2022年7月28日木曜日

2022年7月31日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第9主日礼拝 ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により
しばらくの間会堂を用いずリモート中継礼拝・録画で在宅礼拝を執行します。
状況に変化があれば追って連絡網にてお伝えします。
 

説教=「悲しんでいるようで、常に喜ぶ」 
稲山聖修牧師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』6 章 1~10 節
(新約聖書331頁).

讃美= 527(1.3.5),316(1.3.4),Ⅱ 171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  細長い半島が、ギリシア本土との間の海を挟み込むところに建てられた町。これがコリントという都市でした。陸の道と海の道の境目にあたる都市ということで、すでに紀元前1000年ごろにはギリシア人が住み始め、『新約聖書』でパウロが手紙を記した時代には三度目の繁栄期を迎えます。退役軍人、解放奴隷、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が混在する多民族都市。商業都市として栄えただけでなく、陶器製造や金属加工の工業都市、文学・美術などの文化都市としても有名でした。「コリントへの道は万人のものではない」との諺がありました。これは「経済的に豊かでなければコリントへは行けない」ことを示しました。60万人も達したとされるこの都市の三分の二は奴隷であったと、パウロの旅路をたどった聖書学者・佐藤研は指摘します。
 40万人の奴隷労働によって20万人の繁栄が支えられるという、現代の日本でも想像しがたい経済格差が事実上放置される中でパウロは伝道活動を進めてまいります。もちろん『新約聖書』はまだ文書としては整っておりません。ですから数々の混乱も生じます。その中にはパウロが一年半コリントに滞在した後に起きた「コリント問題」なるハプニングがあります。具体的にはパウロの後にコリントを訪れた使徒たちを自分たちのヒーローとして担ぎあげ、分派争いに陥っていく問題です。これは『コリントの信徒への手紙Ⅰ』の冒頭に記される主題として問われ、今日のわたしたちにも身につまされる課題となります。そしてその次に生じたのは、コリント訪問の後に、パウロが一時囚われの身となった数年の間、全く異なるユダヤ教色の濃厚なキリスト者が流れ込み、教会を攪乱していきます。どうすればよいのかと、途方に暮れる人々の混乱が、奇跡的にパウロに縁あるテトスによって収拾されていきます。『コリントの信徒への手紙Ⅱ』は、こうして1~7章までが「慰めの文書」、10~13章までが「涙の文書」と呼ばれる文面で構成されていきます。このように使徒パウロによる手紙は、初代教会が抱えるところの、わたしたちの用いる「もめごと」という言葉では、決して語り尽くせない人間の混乱の中から絞り出され、神の愛によって授けられてまいりました。
 ですから2節の「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とある、かつてわたしたちの教会の標語にもなった言葉は、実のところパウロ、そしてパウロの連なる教会の戸惑いと不可分になっています。イエス・キリストに根を下ろす態度よりも虚しい風説によって教会が混乱する事態。おそらく教会には大都市コリントの三分の二を占める、様々な職種に従事する奴隷もいたことでしょう。よくあるのが、種々の手紙を読む限りパウロは都市志向が強く農村漁村への伝道への意欲がない、との指摘があるのですが、そもそも現代よりも遙かに人の数の少ない時代に数々の情報だけでなく数多の社会矛盾が凝縮される場であるところの都市で伝道に励むわざは一つの道として疎かにはできません。パウロがコリント訪問とその後のコリント問題に寄せた手紙には、大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓において、奉仕の務めが非難されないように、どんなことにも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示そうとの決意がにじみ出ています。これらの苦しみはみなその時代の奴隷が味わった苦しみであり、イエス・キリストの苦しみ。いわばその時代に栄華を極めたコリントの町の裏街道に暮らす人々の苦しみです。パウロはコリントの町の裏通りの中にこそ、イエス・キリストが示した神のわざが及んでいると明言します。「わたしたちは人を欺いているようでいて誠実であり」、おそらくはそのような噂も立ったのでしょう。「人に知られないようでいて、よく知られ」、「死にかかっているようで、このように生きており」、「罰せられているようで、殺されてはおらず」、「悲しんでいるようで、常に喜び」、「物乞いのようで、多くの人を富ませ」、「無一文のようで、すべてのものを所有しています」と語ります。これは単にその時代の奴隷の苦しみに留まらず、神の恵みに活かされる人パウロが伝道のわざの中で、苦しみや疲労や行き詰まりを知っており、悲しみも貧しさも知っていたことを示しています。たとえ自分が愚かに見えたとしても、いや、そのようなときにこそ神は新しい道と力と伸び代を備えてくださるとの確信が、イエス・キリストに根ざす日々の中で培われてまいります。「あれができた」「これができた」という言葉は他者への慢心ではなく、神への感謝と喜びとして、この手紙には編まれています。主なる神は全てをご覧になっておられます。先週わたしたちは、目を開かれた盲人が人の姿が見えるようになり喜ぶ一方で、イエス・キリストは人の世の闇を見抜いていたらこそ「この村に入ってはいけない」と自ら癒した人に諭されたという福音書のメッセージを分かちあいました。その根底には、主なる神は全てをご存じであるという、実にシンプルなパウロの確信も寄せられています。わたしたちはこの一週間、どのように過ごすのでしょうか。後から考えれば実に虚しい風説に翻弄され、また同時に、新型コロナウイルス第七波が本格化して苦しむ方々とともにあゆむ中で、一日僅かな時でもよいから日々の暮らしの中で『聖書』に沈潜し、たとえ無理解の中に佇もうとも、神の愛に満ちた智恵を授かり、その証しを少しでも立てていきたいと願っています。


2022年7月21日木曜日

2022年7月24日(日) 礼拝 説教 (コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝は休止させて頂きます)

 ー聖霊降臨節第8主日礼拝ー

時間:10時30分~

※コロナ禍対策により対面礼拝を休止し、
当日は、教会からのライブ中継と収録動画による
リモート礼拝となります。
 

説教=「主イエスにしたがうあゆみとは」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』8 章 22 ~ 26 節
(新約聖書77頁)

讃美= 519,Ⅱ195,Ⅱ171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 『新約聖書』の福音書では、実のところイエス以外にも、癒しのわざを行う人々が少なからずおりました。当時の医療と呪術が混在する時代では、身分の高い人は別として、名もなき人々におきましては、今では民間療法としか言えない医療にすがるほか、概して病の床にあって生き延びる術はありませんでした。それは『マルコによる福音書』9章38節以下で弟子ヨハネがイエスに向けた「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」との言葉に明らかです。人の子ナザレのイエスの名前を僭称、つまりイエスに許可を得ないままにその名を用いて癒しのわざを行っていた人々が少なからずいた状況を明らかにしています。その上でイエスは「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。人の子イエスの行った癒しの奇跡について気づかされる箇所です。それは「逆らわない者は味方」、そしてキリストの弟子として授かるのは、病の癒しの奇跡をしようがしまいが、一杯の水であるところにあります。もちろん水資源が豊富な日本では別の視点からの解き明しも必要かもしれませんが、報酬が一杯の水であるところには目を注ぐべきでありましょう。確かに奇跡として癒しのわざを行う者は少なくありませんでしたが、その中には病の癒しと引き換えに多額の金銭や財産を無心する者もおりました。長血を煩う女性の箇所では、12年間も出血が止まらなかった女性が病の治療を続けた結果、いっこうに癒されず全財産を使い果たしてしまったという物語が記されます。イエスの服の房に触れるとたちまちのうちに病は癒されるのですが、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と実にあっさりと応じるだけで、後は「安心して行きなさい」としか申しません。このようなあっさりとした反応からは、人の子イエスが行う奇跡は、奇跡自体というより、奇跡が指し示す事柄にあるように思えます。
 そこで要になってくるのが本日の箇所。ベトサイダに到着したところ、人々がある盲人をイエスのところに連れてきて、触れていただきたいと願いました。イエスは盲人の手をとって村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて「何が見えるか」と尋ねた、とあります。「唾をつける」という行為は、盲人がイエスのものになったことを示しますが、同時にその時代に癒し人を自称していた者であればとりたてて珍しいわざではありませんでした。むしろ少しずつ盲人の目が開けてくる描写の細かさに現実味を覚えます。つまり当初は「人が見えます。木のようですが、歩いてくるのが分かります」。そしてイエスがもう一度文字通り目に手当てをいたしますと、よく見えて癒され、何でもはっきり見えるようになったとあります。このとき、ぜひ村に戻りなさいというのであれば、物語はそれとしてハッピーエンドで結ばれて、わたしたちにも理解しやすい話になるのですが、「イエスは『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」とあります。一体なぜでしょうか。この箇所に、イエスの奇跡の指し示す事柄が隠されているように思うのです。それは、イエス・キリストとこの盲人が関わったことによって、盲人であったこの人と村人との関係性が大きく変わってしまい、ともすればこの人の身に危害が及ぶかも知れないという様々な闇を、人の子イエス自ら見抜いていたからだとは言えないでしょうか。盲人が目を開かれ、そして見たのは人の姿ですが、イエスが救い主、メシアとして見抜いたのは人の闇、また地域社会の闇であったかもしれません。『ヨハネによる福音書』9章では、生まれつきの盲人を癒す物語が記されますが、これもまた決してハッピーエンドでは終わらず、イエス・キリストと関わった事実を律法学者からあたかも犯罪者であるかのように取り調べを受け、家族からもさじを投げられる人の姿が描かれます。9章全てがその話に割かれてまいります。結果として癒しのわざを授かり光を得た男性は詮議から追い出されます。ですから『聖書』でイエス・キリストの奇跡によって病を癒された人々が、わたしたちの生活文脈の中でいう幸せな生涯をただちにたどったかと言えば必ずしもそうではないのです。イエス・キリストの奇跡と申しますものは、神の御子が十字架刑にかかり「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びにつながる奇跡であり、その道を通ってキリストが復活するという出来事へとつながっていくという、神の救いの壮大なわざに編み込まれている道筋でもあります。
 人生の窮状にあって救われたいという必死さの中で入信し、反社会的な結果に及んでしまうカルト宗教に、この国が汚染されている事実が幾度もメディアに浮かびあがってまいりました。どこまで真相を深掘りできるのか。その自浄能力が試されていますが、その実情はまことに残酷。そしてこの問題はわたしたちのすぐ隣にある痛ましさです。奇跡の何たるかをはき違えず、イエス・キリストに救いを求めてまいりましょう。救い主はイエス・キリストのみ。この確信こそ主イエスにしたがうあゆみの始まりです。



2022年7月14日木曜日

2022年7月17日(日) 礼拝 説教(コロナ禍対策により対面式の聖日礼拝を休止します)

ー聖霊降臨節第7主日礼拝ー

緊急連絡
コロナ禍対策により聖日礼拝を休止し、
当日は、収録動画のみによる在宅礼拝といたします。
みなさまに神がともにおられますように。

説教=「神から授かる愛にあふれたわざ」 
稲山聖修牧師

聖書=ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節.
(新約聖書349頁)

讃美= 313,420(1.2.3.5),543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


説教動画「こちら」←
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【説教要旨】
「人の子ナザレのイエス」がメシア、救い主キリストだと告白する群れが広がりますと、その母体を支えながらもイエスを怖れ、十字架への道に追いやった古代ユダヤ教に属する権力者は、次にはイエスに相対したその同じ態度で初代教会の交わりを弾圧しました。ユダヤ教では神から遣わされた救い主が十字架刑に処されるなどとはあってはならないことでしたし、またイエス・キリストの生涯の中で癒され、喜びに満ちて神を讃美していった人々はほぼその時代のユダヤ教社会の常識からは何らかの理由で人格を否定され排除されていたからです。教会に集う人々も同じ。しかし人の目からすればイエスはユダヤ人でしたし、その弟子もまたユダヤ人。そして当初はユダヤ教の一分派に過ぎないと見なされていた初代教会をキリスト教として確たるものとした人物もまた、かつては律法学者であり初代教会の迫害者。そして同時にキリストの声に出会い使徒の列に加わったパウロでした。
 このパウロと人の子イエスに従った弟子との間のトラブルというよりも、本格的な論争を記しているのが『ガラテヤの信徒への手紙』という書物。初代教会の使徒のうち中心的な役割を担ったのは十字架で処刑される前のイエスをよく知る者、また実際に血縁のあるなしはともあれ「イエスの兄弟」とまで呼ばれた親しい間柄にある者でした。初代教会が育まれる中で生じた課題がこの手紙ではあらわになります。それは教会の交わりに加えられキリスト教徒となるという道筋と、キリスト教がユダヤ教をベースにしていたという事柄の関係性でした。古代ユダヤ教の場合、さまざまな戒律を尊ぶわざが日々の暮らしで求められていました。中でも食物規定はユダヤ教徒とそうでない者との関係を線引きしてしまう大きな問題となっていました。「穢れたものは食べてはいけない」と、『律法』には「食べてはいけないものリスト」まで記されます。古代社会では感染症対策の意味もあったのでしょうが、その食糧を日常的に食する者もまた「穢れた者」として食卓の交わりから遠ざけられるのが古代ユダヤ教の一般的な常識でした。ですからユダヤ教徒ではない諸国の民、すなわちわたしたちも含めての「異邦人」、ユダヤ教徒から見て「異教徒」とされる人々は古代ユダヤ教の道を通ってイエスを救い主として告白するという条件が課せられていました。しかし人の子イエスの復活前のわざを直接見聞きはしてはいないものの、キリスト教徒弾圧の最中で救いの声に撃ち倒されたパウロは、律法学者としての学識や、既得権としてのローマ帝国の市民権に特別な使命を課せられて、多彩な生活スタイルを受容した人物でもありました。ですから『ガラテヤの信徒への手紙』に記されるエルサレムの教会と、パウロが事実上導いていた教会は、広くは初代教会の枠内に入っていたとしても、その内実は外見ともに全く異なるものだったことでしょう。その点でも初代教会は多くの課題を抱えていました。
 それではこの課題の克服のためにはどのような道を進めばよいのでしょうか。それは単に人間イエスの人柄や、その出自、また人としての魅力よりも、まさしくイエスがキリストとして、救い主として世に遣わされた出来事に集中し、そしてその出来事自体が神の恵みであり、人々の間の全ての壁を超えていく爆発的な力に押し出されるところにかかっています。律法を知り尽くしたパウロは、その律法を完成する救い主としてのイエス・キリストに出会いました。イエスをキリストとして喜び迎えた人もいれば、イエスのもとを去った人もいたという福音書の記事を踏まえれば、パウロの理解は人間的な制約を突破し、交わりを新たに結ぶ神の愛の力に気づかされたと言えます。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。『ルカによる福音書』10章25節にある「よきサマリア人の譬え」のエッセンスが、本日の箇所では凝縮されています。表向きは遠ざけたい内容の教会の話し合い。誰もが避けたい事柄から『聖書』の根幹というべき着想を授かるのは不思議です。
 現代では戦争や暗殺、飢餓や疫病。これが日常茶飯であったアフガニスタンで、個別の医療からより根源的な、飲むに適した水資源を得るための井戸掘りと灌漑用の水路の建設、そして開墾に尽力したキリスト者・中村哲医師を今の時代にあらためて思い起こします。今の日本のメディアが騒いでいる状況など、かの国ではニュースにすらなりません。自己責任論が渦巻く中批判を浴びながら、ともに働くスタッフが殺害されてなお現地に留まり、パワーシャベルを動かし、現地で後進の若者を育み、イスラームの礼拝堂である「モスク」と学校の「マドラサ」を建設した中村医師は、2019年12月14日に73歳で銃撃を受けて召されるまで力を尽くされました。明治期のキリスト者の覚悟を重ねます。かの地では65万の民のいのちが救われたとのこと。そしてその謦咳に接し、影響を受けた方々はわたしたちの教会の交わりにもおられます。「困っている人から助けてくださいと言われたら嫌だとは言えないでしょう」との声は人々の思想の壁を越えてあふれ、響きました。個人崇拝を煽る気はありません。むしろわたしたちにもイエス・キリストの種、神の言葉の種が蒔かれているのだと確信し、今をあゆみたいと願います。わたしたちは祈りをアーメンと結び、イスラームの民はアーミンと結びます。神さまに全てのいのちが祝福され、活かされる日々を感謝しましょう。

2022年7月7日木曜日

2022年7月10日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー聖霊降臨節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「育ての親としての聖書」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録13章13~25節.
(新約聖書238頁)

讃美= 74,285,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
「目から鱗が落ちる」「足を洗う」というような、聖書が出典だと分からないまま、日本語として定着している言葉があります。それまでのあり方を変えてしまうような驚きとの出会いを、パウロの回心に重ねて「目から鱗が落ちる」、何かよからぬ事柄からすっぱりと関わりを絶つ態度を「足を洗う」。『ヨハネによる福音書』13章1~11節の記事に基づくならば、厳密には「足を洗っていただく」となり、もちろん「感染対策のために手を洗う」とは全く異なる意味合いですが、しかしながら「足を洗う」という言葉の実行は実際にはそう容易くはありません。
 いわゆる反社会組織、例えば暴力団に属していた者が組織を退き一般人になろうといたしましょう。その場合、現在の改正暴力団対策法、また暴力団排除条例では、通称「五年縛り・三年縛り」という条項が適応されます。つまりたとえ一般人として更生しようと励んだところで「規制対象者」という枠の中で扱われ、例えば銀行口座が持てない、クレジットカードの審査を受けられない、公団住宅を含めて賃貸住宅に住めない、携帯電話を持てない等、結果として職種も制約を受けるということで、実質的に社会生活が極めて困難なところに追いつめられ、行政支援の制約なども含めて困窮した生活状況の中で再犯を犯すという悪循環が生じています。キャッシュレス化やテレワークの進んだ今では家族もまた社会生活は一層困難です。同じ道路を歩き、同じ空の下を歩きながらも、わたしたちとその人との間には暮らしに天と地ほどの格差が生じます。それは映画や小説とは全く異なります。
 本日の『使徒言行録』の箇所では、もはや律法学者サウロはパウロとして堂々とその名を書き記され、安息日にユダヤ教の会堂で『律法の書』すなわちユダヤ教の『トーラー』と『預言者の書』すなわち『ネビイーム』が朗読された後、ユダヤ教徒の聴衆を相手に励ましの言葉として、いわばユダヤ教にとっての『聖書』の解き明かしをするところに及びます。しかしこの地にいたるまで、決してパウロを含めた使徒の働きが順風満帆に進んでいたとは考えづらいところがあります。現に助手であるヨハネは異邦人伝道についていけずエルサレムに帰ってしまうという事態にいたります。律法学者であったところの学識も活かしながら、パウロは洗礼者ヨハネにいたるまでの預言者のあゆみ、そしてナザレのイエスの復活を語り、聴衆は次の安息日にも同じことを話してくれるよう頼んだと、本日の箇所の後にある42節では記されます。さらにパウロとバルナバに多くのユダヤ人と、神をあがめる改宗者がついて来たので、二人は彼らと語らい、神の恵みの下に生き続けるように勧めた、とあります。本日拝読した聖書箇所にもありますように、パウロは聖書のテキストに則してメッセージを語り、人々を断罪せずに済んでいます。むしろこの場面で気になるのは、イエス・キリストが関わったような名もなき群衆、すなわち難民・寡婦・孤児といった人々ではなくて、ローマ帝国の支配にありながらも、古代ユダヤ教の世界で生活が一定の落ち着きを見ている人々が話しの聴き手であるところです。ですからパウロは本日の箇所で人の生き死にに関する奇跡を行うよりも、救い主イエスがユダヤ教の『律法の書』『預言者の書』に記された「神の約束の成就」であると落ち着いて語ることができるのです。もちろんこれは使徒として実に重要な働きです。しかし、この箇所を記す際に『使徒言行録』の書き手は、パウロが使徒となった大きなきっかけを、今日の記事に先んじて記します。それは使徒ステファノの殉教です。その時代のユダヤ教徒に石打ちの刑で処刑・殺害されるまで、会堂ではなく、エルサレムの最高法院(サンヘドリン)で「あなたがたは神の愛の力に逆らっている」と『律法の書』『預言者の書』に則して語ったその言葉が、自らに向かって響きます。パウロの会堂でのメッセージは、あくまで使徒ステファノの渾身の証しに接ぎ木されてこそ、初めて神の力を帯びていることをわたしたちは忘れるわけにはいけません。ステファノのこの生きざまをたどるかのように、パウロはその生涯の最期、イエス・キリストの出来事に裏づけられた働きとしてローマ皇帝に直訴し、証しを立てるにいたります。
 わたしたちはこのような人々の証しを、『聖書』に記された記事を通して知り、神の愛の証しへの道が拓かれます。ものの価値判断の基準というものがあるならば、わたしたちの判断基準は『聖書』に根ざすことになります。もちろん『旧約聖書』には現代にも劣らず人の世の残酷さが浮き彫りにされるところもありますが、救い主イエス・キリストの愛は、その残酷さを覆い尽くしてやみません。刑務所の本棚には『聖書』が必ず置いてありますが、謂れなき恐怖や不安で縛られているわたしたちも世にあっては決して自由だとはいえません。暮らしの中でも汲々としているのが事実です。そのような者だからこそ、社会の片隅にあって苦しむわたしたちの隣の人、とりわけこどもたちへの支援の道筋を考えるのです。その支えがまた、イエス・キリストの恵みとして、わたしたちにも及ぶのだと感謝したいのです。パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』の中で、「『律法』はわたしたちをキリストへ導く養育係となった」と記します。わたしたちにも困窮の最中にいる人にも『聖書』は「育ての親」となり、導きを備えてくれます。