―受難節第1主日礼拝―
時間:10時30分~ 福音書の物語には、人の子イエスが出会う人それぞれの痛みや悲しみを癒し、新たな道へと送り出す物語が描かれてまいります。当時は再起不能であるばかりでなく穢れに溢れた人として扱われた者、大人社会から見捨てられたところのこどもたち、当時は悪霊にとりつかれたとしか表現できない、現代でいうところの心を病んだ人々を治癒させるといった、癒しの奇跡物語が数多く記されています。福音書の書き手はそれらの癒しの出来事をイエス・キリストの十字架での受難の出来事と深く関連づけ、救い主がそのような人々の苦しみや痛みをともにし、分かちあったとの理解に立って物語を進めます。なぜ救い主が苦しみの果てに十字架で殺害されなくてはならなかったのか、との問いの中で、これらの癒しの物語が、ただの癒しの話に留まらず、キリストを通して注がれた神の愛のわざとしてかけがえのない特性を帯びることとなります。さて、いずれの奇跡物語でも描かれる、人の子イエスによる癒しの奇跡の場合、イエスは癒そうとする人をわが身に引き寄せて、その痛みや苦しみをわがものとしようといたします。救い主イエスとその時代に罪人と呼ばれた人々との極めて近い間柄が前提とされます。時にイエスは涙を流されながらその悲しみに寄り添い、悲しみを喜びへと変えてまいります。さらにいえば、人の子イエスとわたしたちの間には深く共鳴するところがなければ、その物語はなかなかに分かり辛くなります。イエスは加持・祈祷を行う行者として人々を癒すわけではないからです。
イエス・キリストが救い主であるにも拘わらず、いや救い主だからこそわたしたちの痛みと共鳴しつつその源を見通す力をどこで示されたのかを示す物語。それが本日の「荒れ野の試み」の物語です。聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった後に、人の子イエスは四十日の間悪魔から誘惑を受けます。「神の子ならこの石にパンになるよう命じたらどうだ」、その後にはイエスは一瞬のうちに世界のすべての国々を見せられ「もしわたしを拝むなら、みな国々の一切の権力と繁栄はお前のものとなる」とのささやきを受けます。そしてついに悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせ、その時代の『聖書』を引用されてまで神を試すよう唆されます。しかしこの誘惑毎に人の子イエスは「人はパンだけで生きるのではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある、と、悪魔による弄びとは異なる地平で『聖書』を神の言葉として語り、この誘惑を払い除けてまいります。悪魔の誘惑に共通するのは独占と「分かちあいの拒否」、そして「神を試す」という言葉に隠された「神への疑い」の勧めです。哲学的にではなく日常的な暮らしと不可分なその特質は、こうした誘惑が食をめぐる誘惑と切り離せないところからも明らかでしょう。しかしまだ問題が今のわたしたちにあるとするならば、この誘惑を終えた人間イエスを英雄として礼賛する、または人の子イエスが修験者のようにこの誘惑を困難な修行を克服したかのように、完結したお話としてまとめてしまうというお手軽な理解にも潜みます。英雄イエス礼賛とは、わたしたちの暮らしとは関わりなくあたかもショーを観るかのようにイエスに万雷の拍手を送りながらも他人事として済ます態度へとつながり、修行としての誘惑の克服理解とは、イエスが荒れ野で目指したのは救い主としての権能を授かるための自己実現の努力に過ぎないとする誤解です。
本日の箇所はいずれの誤解とは異なります。それは1~2節に「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を『霊』によって引き回された」との文に明らかです。イエス・キリストは自ら進んでこの荒れ野にやってきたというよりは、まさしく自らにも予期しない仕方でこの荒れ野へと導かれ、そして諸々の誘惑に深く身を晒しながら神の御言葉により辛うじて乗り越えていったという首の皮一枚のところにあります。だからこそ食の誘惑や富や繁栄に囚われる誘惑、そして神を疑う誘惑から決して自由でなかった群衆一人ひとりを癒すだけでなく、今なおわたしたちを翻弄し、判断を鈍らせる様々な誘惑を源とする不安や恐怖に、神の愛の力を通して打ち勝ってくださるのです。イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を授かって始めて出会ったのは癒しを必要とする人々ではなく、悪魔の誘惑であったというところに、リアルにイエスに出会った人々の抱えた困難、その出来事を口伝で聞きつつ『福音書』を書き記した集団、そして今この場にあって御言葉を味わうところのわたしたちの現実が見据えられています。その上で、苦難の中で誘惑に勝利したイエス・キリストが、実はわたしたちの日々の思い患いや唆しと決して無縁ではないどころか、無数の人々の癒しをもたらした事実と関係を「聖霊」また「霊」との言葉は示します。
今わたしたちは時代の大きな谷間の中にいるようです。軽々しく人のいのちのありかたに殺人教唆のような仕方で関わるコメンテイターや自称学者たちの言葉。しかしわたしたちはその言葉に耳を貸す必要は全くありません。また反応するのも時間の無駄です。誘惑に勝利する神の力は、イエス・キリストを通してわたしたちに注がれています。神の福音に心から信頼しましょう。