ー聖霊降臨節第15主日礼拝 ー
時間:10時30分~
説教=「上座を好む人、末席に座る人」
稲山聖修牧師
聖書=『ルカによる福音書』14 章 7~14 節
(新約聖書 136 頁).
讃美=243, 495,540.
安息日に設けられた食卓の座。今も昔も変わらないのは主賓席に始まる来賓の席の設定です。この設営が宴席を設ける側にとって注意を払わなくてはならないのは、すでに『創世記』のヨセフ物語で、ヨセフが放り込まれた牢獄に、ファラオの宴席を設営する給仕長が料理長と並んで、牢獄に繋がれているところからも分かります。もちろん本日の箇所は安息日の食卓の席ですので『創世記』のそれとは意味合いは大きく異なりますが、それでも食事の席や宴席の順序には洋の古今を問わず注意が要ります。 しかし本日の『聖書』の箇所で人の子イエスが招かれた食卓の席とはそれほどフォーマルなものではなかった模様です。何せ当初は人の子イエスを試みるために設けられたような一面さえもっていた食卓の席です。水腫の人を前にしたイエスの判断に人々は沈黙するほかありませんでした。その沈黙を破るかのように招待を受けたファリサイ派の律法学者たちが次々と食卓に着こうといたします。その席順は市井にあって尊敬されるだけでなく、食卓を設けた議員でもある人物に近い者から奥の席へと招かれるのが常でしたでしょうし、その場にいた人々はその習慣に従って座席に着こうとしたことでしょう。安息日の食卓とて世の倣いの延長線上にあることに、誰も気づいていません。そのような場の雰囲気を人の子イエスは水腫を患った人とともにいたそのままの勢いで変えてまいります。婚宴の席で上座に座るよりもむしろ末席への着席を勧めながら「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とのメッセージを分かち合います。さらには昼食や夕食の会を設けるときには友人や親類、親しい富裕層よりも、返礼のできないところに置かれた貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、つまり何らかの助けが必要な人を招くようにと語ります。食事をともにするという当時としては交わりを深めるにあたって必須ともいうべき場が、互いに助け合い支えあうことにより、より主なる神の恵みを湛えた場所となるというのです。家族に身体の不自由な人や知的に障碍をもつ人々がいたとしても、それを「罪の結果」という意味づけしか許されずひた隠しにする他なかった食卓の列席者にとっては、この教えはまさに目から鱗の落ちるようなメッセージでしたでしょうし、人の子イエスを試そうとした人々にも感銘を与えたと思われます。
ただしこのようなメッセージが繰り返し幾度も福音書に記されなくてはならなかった背後には、ローマ帝国に公認される以前より初代教会にさえ、世にあってイエス・キリストの復活を基とした福音の喜びを発信するというより、世の栄達にすり寄り同化しようとする破れがあった状況を示してもいます。『ヤコブの手紙』2章には「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたはそこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのでありませんか」と記されるからには、現代にも通じる苦悩と課題がすでに福音書の時代、イエス・キリストによる宣教と神の愛を証しする時代からつきまとっていたとも言えます。その影の出処を明らかにし、絶えずわたしたちが見直していくためには、絶えずわたしたちがイエス・キリストに立ち返る必要があります。わたしたち一人ひとりと同じように、教会もまた齢に相応しい振る舞いを重ねるためには、職務や歴史を自画自賛するのではなく、誰のためにイエス・キリストはその教えを語り伝え、神の愛を証しされ、十字架にお架かりになり、葬られて復活されたのかを問いただす必要があります。その問いただしの中で、誇るところの何もないわたしたちのために、イエス・キリストは神の愛をお示しになりました。その愛にわたしたちは深く喜ぶのです。
絶えず移ろう世にあって教会もまた絶えず新たにされてまいります。教会がそれまでの慣習を見つめ直し、多くの出会いの中で刷新されていくありかたはまことに大切ではあります。齢の積み重ねを尊び、幼子とともに喜び、互いに支え合う共同体は世にあって決して当たり前ではない交わりであると申せましょう。しかしだからこそ抱えている繊細さやデリケートさというものもあります。その実に壊れやすい繊細さが神の愛を映し出すためには、どれほど世の常識とは異なって見えたとしても、恐れずにイエス・キリストの教えと振舞いに示された道筋を確かめ、歩んでいく姿勢が求められます。上座を遠ざけ、末席を求めるあり方は、時に称賛されるどころか、人々から失笑を買う時もあるかもしれません。周囲の人々に戸惑いをもたらすかもしれません。日本社会ではどのように映るかと思い悩むかもしれません。けれどもわたしたちは食卓に招くべき人々を知っています。恐れずに堂々と、キリストに示された神の愛に背中を押されるあり方を選んでまいりましょう。神の備え給う食卓に遠慮は要りません。