2022年6月30日木曜日

2022年7月3日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー聖霊降臨節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「キリストから授かった新しい役割」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録13章1~12節. 
(新約聖書237頁)

讃美= 243,Ⅱ191,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
「神の選び」という言葉は誤解されやすいものです。あたかも教会に集う人々が「選ばれた者」として、そしてそれ以外の生活様式の中で暮らす人々が選ばれなかった人として一線が引かれ、ともすると教会は歪んだ選民意識に陥りがちです。しかし教会だけでなく、教会を導いた使徒もまた、実のところ型にはまらない、多彩な賜物や出身にあふれていたことを本日の聖書の箇所は示します。バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人ルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロという人物の名が記されます。バルナバはサウロ、すなわちパウロの伝道活動の相棒として献身的に働きます。キレネ人ルキオは今でいうキレナイカ、つまり地中海に面した北アフリカは東リビア地方の育ちでした。そして領主ヘロデと一緒に育ったとされる「マナエン」という人物も登場します。その名にはヘブライ語で「慰める者」という意味がありました。領主ヘロデといえば洗礼者ヨハネの教えを喜びながらもその首を刎ねたことで知られていますが、この領主ヘロデにごく近い者から教会に招かれる者が出たこととなります。領主ヘロデとマナエンはまことに親しい間柄にありながら進んだ道は極めて対照的でした。このような多彩な人物からバルナバとサウロが互いに支えあう相棒として選ばれ、使徒としてあらためて聖霊のそそぎのもとで任職され、神の愛の証しの旅を始めます。
 4節からは地中海のキプロス島に船出したバルナバとサウロが、古代ギリシアの諸都市にあるユダヤ教の礼拝堂でイエス・キリストのメッセージを証ししたと記されます。カタカナが多いので整理しないと混乱するかもしれませんが、当時の地中海世界では、魔術師または偽預言者、つまり神の名を借りて自分の野心をかなえようとした人物も相当数いた模様です。「島全体をまわってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた」とあります。地方総督パウルスが賢明であろうとなかろうと、偽預言者と昵懇の間柄にあり、この地域の政治にも浅からず関与していたこととなります。さらにはエリマという魔術師まで出て来る始末です。その事情が記された後に、エリマとパウロの対決が描かれ、その結果、地方総督もまた、キリストに結ばれたという話が繰り広げられます。
 しかしわたしたちは、本日の箇所でパウロがこの魔術師との論争の中で放った言葉に、戸惑いを感じずにはおれません。それは「今こそ、主の御手はお前に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と語るや否や、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した、という箇所です。パウロが魔術師に言い放った言葉は、本当のところはかつての自分の振る舞いへの向き合いだとも受けとめられるのです。則ち、『使徒言行録』9章に記される、サウロの回心、すなわち生き方の転換の場面です。確認しますが、パウロは二つの名をもっています。それは初代教会の迫害者であったころの律法学者のサウロという名と、キリストの言葉と出会って生き方を変えられた使徒パウロという名です。律法学者サウロは初代教会に連なる人々を「ユダヤ教にあるまじき教えを奉じる者」として排除し捕縛するだけでなく、手続きを経て殺害にまで及んでいた模様です。エルサレムに連行された初代教会のキリスト者がどのような目に遭うのかはあえて書き記されなくても分かるところです。しかしサウロはシリアのダマスコへの途上で「なぜわたしを迫害するのか」との言葉を聞き、目が見えなくなり、名も知らぬ人々に手を引かれてダマスコに入ったものの、三日間視覚を失い、食べも飲みもできなかったと記されます。サウロには途方もなく大きな出来事となったキリストとの出会いの出来事は、サウロを一旦暗闇の中に導き、「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器」として、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」を示すために神に用いられ、目を啓かれて洗礼を授かり、新しい人生の舞台への備えをするという箇所と内容が重なります。おそらくはパウロが魔術師エリマに向けた論争の言葉は、自分がこれまでたどってきた道でもあり、エリマにもまた、新しい道へと招かれているのだという、激励の言葉としても響きます。パウロは自分の強さではなく、弱さを魔術師エリマに語り、エリマにも招きの時と道を備えているように思えてならないのです。エリマはかつてのサウロに重なります。
 わたしたちは出会いの中で伝道というわざを考えます。その際には本日の箇所でパウロが魔術師エリマに熱く語っている言葉は、上辺だけ観れば攻撃的にさえ解釈できるのです。しかしかつてのサウロの振る舞いを思い起こせば、パウロ自らが自分の弱さに満ちた、日本的な文脈であれば、本当のところは語りたくない事柄の中で、神のわざが働いた出来事を証ししています。身近な出会いの中で、わたしたちは、神がどのようにわたしたちを導き招いたか、向き合うことが果たしてできるでしょうか。それは選民意識とは対極にあります。福音を恥とせず、弱さを恥としない情熱に裏打ちされた謙遜さこそ、教会の新しい役割に必須ではないかと痛感します。論破するのではなく、自分の恥を涙とともに語る。エリマに向き合うパウロはそのように神の証しを立てました。



2022年6月22日水曜日

2022年6月26日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「足かせを断ち、自由にされた女性」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録 16 章 16~24 節. 
(新約聖書 245 頁)

讃美= 532,531(1,2,3),540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
  『旧約聖書』の『申命記』にいたるまでの『律法(トーラー)』では古代ユダヤ教で禁じた職業が定められてまいります。例えば神殿男娼や神殿娼婦といった、古代パレスチナにあった都市文明で、神殿を訪ねた者と肉体的な交わりを経て偶像との関係を深めようとする生業、そして同じく重大視されるのは、アブラハムの神以外の、他の神々と深い間柄の占い師に頼る、という態度です。「あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを怖れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わなくてはならない。他の神々の偽預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない」。つまり占いのわざそのものが、本来は人間に未だ閉ざされている神の秘義から目を遠ざけ、都合のよい未来像を描くために用いられる、すなわち偶像を刻むという態度として排除されます。例えばイスラエルの歴史物語の中では、追い詰められた初代の国王サウルが口寄せを訪ね、導きを受けたサムエルの霊を呼び寄せ、迫る危機への対応の仕方を尋ねる場面があります。呼び出されたサムエルの霊はサウル王に「なぜこのようなことをしたのか」と憤り、王の死とその率いる軍の敗北という厳粛かつ深刻な結果を伝えます。わたしたちも夜半に道端で易を生業とする人々を見かけるときもあります。概ねそれは占いを受けた人の願望に基づいて言葉がけをして話を聴くという、素朴なカウンセリングのようなものだと思われます。しかし王が相談伺いの虜になってしまい、自らの行動に責任と自信が持てなくなって見えなくなるのは、まさしく目には見えないアブラハムの神から託された民の導きという重大な任務とそのメッセージです。つまりこの問いの中では職業の貴賎ではなくて、その働きが果たして神の御旨に適っているかどうかが問われています。とりわけそこでは、イスラエルの神への信仰、また神の恵み、『新約聖書』にあってはイエス・キリストの恵みがオカルトとなるのかどうかという古代の人々にも深刻な問いかけとなります。福音は人を解放しますが、オカルトは人を心身両面から縛りあげるからです。
 イエス・キリストのメッセージ、また使徒の証しがオカルトに映るかどうかとの問題。これは初代教会では実に深刻で、『使徒言行録』にも度々描かれます。それでは「福音は人を解放し、オカルトは人を縛る」という事態は何を示すのでしょうか。
 書き手をも含めたところの「わたしたち」が祈りの場に赴く中、本日の箇所では「使徒パウロとシラス」が「占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」との言葉から物語が始まります。この女性は「占いをして主人たちに多くの利益を得させていた」とありますから、主人、言い換えれば「親方たち」の背後にはアンダーグラウンドな組織があって、その集団の資金源になり得る仕事に従事していたとも読みとれます。その過酷な暮らしの中、この女性の奴隷は占い師というよりは虐げられた女性の眼差しに基づいて「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです!」と叫びます。その姿は福音書に描かれる悪霊憑きに似ていますが、社会悪という点ではさらに質が悪いというものです。この女性は幾日もこう呼ばわった結果、パウロは「たまりかねて」とありますが、むしろ「看過できなくなり」「無視できなくなり」との言葉が適切かも知れません。「イエス・キリストの名によって命じる。この女性から出て行け」。すると即座にこの霊は出て行ったとあるのですが、本日の箇所には後日談があります。親方衆率いる集団の、事実上の金づるであったこの女性から、占いの力がなくなった結果、パウロとシラスは捕らえられ、役人に引き渡して言うには「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させている。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れも実行も許されない風習を宣伝している」。本当のところ、この告発は親方自らに帰るはずです。パウロとシラスは鞭打ちの刑に処され、もっとも奥まったところにある牢に繋がれ、足かせをはめられた、とあります。いわば極悪人扱いです。しかしその後、二人は真夜中に讃美の歌を歌い神に祈っていたと記されます。思うにこれは、金づるとして用済みとなり、結果として解放された先の女性の奴隷の喜びにも重なるのではないでしょうか。この二人の使徒は、かの占いのわざを強要されるばかりで手元には日銭すらも残らなかった、あの女性の奴隷に代わって、今や囚われの身となりました。しかしキリストが人々の過ちを背負って十字架を担われたその姿にパウロとシラスはその身を重ねながら、幾度も繰り返し「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と響いた声にイエス・キリストのわざを重ねて、少しでもイエス・キリストの使徒に相応しく証しを立てることができた喜びを、聖霊から授かったに違いありません。獄中でその讃美は響き、次の道を拓きます。
 新型感染症の流行が落ち着くに従って、原発事故の強制避難区域が解除されるに従い、またウクライナ戦争に端を発した経済活動の世界的な混乱の中で、わたしたちには心ならずもという生業に身をやつす時が訪れるかもしれません。あるいは実はそうだったと、その事実がはっきりするかもしれません。しかし主なる神はこの女性の奴隷のように足かせを断って、その身に担ってくださります。教会で献げられる讃美は、奥まった部屋で献げられる祈りでもあります。主なる神の希望は人の絶望に勝利します。

2022年6月15日水曜日

2022年6月19日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー聖霊降臨節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神さまに背中を押されてあゆむ」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録 4 章 13~22 節. 
(新約聖書 219 頁)

讃美= 30,284(1,2,3),540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
 『旧約聖書』でよく知られる話に、ダビデとゴリアテの一騎打ちの物語があります。優れた文明を誇るペリシテ人の軍勢の中から、身の丈2メートルはあるかと思われる大男が現れ、イスラエルの民を挑発します。「わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ」と響くゴリアテの声。この雄叫びを聞き、慄くイスラエルの民の戦列から出てきたのは筋骨隆々の身を甲冑で固めた兵士ではなく、羊飼いの少年でした。その姿に狼狽えるサウル王。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません」と少年ダビデは答えます。
羊飼いの生活が兵士に劣らず過酷なことを物語るとともに、兵士以上に気を張って羊を護り、時にはいのちがけで天敵の猛獣から羊を取り返すのが羊飼いの生業であったことを偲ばせます。そうです。ダビデがゴリアテを討ち取れたのは、神に祈りを献げながら日々の暮らしの中で人間よりも遥かに強大な天敵の猛獣から羊を守ってきたところにその理由があります。どれほどゴリアテが脅したところで、吼えたける獅子や襲いかかる熊に較べれば恐れるに足らず。ダビデに神の霊が宿っていた証しの物語です。
 さて本日の箇所では、エルサレムで神の愛の力、すなわち聖霊のそそぎのもとでイエス・キリストの復活の出来事を証しするペトロとヨハネがいます。そのさまを知った祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々に捕縛され、一晩牢に入れられたとのエピソードが先行して記されます。そして翌日、やはり議員、長老、律法学者がエルサレムに集まり、大祭司アンナスとカイアファ、そしてヨハネとアレクサンドロといった大祭司一族が集まり、ペトロとヨハネを取り囲んで「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問します。その尋問に答えた後の二人の使徒の態度に、ある者は感じ入り、ある者は驚くといった次第が記されます。肝心なのは「二人ともイエスと一緒にいたものである」と分かり、また、不自由な足を二人に癒された男性も傍に立っていたところで、その時代の古代ユダヤ社会の最高権力者でさえ反論できなかったという物語。結局この居並ぶ権力者は、使徒がなしとげた出来事の影響に身震いしながら、それでも足を癒された男性の話が民衆に影響しないように、事実上宣教活動を禁じます。しかしペトロとヨハネは答えます。「神に従わず、あなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうかを考えてみよ。これまで見聞したことを話さずにはおられようか」と一歩も退きません。「議員や他の者たちは、二人をさらに脅してから釈放した」とありますが、その理由とは「皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかった」と記されます。
 しかし考えてみれば不思議な話です。議員や大祭司の権力をもってすればペトロとヨハネの身の上などどうにでもできたはずで、事実『使徒言行録』には「殉教」という仕方で生涯を全うした使徒の名前も記されます。サドカイ派や議員、大祭司からすればペトロとヨハネは自分たちの赦しを得ずに好き勝手に救い主イエスの証しを立てメッセージを語っているわけですから、より厳格な処分もできたはずです。けれども彼らには使徒をそのようにあしらうことはできませんでした。さらには、エルサレムの神殿の「美しい門」という場で癒された男性は40歳を過ぎていた、とあります。この時代でいえば、とうに平均寿命を過ぎていますから、癒したところで実社会で何がどうなるわけでもない、有用かどうかというこの世の視点からすれば話題にすら上らない男性でした。しかしこの有力者たちがペトロとヨハネの宣教活動にとどめを刺せなかったのは、癒された男性も含めての「民衆を恐れていた」というその一点に絞られます。大祭司も律法学者もサドカイ派の人々も、もとはといえば民衆を神の備えた道にふさわしく導く羊飼いとしての力を授けられていたはずです。しかし実際に恐れているのは、本来は羊の群れとして導くべきところの民衆であり、神はその眼中には入りません。エルサレムの権力者たちには、ナザレのイエスはキリストではなく十字架で呪われた者のはずでした。しかしその思惑は大きく外れ、民衆にとって羊飼いの役目を果たしているのは、今や「無学な普通の人」に過ぎない、しかし聖霊に背中を押されて語るペトロとヨハネであり、なおかつその影響は民衆に広まっていくという渦巻に巻き込まれていきます。
 聖霊降臨節の第三主日。『使徒言行録』の物語を聴きとるにあたって、わたしたちはあまりにも議員や大祭司のようなありかたに凝り固まってはいないかどうかを神の前に吟味してみましょう。イエス・キリストは99匹の羊を青草の原で主なる神に委ね、迷い出たところの一匹の羊を探し出し、獅子の牙や熊の手から奪い返す救い主でもあります。たった一匹の羊の声が、99匹の羊に大いなる警鐘となっているのを聞き漏らさないお方です。羊飼いイエス・キリストは羊の群れを護るために自由自在に、流れる水のようにそのかたちを導いていくお方です。わたしたちがわれ知らずして藪に潜む熊の近くに踏み入れたとき、神様はわたしたちの背中を押し、救い出します。社会での立場は移りゆく世の責任のみを意味します。まずいのちを愛する神を見つめ祈りましょう。


2022年6月8日水曜日

2022年6月12日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第2主日礼拝ー
―子どもの日(花の日)礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「神さまの平和がやってくる」 
稲山聖修牧師

聖書=マルコによる福音書 1 章 9~11 節. 
(新約聖書 61 頁)

讃美= こども 132,こども 94,
   ラララジョイジョイ,こども 114.
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【説教要旨】
※「こどもの日・花の日礼拝」の礼拝説教のメッセージです。
 広場でたくさん群れていて、餌をついばんで食べる鳥。糞をたくさんして迷惑をかける鳥。今ではハトというとそんなイメージしかもてないかもしれません。けれどもこれは人間が、木を切り倒してむやみに街を造ったり、工場を建てたり、農薬を使ったりしたことで、天敵のオオタカやハヤブサといった鳥がみるみるうちに減ってしまったのが理由です。けれども自然界の天敵がいた時代でもハトは一度にたくさん卵を産んで育っていくので、聖書の世界では決していやな鳥だとは思われませんでした。

 たとえばみなさんは「ノアの箱舟」のお話を知っていますか。人間が悪さばかりしているので、嘆き悲しんだ神さまは、大洪水を起こして地上のいきものをすべて失くしてしまおうと考えます。しかし悲しくて辛い世界を慰めるために、ノアという正直な人に大きな箱舟を造らせ、家族だけでなくすべての動物をのせて洪水から守るというお話です。四〇日四〇夜雨が降り注ぎ、洪水は四〇日も続きます。この洪水で地上のあらゆるいきもの、つまり鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えたといいますから、とてつもない災害だったことが分かります。けれども神さまはノアを助けるために洪水を終わらせ、そして雨も降りやませます。すると少しずつ地面が現われてきました。洪水が終わったことを知りたいノアは、箱舟からハトを放ちます。するとハトはオリーブの枝をくわえて戻ってきました。オリーブは洪水が終わっていなければ枝を張りません。ですからノアはようやく災害が終わったことを知って安心します。いきもののいのちを奪うという大災害の終わりを告げたハトは、時の経つうちに平和のしるしになりました。「二度と滅ぼすことはしない!」と神さまはすべてのいのちと約束しました。

 さきほどお読みした聖書のお話、イエスさまがヨルダン川でヨハネという人から洗礼を授かったというお話です。ヨハネが人々に行っていた洗礼とは、悪いことの多い世の中で、わたしは心も身体も汚くなってしまった、汚いと言われて悲しむ人々を励ますための洗礼でした。あなたは決して汚い人ではないと神さまは言っているよ、清めてくださるよというしるしです。イエスさまも一緒になって、この洗礼を受けました。ヨハネは驚きましたが、イエスさまは受けさせてくださいと言いました。わたしたちと同じように生きる人のために、自分もその中にて、神さまの愛を伝えて救わなくてはならないと強く祈っていたからです。ドボン!とイエスさまは水の中に入りました。あの洪水で沈んでいった人やいきものの悲しみを分けあうような姿でした。

 そして水の中からあがるとすぐ、空から神さまの愛の力がハトのような姿でやってくるのをご覧になりました。霊といえば何のことか困ってしまいますが、聖書では霊とはお化けのことではなくて、びゅうっと吹いていく風のように、大人が作ったいろいろな壁を越えていく神さまの愛の力を示しています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声が響きました。

 イエスさまにはハトのように見えた、神さまの愛の力。それはイエスさまが伝えた神さまの平和をつくります。おともだちのみなさんも知っているように、今は世界中で戦争が起きています。一番悲しい思いをするのはみなさんと同じ年のこどもたちです。お父さんやお母さん、おうちの人がいなくなってしまったり、どこかに売られてしまったり、ごはんも食べられず、お水も飲めず、お医者さんにもいけないおともだちがたくさんいます。けれども神さまは必ず悲しい出来事を終わらせます。神さまの平和はミサイルやドローンではこないのです。神さまがみんなにすべてのいのちを愛する気持ち、大切に思う気持ちを注いでくださって、やってくる平和です。世界のおともだちと手をつないで、いっしょに遊べる日が来る日は必ず来ます。そしてそのために何かできないかなと祈っていきましょうね。

2022年6月2日木曜日

2022年6月5日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第1主日礼拝ー

―ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂


説教=「風に吹かれて」 
稲山聖修牧師

聖書=使徒言行録 2 章 1~13 節. 
(新約聖書 214 頁)

讃美= 186(1.3.4),500,540.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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【説教要旨】
 ボブ・ディラン(Bob Dylan)というミュージシャンをご存じでしょうか。1941年アメリカ合衆国生まれ。ユダヤ教徒でもあるということからおそらくは聖書への造詣も深く、2016年には歌手としては初めてノーベル文学賞を受賞し世に驚きをもたらしました。このミュージシャンは1962年に『風に吹かれて(Blowin’in the Wind)』を発表し、世界中で歌われました。
How many roads must a man walk down Before you call him a man ? How many seas must a white dove sail Before she sleeps in the sand ?  Yes, and how many times must the cannonballs fly Before they’re forever banned ? The answer, my friend, is blowin’ in the Wind  The answer is blowin’ in the wind: 
「どれだけ道を歩いたら人と認められるのか どれだけ海を渡ったら鳩は羽を休められるのか どれだけ弾が飛び交ったら 永久に禁止されるのか その答えは 友だちよ 風に吹かれ続けている(邦訳 中川五郎)」。わたしたちが気づかなかったり、顔を背けたりしている苦しみや悲しみがそこにはあるのだと吹かれる風につつまれる中で示されているという、豊かにその意味を解き明しできる名曲です。
 過越の祭から50日を数える日を五旬節として盛大に祝っていたユダヤ教の世界。モーセがシナイ山で十戒を授かったことを覚えての祭りでした。この50という数字を踏まえて聖霊降臨の出来事が起きた出来事を代々の教会はペンテコステと呼びます。ちなみに英語で五角形はペンタゴンと申します。アメリカ合衆国の国防総省がペンタゴンと呼ばれる理由としてはその建物のかたちが五角をなしているからです。ペンテコステが神の絶対的な平和を実現する神の愛の注ぎと交わりを祝う日であるとすれば、厳めしくそびえ立つペンタゴンは世に戦あるところ何らかの影を落としています。ペンテコステの出来事が「風」に示される神の自由な霊のわざを示すのですから、現代のペンタゴンとはまことに対照的です。
 弟子たちは人の子イエスが世の生涯を十字架と復活の出来事の中で全うして天に昇る中で、自分たちの鈍感さや臆病さ、語られる神の言葉への誤解やキリストの苦難のあゆみに顔を背け、忘れようとしていたか、気づかされたに違いありません。イエスが最後の晩餐を囲んだのは過越の祭、エジプト脱出を祝う祭でしたから、その後十字架で処刑されて概ね50日。その中で弟子は文字通り風に吹かれて、キリストの全生涯の示した事柄に突き動かされていく衝動に駆られていきます。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」。ときに『旧約聖書』の中で「炎」とは「水」と同じく清めを意味しますので、弟子たちの言葉が清められていくさまが劇的に描かれます。言葉は生きざまなしには成り立ちません。弟子の生き方もまた、この箇所では大きく転換させられていると受けとめられます。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに話し出した」と申します。
 これは何も突然、弟子たちが超常現象のようにマルチリンガルになったと言おうとしているのではありません。キリストの愛が注がれる中で、弟子たちの抱えていた傲慢さや頑なさが根底から打ち砕かれて新たにされ、誰に対してでも謙遜に仕え、神の言葉に聴き従うことで、世の民全てに通じる生き方を体得した結果、「使徒」つまり教会の導き手でありキリストの生きざまと教えの伝え手となったことを示しています。パルティア、メディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方に住む者、イタリアのローマ、ユダヤ人、生涯の途中でユダヤ教徒となった者、クレタ、アラビアから来た者...「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。つまり、諸国の民の壁となりがちな言葉やライフスタイルの違いが、意思疎通の障壁にはならず、それぞれの違いは否定されないままで違いに交わりあえる事態への驚きと喜びを、人々はエルサレムで目の当たりにする場面が描かれます。ただしこの箇所でもまだ現実として神の愛を伝えるわざが困難に満ちていることを示す人々がいます。それは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る者もいたとある通り、聖霊降臨の出来事を傍観しては皮肉っぽく評論している人々もいた、ということなのです。この人たちにはまだ、あなたもイエス・キリストの出来事の当事者なのだとのメッセージは届いていません。 
しかし。そのような人々もまた、人の設けた垣根を越える風に吹かれ続けています。『風に吹かれて』という歌は、日本では時代や社会に対するプロテストソングとして歌われてきた面があるのと同時に、神の平和をもたらす聖霊の力を尋ね求めていく人々の歌であるとも聴きとれます。たとえ言葉が違っても、たとえ身にまとう服が異なっても、悲しみに涙ぐむこどもたちの手を握ることができます。また『使徒言行録』10章9節からは、わたしたちが交わりを深める場合の最大の障壁となる「食のしきたり」と関わりつつ、すべてのいのちが祝福される様子が描かれます。世の全ての人々と食卓を囲み、分かちあう時の訪れを待ちましょう。