ー受難節第2主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「もっと素直になれる生き方」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』9章35~41節
(新約聖書 186頁).
讃美= 90,21-463,21-29.
人の子イエスの生涯の描写の仕方がよく似ている『マルコによる福音書』『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』を「共観福音書」、救い主の生涯の理解に共通点が多いことからそのように呼ばれます。「共なる理解」という意味で「観察」の「観」を用います。この三部の福音書に描かれる奇跡物語の特徴とは、病に苦しんでいる人がおり、その人を人の子イエスが癒し、癒された人はその喜びを他の人々に伝えていくという、シンプルさにあります。どうしようもない苦難にある人がおり、イエス・キリストと出会い、その苦難が癒され、喜びに溢れる、という物語の展開はもはや王道も呼ぶべき順序を備えています。たとえその場で律法学者がイエス・キリストの振る舞いを咎め立てしたところで、議論はイエスとの間で行なわれ、癒された人そのものや家族によからぬ事態が及ぶという道筋は概して浮かんでまいりません。 しかしながら『ヨハネによる福音書』の場合、人の子イエスが癒しのわざを行ないますと、癒された人はともかく、癒された側の家族や係累にはさまざまな動揺がもたらされます。それは律法学者の追求が癒しを受けた人のみならず親族にも及ぶことに原因があり、癒された者も喜びにつつまれるというよりも深い戸惑いをくぐり抜け、ようやく病の回復を喜ぶにいたるという具合です。エルサレムにあるベトザタの池のほとりにいた三十八年もの間病に苦しんでいた人物の箇所にも言えますが、本日の『聖書』の記事はそもそも弟子が通りすがりに「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という実に浅薄な問いかけを人の子イエスに発したところから始まりました。「神のわざがこの人に現われるためだ」と答えた後にイエスは、地面に唾をし土をこね、その人の目に塗り、盲人が「シロアムの池に行って洗いなさい」との言葉に従ったところで見えるようになったとの物語に発端があります。この癒されたはずの盲人はその後ファリサイ派のもとに連れていかれ、家族にも追及の手が及びます。両親は「本人に尋ねてくれ、もう大人だから」というばかりで、自分とは関わりのない話だと言わんばかりの態度です。目を開かれた人は、イエス・キリストとの出会いによって単純に幸せになるどころか、世の中の見なくても済んだところを見つめなくてはならなくなり、遂には「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずだ」と答えた理由によって「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようとするのか」と会堂から追い出されます。みなさん、想像してみてください。何らかの強制力により礼拝堂から排除される身となることを。礼拝共同体からの排除は生活共同体からの排除を意味します。
このようにして目を開かれた人は、盲人であった時に味わった様々な苦労に劣らず、様々な事柄を「見なくてはならなくなり」、追放されていくという憂き目を味わう羽目に陥りました。家族も生活のし辛さへの恐怖からこの人を見捨ててしまいました。世間的には、もともと盲人であったこの人は、イエス・キリストに目を開かれることによってすべてを失ってしまった愚かな人であるとも言えるでしょう。しかしただ一点、そのような一般論と次元を画するのは、イエス・キリストとの関わりが人々の愚かさの中で際立ち、研ぎ澄まされたところにあります。その意味では目を癒されながらも排除されたこの人は、実に素直な関わりを、多くの揺らぎと複雑な環境の中でイエス・キリストとの間に授かったと言えるでしょう。
「そんなことを言うけれども」とわたしたちは誰かに訴えたくなるときがあります。説教に耳を傾けるときばかりではなく『聖書』を味わうときにも、日々の暮らしの中でも。けれども、そのようなこだわりの底が抜けたときに気づくイエス・キリストの出会いがあるのではないでしょうか。イエス・キリストとの出会いが、喜びどころか却ってわたしたちの足枷となる場合、わたしたちは暮らしやあり方を、わたしたちを必要とする何者かの眼差しから顧みる祈りを献げてみましょう。わたしたちがこの場に集うその背後にはさまざまな理由があるに違いありません。けれどもその理由一つひとつに神の愛が隠されていたとするならば、わたしたちは自分が駄目だ、自分はこうなのだと己を枠にはめる必要はなくなり、もっと身近なところにある課題、例えば身体の具合を確かめるといった事柄に気づかされます、それこそわたしたちが各々の重荷を主に委ねて、もっと素直になれる生き方ではないでしょうか。主なる神に素直な生き方とは、必ずイエス・キリストに繋がる生き方でもあります。
暮らしの思い煩いの中で、キリストへの素直さを尊びつつ、新しく各々大切なライフステージを始めましょう。