の後にイエスに出会った人々の味わう喜びが一切合切欠けている特徴に気づきます。先ほども申しましたがイエス・キリストも首の皮一枚で悪魔の誘惑に辛うじて打ち勝ちました。なぜ「辛うじて」打ち勝ったといえるのでしょうか。それは人の子イエスは、自ら決して望んでこの荒れ野の苦難を味わったわけではないからです。確かに『マタイによる福音書』では「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。しかし他方で『ルカによる福音書』では「“霊”によって引き回され」と記されています。人の子イエスは修行によって魂のステイタスをあげるために荒れ野に赴いたのでなく、神の霊に導かれ、自ら思いも寄らない仕方で荒れ野へと押し出されていく姿がそこにはあります。イエス・キリスト自らにもこの状況は人としては予測不可能であったことでしょう。そうでなければ「誘惑」など成立しないからです。しかしイエス・キリストには神の愛の力である「聖霊」がともにおり、主なる神もまたともにおられました。だからこそ、悪魔の誘惑の軸となる「独占」「独り占め」「私物化」から自由となり、世にある自らの生涯をも人々とともに分かちあう道を選んだのです。
分刻みで進む現代では時に「不器用な生き方」「損な生き方」に映る「分かちあう生き方」。しかしイエス・キリストはその生涯を貫いて「分かちあい」をわたしたちに示し、苦しみを受ける中で神の愛が世にあってどのようなかたちをとるかをお示しになりました。わたしたちのためにその身を引き裂かれたイエス・キリストの姿を偲ぶ季節、主なる神がわたしたちと無数の誘惑との間に立ちはだかり、祝福してくださっているその愛に感謝しましょう。「分かちあう生き方」を、キリストを通して授かる態度こそ神の愛の何よりの証しです。