ー聖霊降臨節第5主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「キリストから授かった新しい役割」
稲山聖修牧師
聖書=使徒言行録13章1~12節.
(新約聖書237頁)
讃美= 243,Ⅱ191,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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「神の選び」という言葉は誤解されやすいものです。あたかも教会に集う人々が「選ばれた者」として、そしてそれ以外の生活様式の中で暮らす人々が選ばれなかった人として一線が引かれ、ともすると教会は歪んだ選民意識に陥りがちです。しかし教会だけでなく、教会を導いた使徒もまた、実のところ型にはまらない、多彩な賜物や出身にあふれていたことを本日の聖書の箇所は示します。バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人ルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロという人物の名が記されます。バルナバはサウロ、すなわちパウロの伝道活動の相棒として献身的に働きます。キレネ人ルキオは今でいうキレナイカ、つまり地中海に面した北アフリカは東リビア地方の育ちでした。そして領主ヘロデと一緒に育ったとされる「マナエン」という人物も登場します。その名にはヘブライ語で「慰める者」という意味がありました。領主ヘロデといえば洗礼者ヨハネの教えを喜びながらもその首を刎ねたことで知られていますが、この領主ヘロデにごく近い者から教会に招かれる者が出たこととなります。領主ヘロデとマナエンはまことに親しい間柄にありながら進んだ道は極めて対照的でした。このような多彩な人物からバルナバとサウロが互いに支えあう相棒として選ばれ、使徒としてあらためて聖霊のそそぎのもとで任職され、神の愛の証しの旅を始めます。
4節からは地中海のキプロス島に船出したバルナバとサウロが、古代ギリシアの諸都市にあるユダヤ教の礼拝堂でイエス・キリストのメッセージを証ししたと記されます。カタカナが多いので整理しないと混乱するかもしれませんが、当時の地中海世界では、魔術師または偽預言者、つまり神の名を借りて自分の野心をかなえようとした人物も相当数いた模様です。「島全体をまわってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた」とあります。地方総督パウルスが賢明であろうとなかろうと、偽預言者と昵懇の間柄にあり、この地域の政治にも浅からず関与していたこととなります。さらにはエリマという魔術師まで出て来る始末です。その事情が記された後に、エリマとパウロの対決が描かれ、その結果、地方総督もまた、キリストに結ばれたという話が繰り広げられます。
しかしわたしたちは、本日の箇所でパウロがこの魔術師との論争の中で放った言葉に、戸惑いを感じずにはおれません。それは「今こそ、主の御手はお前に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と語るや否や、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した、という箇所です。パウロが魔術師に言い放った言葉は、本当のところはかつての自分の振る舞いへの向き合いだとも受けとめられるのです。則ち、『使徒言行録』9章に記される、サウロの回心、すなわち生き方の転換の場面です。確認しますが、パウロは二つの名をもっています。それは初代教会の迫害者であったころの律法学者のサウロという名と、キリストの言葉と出会って生き方を変えられた使徒パウロという名です。律法学者サウロは初代教会に連なる人々を「ユダヤ教にあるまじき教えを奉じる者」として排除し捕縛するだけでなく、手続きを経て殺害にまで及んでいた模様です。エルサレムに連行された初代教会のキリスト者がどのような目に遭うのかはあえて書き記されなくても分かるところです。しかしサウロはシリアのダマスコへの途上で「なぜわたしを迫害するのか」との言葉を聞き、目が見えなくなり、名も知らぬ人々に手を引かれてダマスコに入ったものの、三日間視覚を失い、食べも飲みもできなかったと記されます。サウロには途方もなく大きな出来事となったキリストとの出会いの出来事は、サウロを一旦暗闇の中に導き、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器」として、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」を示すために神に用いられ、目を啓かれて洗礼を授かり、新しい人生の舞台への備えをするという箇所と内容が重なります。おそらくはパウロが魔術師エリマに向けた論争の言葉は、自分がこれまでたどってきた道でもあり、エリマにもまた、新しい道へと招かれているのだという、激励の言葉としても響きます。パウロは自分の強さではなく、弱さを魔術師エリマに語り、エリマにも招きの時と道を備えているように思えてならないのです。エリマはかつてのサウロに重なります。
わたしたちは出会いの中で伝道というわざを考えます。その際には本日の箇所でパウロが魔術師エリマに熱く語っている言葉は、上辺だけ観れば攻撃的にさえ解釈できるのです。しかしかつてのサウロの振る舞いを思い起こせば、パウロ自らが自分の弱さに満ちた、日本的な文脈であれば、本当のところは語りたくない事柄の中で、神のわざが働いた出来事を証ししています。身近な出会いの中で、わたしたちは、神がどのようにわたしたちを導き招いたか、向き合うことが果たしてできるでしょうか。それは選民意識とは対極にあります。福音を恥とせず、弱さを恥としない情熱に裏打ちされた謙遜さこそ、教会の新しい役割に必須ではないかと痛感します。論破するのではなく、自分の恥を涙とともに語る。エリマに向き合うパウロはそのように神の証しを立てました。