2023年8月31日木曜日

2023年 9月3日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第15主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「上座を好む人、末席に座る人」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 7~14 節
(新約聖書  136 頁).

讃美=243, 495,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 安息日に設けられた食卓の座。今も昔も変わらないのは主賓席に始まる来賓の席の設定です。この設営が宴席を設ける側にとって注意を払わなくてはならないのは、すでに『創世記』のヨセフ物語で、ヨセフが放り込まれた牢獄に、ファラオの宴席を設営する給仕長が料理長と並んで、牢獄に繋がれているところからも分かります。もちろん本日の箇所は安息日の食卓の席ですので『創世記』のそれとは意味合いは大きく異なりますが、それでも食事の席や宴席の順序には洋の古今を問わず注意が要ります。

 しかし本日の『聖書』の箇所で人の子イエスが招かれた食卓の席とはそれほどフォーマルなものではなかった模様です。何せ当初は人の子イエスを試みるために設けられたような一面さえもっていた食卓の席です。水腫の人を前にしたイエスの判断に人々は沈黙するほかありませんでした。その沈黙を破るかのように招待を受けたファリサイ派の律法学者たちが次々と食卓に着こうといたします。その席順は市井にあって尊敬されるだけでなく、食卓を設けた議員でもある人物に近い者から奥の席へと招かれるのが常でしたでしょうし、その場にいた人々はその習慣に従って座席に着こうとしたことでしょう。安息日の食卓とて世の倣いの延長線上にあることに、誰も気づいていません。そのような場の雰囲気を人の子イエスは水腫を患った人とともにいたそのままの勢いで変えてまいります。婚宴の席で上座に座るよりもむしろ末席への着席を勧めながら「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とのメッセージを分かち合います。さらには昼食や夕食の会を設けるときには友人や親類、親しい富裕層よりも、返礼のできないところに置かれた貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人、つまり何らかの助けが必要な人を招くようにと語ります。食事をともにするという当時としては交わりを深めるにあたって必須ともいうべき場が、互いに助け合い支えあうことにより、より主なる神の恵みを湛えた場所となるというのです。家族に身体の不自由な人や知的に障碍をもつ人々がいたとしても、それを「罪の結果」という意味づけしか許されずひた隠しにする他なかった食卓の列席者にとっては、この教えはまさに目から鱗の落ちるようなメッセージでしたでしょうし、人の子イエスを試そうとした人々にも感銘を与えたと思われます。

 ただしこのようなメッセージが繰り返し幾度も福音書に記されなくてはならなかった背後には、ローマ帝国に公認される以前より初代教会にさえ、世にあってイエス・キリストの復活を基とした福音の喜びを発信するというより、世の栄達にすり寄り同化しようとする破れがあった状況を示してもいます。『ヤコブの手紙』2章には「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたはこちらの席におかけください』と言い、貧しい人には、『あなたはそこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのでありませんか」と記されるからには、現代にも通じる苦悩と課題がすでに福音書の時代、イエス・キリストによる宣教と神の愛を証しする時代からつきまとっていたとも言えます。その影の出処を明らかにし、絶えずわたしたちが見直していくためには、絶えずわたしたちがイエス・キリストに立ち返る必要があります。わたしたち一人ひとりと同じように、教会もまた齢に相応しい振る舞いを重ねるためには、職務や歴史を自画自賛するのではなく、誰のためにイエス・キリストはその教えを語り伝え、神の愛を証しされ、十字架にお架かりになり、葬られて復活されたのかを問いただす必要があります。その問いただしの中で、誇るところの何もないわたしたちのために、イエス・キリストは神の愛をお示しになりました。その愛にわたしたちは深く喜ぶのです。

 絶えず移ろう世にあって教会もまた絶えず新たにされてまいります。教会がそれまでの慣習を見つめ直し、多くの出会いの中で刷新されていくありかたはまことに大切ではあります。齢の積み重ねを尊び、幼子とともに喜び、互いに支え合う共同体は世にあって決して当たり前ではない交わりであると申せましょう。しかしだからこそ抱えている繊細さやデリケートさというものもあります。その実に壊れやすい繊細さが神の愛を映し出すためには、どれほど世の常識とは異なって見えたとしても、恐れずにイエス・キリストの教えと振舞いに示された道筋を確かめ、歩んでいく姿勢が求められます。上座を遠ざけ、末席を求めるあり方は、時に称賛されるどころか、人々から失笑を買う時もあるかもしれません。周囲の人々に戸惑いをもたらすかもしれません。日本社会ではどのように映るかと思い悩むかもしれません。けれどもわたしたちは食卓に招くべき人々を知っています。恐れずに堂々と、キリストに示された神の愛に背中を押されるあり方を選んでまいりましょう。神の備え給う食卓に遠慮は要りません。


2023年8月25日金曜日

2023年 8月27日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第14主日礼拝 ー

時間:10時30分~



説教=「愛は憎しみに勝つ」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』14 章 1~6 節
(新約聖書  136 頁).

讃美=66, 461,Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 ひと口にファリサイ派、または律法学者と申しましても福音書では決して十把一絡げに扱えるわけではありません。人の子イエスの教えに敵愾心を剥き出しにして、その抹殺を企てる者もいれば、イエスの『聖書』の解き明かしに賛意を表明する者もおりました。またその教えが分からないからといって端から否定するのではなく、夜半に訪ねて「新しく生まれる」との教えの真意を問いかけるニコデモのような者もおり、十字架刑に処せられた後の人の子イエスの亡骸を、社会的地位を顧みずにひきとり埋葬したアリマタヤのヨセフもまたファリサイ派であったと申します。『使徒言行録』で当初はキリスト教徒の弾圧に熱心であったサウロは「なぜわたしを迫害するのか」とのキリストの言葉と出会い使徒として伝道活動に励むこととなります。そのように一人ひとりの顔を思い浮かべたときに、各々の『聖書』の理解も様々であったことが分かろうというものです。少なくとも人の子イエスとファリサイ派とは、その時代のユダヤ教の教えである『律法の書』と『預言者の書』をともにしていたと言われます。ですからファリサイ派の人々と人の子イエスは「復活」という出来事をともに正面から受け容れておりました。

 ただし問題はファリサイ派一人ひとりの『聖書』理解と人の子イエスの教えを重ねたとき、そこにボタンの掛け違いが起きてはいなかったかというところにあります。ちなみにイスラームの場合、ラマダーンという断食の教えにあたる期間があります。この期間には陽が昇ってから沈むまでは自らの唾さえ飲み込んではならないという考えもあり、その点では徹底しているのですが、本日のファリサイ派はどうも様子がおかしいのです。と申しますのも、本日描かれるファリサイ派の議員は、保守的に考えれば何もしてはならないはずの安息日にイエスの訪問を受け容れているからです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを作り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別したのである」と『出エジプト記』の十戒にはあります。ですから、人の子イエスを食事のために受け容れたからには、議員でもあるこのファリサイ派の人物は僕(しもべ)に命じ、食卓の準備を命じていたはずです。その意味では本日登場するファリサイ派もまた、一定の解き明かしに則してイエスを迎え入れていたはずです。そこで問われるのは、その解き明かしは「何のために」という素朴な問いかけを鍵としています。

 「何のために?」。人々はイエスの様子をうかがっていた、とあります。なぜならその時、水腫を患っている病人がその中にいたからです。水腫を含めて、重い皮膚病に罹患している人は、人々の交わりからは退けられなくてはならないと『レビ記』一三章にはあります。ですから当時の常識ではこの水腫に罹患した患者はこの場にはいるはずがないのです。それにも拘わらず、「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」と複数の専門家に囲まれるようにして、この水腫が発症している患者はその場に棒立ちとなっています。実に残念ながら、この水腫の罹患者は、人の子イエスを試みるために引き出されてきた可能性が高いのです。何と酷い仕打ちでしょうか。イエス・キリストを陥れるために、人格を否定され、わざわざ安息日に見世物のように引き出されてきたこの病人。人の子イエスを陥れるための憎しみによってこの場に連れてこられたとも言えます。

 イエス・キリストはこのような傲慢な人々に「安息日に病気を治すことは律法で赦されているか、いないか」と問いかけます。イエス・キリストへの憎しみに凝り固まった人々は、その憎しみのゆえに安息日の規定を歪めましたが、イエス・キリストは「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者もいるだろうか」と語りかけます。人を辱めるかどうかという問題以前に、家族や暮しに欠かせない家畜が生きるか死ぬかの瀬戸際に置かれたら、譬え安息日といえどもあなたがたは助けるだろうというメッセージを語ります。そもそも『律法の書』が記されたのも、『聖書』の物語に則するならば、奴隷であった人々が神に解放された後、行くべき道を違わぬよう備えた教えであり、神の愛なしには解き明かしは大きな混乱を招きます。実は律法は福音の養育係なのです。イエス・キリストは病人の手を取り、病気を癒してお返しになった、とあります。この場に登場するファリサイ派の人々は、この病人の手をとることすらできませんでした。イエス・キリストが行なったわざとは、その態度とは正反対でした。貶めや蔑みに基づいた謀は、結局は恐怖という名の壁を越えることはありません。しかし手を取って癒しに専念したイエス・キリストのわざには今なお深く心を打たれます。神の愛がそこには溢れているからです。

 何かの誤解がわたしたちの交わりに生じたとき、わたしたちはあらためて相手の手をとりながら「真意はどこにあるのか」と勇気とともに問い尋ねましょう。主なる神に背を押されて育まれる交わりには、憎しみや誤解に打ち勝つ神の愛が備えられています。

2023年8月18日金曜日

2023年 8月20日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第13主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「あきらめてはならない」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』13 章 1~9 節
(新約聖書 134 頁).

讃美= 85, Ⅱ 157,Ⅱ 171.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 とある事故なり出来事があれば、必ずその原因がある。科学の分野や犯罪捜査の世界では言わずもがなではありますが、それがみだりに用いられるあまり、所謂「似非科学」に近い話をわたしたちは「みんなが言っているから」という理由によりわれ知らずして受け容れがちです。実際にはわたしたちも知らない不確実な事柄が折り重なってひとつの目に見える出来事が出るはずなのに、特定の原因だけをとりあげてその人の現状を誤解するという、関わり方として見れば何とも無責任なあり方はすでに『旧約聖書』『ヨブ記』にあるヨブの友人たちの言葉に明らかです。ともすればそれは根拠のない「陰謀論」にさえなり得ます。

 しかし実際のところ、何が苦しみで何が苦しみではないかという考え方に始まって、それはみな人によって千差万別です。さらには隣人の苦しみを説明したり、自らが諦めようとする折にそのような持論をぶつけたりするなどもってのほかであります。自然災害の原因をその地域の土地の具合や誰かの責任として尋ね求める場合に限って、自らの居場所は安全圏に置いている場合もあり、それは説教者も例外ではありません。「AだからBとなった」という話を聞きにわたしたちは礼拝に招かれてはいないのです。

 本日の『聖書』の箇所では、教えを語る人の子イエスのもとに突如として報せが入ります。それは「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」との衝撃的な話でした。この一節を見れば分かるように、総督ピラトは時に見せしめのための暴力も辞さない仕方で領地の運営にあたっていました。「ローマの平和」のためには犠牲も厭わずというのが皇帝の代官である総督の振舞です。おそらくこれはユダヤ州での暴動を抑えるためにではあったことでしょう。しかし人々がローマ帝国の暴力よりも、犠牲となったガリラヤ人を誹ったのは人の子イエスの言葉から分かります。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったからと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。人の子イエスの裁判の折には、バラバ・イエスという強盗の烙印を押された死刑囚が恩赦の対象として立たされました。おそらくその時代のローマ帝国によるユダヤの統治は決して無血では済まなかったようです。この「強盗」という言葉には今でいう「国家転覆罪」も含まれていたからです。ガリラヤの人々はピラトに殺害されたガリラヤ人にどのような印象を覚えたでしょうか。毎日のささやかな平安を脅かす者として「暴力など使うからだ」「騒動を起こすからだ」「わたしとは関係ない」と呟いたかも知れません。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ」との言葉には、犠牲者との関係を遮断するあり方を誡めるメッセージが響きます。あなたがたも同じ責めを担っているのだとの言葉です。さらには、エルサレムにあるシロアムの塔の事故で亡くなった人々も決して無関係ではないと語ります。応報論によって強化される自己責任論に、イエス・キリストは見事に釘を刺しているのです。「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる」。高圧的な制度が押しつける自己責任論をイエス・キリストは厳しく誡めます。確かに原因と結果はあるでしょう。しかし、無分別に用いられるところの因果応報の論理は結局のところ、傷つく当事者との関係を絶つ、誤った認識を深めるだけに終わります。そこには虚しい諦めと言い訳しか残らないでしょう。

 それではこの諦めと言い訳を克服する道筋はどこにあるのでしょうか。イエス・キリストは次の譬え話を話します。則ち、ぶどう園に植えた実りのない無花果を切り倒せと命じる主人の姿です。三年間も畑にデッドスペースがあるのは考えものだから捨ててしまおうというのです。けれども世話をし続けてきた園丁は主人の命令に敢えて抗議をいたします。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」。園丁はただ単に「このままにしてください」と慰留したのではありません。「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と無花果が実るべく新たな労を担おうと申出るのです。福音書で「無花果」が終末の訪れを象徴する植物だとして踏まえると、福音書が求められた時代にすでに噂された「神の愛の統治など嘘っぱちである」との不安と諦めを、イエス・キリスト自らが誡めているようです。しかしそれは、諦めに沈む人々を排除するという具合にではなく、肥料をやり、より丁寧に世話をすることにおいてであります。キリストは「神などいない」と呟く人にこそ寄り添って元気づけてくださるのです。

 「主の祈り」では「御国がきますように」と祈ります。その祈りの言葉には「神の平和」を待ち望む態度も含まれます。わたしたち一人ひとりは弱くても、神自らがキリストを通して、またキリストの名による交わりを通して違いに励ましあえるのです。身体の疲れが出やすい季節ではありますが、希望にあふれた生き方を諦めてしまうことと話は別です。体力が衰えるのと、志をすててしまおうとする気持ちは全く別の問題です。わたしたちは様々な交わりの中で、予期しない出会いの中で絶えずキリストのお世話になっています。キリストから聖霊という名の肥やしを備えられ、祈りつつ希望にあふれた道をあゆみましょう。

2023年8月11日金曜日

2023年 8月13日(日) 礼拝 説教

ー聖霊降臨節第12主日礼拝ー

時間:10時30分~


説教=「神の愛のともしびをかかげて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』12章 35~40節
(新約聖書 132頁).

讃美= 532,194, Ⅱ171.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
  本日の『聖書』の箇所では、人の子イエスが教えの中心に据えたところの神の愛による世の直接の統治がいつ訪れるのか、という福音書の書かれた時代の世にあるキリスト者の最大の関心事に、イエス・キリスト自らがお応えになるとの箇所です。「腰に帯を締め、ともしびをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。

 福音書の理解に立てば、わたしたちは人の子イエスが神の愛にあふれた生涯の果てに十字架で殺害され、三日後にキリストであることを公にされるように復活され、天に昇られたという出来事と、世の終わりにキリストが再臨され神の愛による世の統治が訪れるというその中間の時、「時の間」に立っています。神の統治の訪れは単に遅れているのではなく、すでに訪れているが、まだ始まったばかりであるとの理解です。見方を変えれば、神の統治はわたしたちの期待通りには来ないが、いつ来るか分からないとの「善き緊張」をわたしたちの信仰生活に備えてくださいます。この時の間には何が起きようとも、それは過渡期に過ぎない出来事として、つまりわたしたちがうろたえる必要のない出来事として見なされ、心を惑わさないようにと繰り返し念を押されます。

 しかし書物としての『聖書』に書いてあるという理由だけで、わたしたちはキリストに支えられた、凛とした態度を続けることができるのでしょうか。『旧約聖書』を開けばモーセはエジプトの奴隷解放を命じる神の招きに五回も戸惑いを見せ、預言者エリヤは度重なる困難に「主よ、もうたくさんです。わたしのいのちをお取りください」と呟き、預言者ヨナにいたっては、イスラエルの民を虐げた人々の都市ニネベを悔い改めさせようとの神の命令を拒絶してその招きから逃れようとします。八月は「平和聖日」に始まりました。この時期には新聞のテレビ欄でも書店でも戦争と平和に関する様々な報道番組や書籍が並びます。しかし本当に辛かった体験はなかなか言の葉にはされません。思い出すことで心の傷がぱっくりと開く可能性もあるからです。

 そのような中で思い出しますのは、神学生のころに二度ほど旅した長崎での体験でした。あまりにも人間的な問題に打ちのめされ立ち直れなくなるときがあり、安価な切符を握りしめて京都から在来線に乗っての旅でした。長崎にはアウシュヴィッツの収容所で殺害されたコルベ神父の建てたフランシスコ会修道会の「聖母の騎士修道院」があり、そこを訪ねようとしましたが、長崎原爆忌に重なり、カトリック浦上教会での平和祈願ミサとタイマツ行列にも参加しました。この行列は長崎市内の平和公園まで続きます。しかしそれは荘厳な雰囲気に決して包まれてはいませんでした。当時はまだ中核派や革マル派といった暴力革命を標榜する団体のデモ活動がシュプレヒコールとトランジスタメガホンでのかけ声とともに行なわれ、騒然としたところもありました。しかしその中をご高齢の方や女性やこどもたちが進んでまいりますと急に静かになります。団体各々も行列の主旨を分かっていたのかも知れません。坂道を上り下りする中で消えそうになるともしび。これを地域の人たち、また見ず知らずの人たちが互いに支えながら歩き続けるというその姿に、少しばかりの静寂さが訪れます。そして公園に準備された場所に火の消えたタイマツを置いて、人々は静かに各々の家へと帰っていきます。人々の顔には、原爆で召された人々への追悼や悲しみとは異なる表情が浮かんでいました。当時は被曝された人々におきましてもかなりの数の方々が生存されておられたことでしょう。

 八月六日、広島に原子爆弾が投下され、それが新聞記事となり全国の人々の知るところとなったのが八月九日だと申します。当時の新聞の見出しには「新型爆弾により広島に相当の被害」との記事以外にはさらに詳しい内容は記されるはずもありません。戦時中ということもありますが、当時の「原子爆弾」には分からないことが多すぎたのです。その後に生きた人々には個人では推し量れないほどの大きな苦しみと痛みが暮しに伴ったことでしょうが、被爆者には「原爆ですべてを失ったから後はすべてを逆手にとるしかない。困難の中で励まされてきた事もないと言えば嘘になる」と仰せになる方もおられました。もちろん、あの地獄絵図の只中を歩き、度重なる家族の葬りにより涙も涸れ果て、一時は感情を失ってしまったという「底打ち」を経てのことです。

 八月から九月へと、平和のありかたに思いを馳せる時が続きます。これは敗戦にいたるまでは無かったわたしたちの倣いです。神の愛の支配によって生まれるのはいのちの祝福と深い慰めです。胸痛む歴史に向きあいながらも、くすぶる灯心を消さないイエス・キリストに感謝しつつ、新しい一週間を過ごしたいと祈ります。


2023年8月3日木曜日

2023年 8月6日(日) 礼拝 説教

  ー聖霊降臨節第11主日礼拝ー

――平和聖日礼拝――

時間:10時30分~



説教=「神の平和があるように」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』9章 38~42 節
(新約聖書 127 頁).

讃美= こども 77「せかいのこどもは」, 531,
   讃美ファイル 3「主の食卓を囲み」,
   頌栄Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】
  山上の変容、すなわち弟子のペトロとヨハネ、そしてヤコブを連れて山に登り、そこでモーセとエリヤ、つまり『旧約聖書』の『律法の書』と『預言者の書』を代表する人物と語らうという幻が描かれた後、人の子イエスは一夜を過ごした後、山を下りました。その余韻を破るかのように大勢の群衆が人の子イエスのもとに殺到してまいります。群衆の中から一人の男が大声で呼ばわります。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」。この答えを受けて人の子イエスは直ちにはこの息子の病を癒そうとはいたしません。父親の乞い願いと癒しとの出来事の間には、奥歯を噛みしめるようにして呟く人の子イエスの言葉があります。それは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」。「共にいる」という言葉は、福音書全体では、まさしく救い主がいつも共にいてくださるとの喜ばしいメッセージであるはずですが、本日の箇所では「あなたがたと共にいる」のが「よこしまな時代」、明治訳では「信なき曲がれる代」とされてまいります。別の言い方をしますと、イエス・キリストが弟子たちとともにいる間、そして弟子が使徒として教会を育んでいく間は、父なる神の眼差しからすれば、全体としては決してよい時代ではないと語っているかのようです。

 「信仰のないよこしまな時代」「信なき曲がれる代」。その究極のかたちが戦争、それに関連して繁栄する経済により成り立つ世だとも言えるでしょうが、イエスの時代の戦争とわたしたちの時代の戦争の決定的な違いは兵器の性能が桁違いに変わり、一瞬のうちに兵士・民間人を問わず、核兵器を使わずとも地上から消し去ってしまうという点にあります。本日は78回目の広島の原爆忌でありますが、他の教会また世界の教会が覚えてメッセージを発し祈っておられますので、今朝は敢えて触れません。むしろ時間軸を逆転させて扱いたいのが8月14日に京橋・大阪城公園・森ノ宮一帯を襲った米軍機による昼間爆撃です。今の大阪城公園一帯はその時代東洋一の軍需工場と呼ばれた陸軍砲兵工廠があり、その壊滅を目指しておよそ150機の爆撃機と随伴する護衛戦闘機が飛来しました。昼の時間帯ということもあり人混みでごった返していた京橋駅には4発の1トン爆弾が落とされ爆発、一瞬で500名以上の民間人を含めた人々が殺害されたとのことです。現在この爆撃跡は破壊されたガラス工場の煉瓦塀や機銃掃射痕が残っています。ですから地域の人々にとって8月15日は戦争が終わった日というよりも、空襲で亡くなった方々を火葬に付したり重篤な方々の看病に追われたりというまことに残酷な一日だったと聞きます。こひつじこども園の文庫にあった絵本にはこの空襲の体験者の次のような言葉が絵とともに記されていました。「動員先の大阪陸軍造兵廠への猛爆撃がすんだあと、私は京橋駅へやってきました。若い駅員が高架の石垣を洗い出していました。『何ですか、それは』とわたしは聴きました。爆弾の犠牲者の肉片がこびりついていました」。この淡々と状況を当時14歳だった女学生が書き記しています。描かれた駅員の姿も今とあまり変わらず、水彩絵の具の風合いも今とそれほど変化はありません。ただ数十分前まで家族があり、会話をし、泣き笑いをし、汗を拭っていた人が一瞬で一塊の肉片になってしまうというショックを受け容れかねて、「何ですか、それは」と淡々と文章を記すほかない少女の筆先が何ともやるせないのです。日常用いる鉄道に刻まれた戦災遺構に配慮が足らなかったという意味でも、何とも言えない申し訳なさを覚えました。あのとき、そして今も、先ほど歌った「こどもさんびか」の「せかいのこどもはおともだち」という歌詞が耳について離れません。そうであれかし、ではなく、そうでなくてはならないのです。

 世にあっては今なお主イエスの忍耐の上に立つ時代なのかもしれません。けれどもその忍耐を経ながらもイエス・キリストは「あなたのこどもをここに連れてきなさい」と呼ばわります。そこで悪霊の抵抗は頂点に達しますが、イエスは汚れた霊を叱り、こどもをいやして父親にお返しになった」とあります。こどもは無事に父親のもとへと返されました。

 本日の聖日礼拝を踏まえますと、この無事に父親のもとに返されたこどもは、ただただこのこどものみに限らなかったと思われます。神の愛により統べ治められるところには、キリストとともに大勢のこどもたちがいることでありましょう。病院で生涯を全うしたこどももいれば、がれきの下で事切れずにはおれなかったこどもたちや、栄養失調で誰にも知られることなく召されたこどもたちもいました。そのようなこどもたちと、世にあるこどもたち。イエス・キリストを通して、わたしたちはすべてのこどもたちと手を結びます。この場に招かれた方々もかつてはこどもでありました。大人としてどのような道を備えるのでしょうか。キリストを仰ぎつつ、「シャーローム」と呼ばれる道を示してまいりたいと祈ります。神の平和がありますように。